第97話 元夫
「俺たちは、もう家族なんだ。夫婦なんだ。お前は……俺の、大事な人だ。一人で抱え込むな。お前の悩みも、苦痛も、全部まとめて俺が引き受けてやる」
だが、シグルーンは強い女だった。
娘たちの手前、気丈に振る舞おうと、ゆっくりと俺から身を離す。
「あとで話す。ひとまず、食事に、しよう」
湖畔でのピクニックは、重く、ぎこちない空気に包まれていた。
空はどこまでも青く、湖面はキラキラと輝いている。
それなのに、俺たちの間に流れる時間は重かった。
「ママ、これ、おいしいよ!」
クータルが、ピヒラが作ったサンドイッチを頬張りながら、無邪気にシグルーンに話しかける。
「……そうか」
シグルーンは、ただ短く応えるだけだった。
サンドイッチにほとんど口をつけず、ただ、湖の向こう側を、虚ろな目で見つめている。
そのただならぬ様子に、ミーシャもピヒラも、何かを察したように口数を減らしていった。
楽しいはずのピクニックが、まるで通夜みてえな雰囲気だ。
俺は、ただ黙って、そんな彼女の横顔を見守ることしかできなかった。
◇◇◇
食事が終わると、俺は娘たちに向かって、努めて明るい声を出した。
「よし、お前ら。少し、向こうで遊んでこい。ただし、あまり遠くへ行くんじゃないぞ」
「「「はーい!(にゃ!)」」」
娘たちが、きゃっきゃと笑いながら駆け出していく。
娘たちの見張りはソルヴァとルーミに頼むことにした。
小さな背中を見送り、俺はシグルーンの隣に、そっと腰を下ろした。
「……シグルーン」
俺が静かに声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
「二人きりだ。もう、無理はするな」
俺は何も言わず、力強く抱き寄せた。
「大丈夫だ。話せ」
シグルーンは、懐から例の手紙を取り出した。
「……読んでくれ」
俺は無言で受け取り、その文面に目を通し始めた。
「『シグルーン様へ……私は、数年前に亡くなりましたウィッカーデイル孤児院の院長、アクセラの一人娘、アイノと申します』……」
俺がAランク冒険者として旅をしている最中に、亡くなったという話はきいていた。
何度か墓参りにも行ったが、最近ではご無沙汰だった。
とにかくやさしい人で、いつもにこにこしていた。
そんなことを思い出した。
その娘からの手紙ということか……。
俺は院長の娘とは面識がなかったと思う。
「『今回相談したいのは、父の遺志を継ぎ、はじめた孤児院についてなのです。シグルーン様の長年のご支援のおかげで、子供たちを育てることができていました。しかし……ひと月ほど前に赴任してきた新しい領主が、私達に立ち退きを迫っております』」
すべてが初耳の話だった。
院長の娘が孤児院を開いているというのも初耳だし、シグルーンが支援をしていた、というのも初耳だ。
俺は、シグルーンの横顔を見る。
彼女は、ただ固く唇を結んでいた。
「『……そのやり口は、十数年前に父が、ウィッカーデイルの土地の権利を盾に、ある貴族から脅迫を受けていた時と、あまりにも似ているのです。……どうか、この理不尽に立ち向かうための、あなた様のお力とお知恵を、ほんの少しでもお貸しいただけないでしょうか。これが、私からの、最後の願いです』」
読み終えた俺は、手紙を静かに畳んだ。
◇◇◇
俺は、黙ってその全てを、頭の中で反芻していた。
手紙の内容もそうだが……それ以上に、この手紙を読んでいる間のシグルーンの様子が、異常だった。
ただの厄介事じゃない。
「……シグルーン。その、院長先生を脅迫したっていう貴族は、誰なんだ?」
俺の言葉に、彼女は観念したように、ふっと息を吐いた。
「『ヘンリク伯爵』。私の……元夫だ」
ぽつりと、絞り出すような声だった。
そういえば、シグルーンはかつて結婚していたことがあったという噂はきいていた。
だが、子供ができなかったので捨てられた、という話もきいていたので、詳しくはきいていなかったのだ。
「愛など、欠片もなかった。あれは、ただの……取引だった」
シグルーンは話をつづける。
「お前がウィッカーデイルを出て冒険者として旅をしていた頃……私もまた、自分の力を試したくて、がむしゃらに依頼をこなしていた。幸い、実力は認められ、冒険者としてそれなりに名は知られ、金にも困らない生活をしていたんだ」
彼女は、俺たちの育った、今はもうない故郷を懐かしむように、遠い目をした。
「そんな頃だった。ヘンリク伯爵と出会ったのは。奴は、私に求婚してきた。もちろん、断った。お前以外の男には興味がなかったからな。……だが、あの男のプライドを、私は甘く見ていた。奴は、断られた腹いせに、私の全てを調べ上げ……私の、一番大切な場所を、見つけ出したんだ」
彼女の声が、憎悪に震える。
「ある日、突然、孤児院に立ち退き命令が出された。領主である伯爵の権力を使って、ありもしない理由をでっち上げてな。『衛生管理の不備』だの、『経営難による子供への悪影響』だの……!」
シグルーンの拳が、白くなるほど強く握りしめられる。
「冒険者としての私の力なんて、国家権力の前では無力だった。私が剣を抜けば、反逆者として孤児院ごと潰されるだけ。院長先生も、愛する弟や妹たちも、路頭に迷う寸前だった。私が……私がどうにかしなければと、そう思って……」
絶望に満ちた声だった。
「そんな時、あの男は現れたんだ。人の良い、救世主のような笑みを浮かべて。そして、こう言った」
シグルーンは深く息を吐いて言った。
「『私の妻になってくれるのなら、この話は全て撤回しよう。君の愛する『家族』には、私が生涯にわたって援助することを約束する。だが断れば――お前は目の前で、愛する者たちが全てを失い、絶望の淵に沈んでいくのを見ていることしかできんぞ』と」
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめ返した。
その瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちる。
「……私に残された道は、一つしか、なかったんだ」
彼女は、涙を拭うこともせず、続ける。
愛のない結婚生活。
毎日のように浴びせられる、屈辱的な言葉の暴力。
心を殺し、ただ耐えるだけの日々。
「だが、結局……守れなかった」
その声は、絶望に満ちていた。
「私がいくら耐えても、あの男の嫌がらせは続いた。孤児院は少しずつ追い詰められ……私が離縁した頃には、もう手遅れだった。ウィッカーデイルの家は……。院長先生も……心労で……っ!」
言葉にならない、魂の叫び。
「だから……せめて、先生の娘のアイノだけはと……! 私が、陰から支えなければと、そう思っていたのに……! また、同じなんだ……! また、私のせいで、私の大切な場所が、あいつに……っ!」
俺は、ただ、その全てを受け止めていた。
◇◇◇
「そうか。……辛かったな」
俺の声は、自分でも驚くほど、静かだった。
「すまなかったな」と俺は言った。
「え?」シグルーンは驚いたような顔を見せた。「どうして、謝るんだ?」
「お前がそんなに苦しんでいたとは知らず、俺は冒険ばかりしていたからな」
「……それは仕方ない。ダンスタン、お前は英雄パーティーとして、冒険をしていたんだからな」
俺は、さらにシグルーンを強く抱きしめた。
「守ってやれなくてすまなかった。だが、いまは違う。俺が、片をつけてやる」




