第96話 そしてまた手紙
ミーシャの一件が、ようやく本当の意味で片付いた。
あの日、俺の肩で泣きじゃくった娘は、過去の全てを涙と一緒に流しきったのだろう。
最近のあいつは、本当に晴れやかな顔で笑うようになった。
そんな、本当の平和が俺たちの家に訪れた、ある晴れた日の午後。
俺は、家族全員を連れて、新しくなった我が家の周りの森へ、散歩に出かけることにした。
「わーい! おさんぽ、おさんぽー!」
クータルが、俺の足元できゃっきゃと嬉しそうに飛び跳ねている。
ミーシャも、その隣で「森のパトロールでありますにゃ!」なんて言いながら、尻尾をぴんと立てていた。
そんな二人を、ピヒラが「こら、二人とも、転ばないようにね」と、すっかりお姉さんらしい顔で見守っている。
そして、俺の隣には。
「……いい天気だな」
そう言って、ふわりと微笑む、若返った妻の姿。
シグルーンだ。
その後ろからは、ソルヴァが母親のような優しい目線で娘たちを見守り、少し離れた木陰では、ルーミが皆の様子を微笑ましげに眺めていた。
妻が二人、娘が三人、そして義妹が一人。
我ながら、とんでもねえ大家族になったもんだ。
木々の隙間から、柔らかな陽光がキラキラと降り注ぐ。
娘たちの賑やかな笑い声が、森の静寂に心地よく響き渡っていた。
これ以上ないほどの、穏やかで、温かい時間。
俺は、このどうしようもなく幸せなスローライフを、ただ、静かに噛み締めていた。
こんな毎日が、ずっと続けばいい。
心の底から、そう願っていたんだ。
◇◇◇
「―――ぎゃあああああああっ!」
その穏やかな空気を、男の絶叫が引き裂いた。
声は森の奥から聞こえていた。
シグルーンの顔つきが、一瞬で変わる。
ルーミとソルヴァも、即座に臨戦態勢に入った。
「ソルヴァ、ルーミ! お前たちは娘たちを連れてここを動くな! 周囲を警戒し、安全を確保しろ!」
「はいっ!」「承知しました!」
二人の頼もしい返事を聞き、俺はシグルーンと顔を見合わせる。
彼女はこくりと頷いた。
俺たちは森の奥へと駆け出した。
悲鳴が聞こえた場所は、そう遠くない。
茂みを抜けた先、少し開けた場所で、俺たちはそれを見た。
郵便配達員と思しき男が、地面に尻餅をつき、後ずさっている。
その目の前には、涎を垂らしながら威嚇の唸り声を上げる、一頭の魔獣。
最近、この辺りで目撃されるようになった、凶暴化した『レイジ・ボア』だ。
「……やれやれ。大したことなくて良かったな」とシグルーンが言った。
Bランク冒険者の俺一人でも、余裕で片付けられる相手だ。
「派手にやるなよ、シグルーン。森を傷つけるんじゃない」
「言われずとも。任せておけ」
レイジ・ボアが、配達員にとどめを刺そうと地を蹴った、まさにその瞬間だった。
「―――お前の相手は、こっちだ」
俺は、魔獣と男の間に割り込んでいた。
剣を抜き、低い姿勢で構える。
「グルルルルアアアッ!」
獲物を邪魔されたことに怒り狂ったレイジ・ボアが、俺めがけて一直線に突進してくる。
だが、その動きはあまりに直線的で、読みやすい。
俺は一歩も引かない。
突進を受け流す。
牙が俺の鎧を掠める、その寸前。
俺は、最小限の動きで半身をずらし、奴の突進のベクトルを、剣の腹を使ってわずかに逸らしてやった。
凄まじい勢いで俺の横をすり抜けていく、巨大な猪。
体勢を崩し、無防備な背中を、完全に晒している。
生まれた、ほんの一瞬の、だが致命的な隙。
それを、俺の妻が見逃すはずがなかった。
「――凍てつけ、『アイスランス』」
シグルーンの詠唱。
彼女の手から放たれた氷の槍が、寸分の狂いもなく、レイジ・ボアの無防備な背中に突き刺さった。
魔獣はその場に崩れ落ち、絶命する。
俺とシグルーンの、完璧な阿吽の呼吸。
もはや、ただの『処理』だった。
◇◇◇
「あ、あ、あ……」
助けられた配達員の男は、腰を抜かしたまま、目の前で起きた光景が信じられないといった顔で、俺たちを交互に見つめている。
「……大丈夫か?」
俺が剣を鞘に納めながら声をかけると、男は、はっと我に返った。
そして、その場に突っ伏すようにして、何度も、何度も頭を下げ始めた。
「ありがとうございます! ありがとうございます、英雄様! もう、ダメかと思いました……!」
英雄か……。
柄にもない呼ばれ方に、俺は照れくさくて、ついガシガシと頭を掻いてしまう。
男は、涙ながらに感謝の言葉を繰り返していたが、ふと、何かを思い出したように、はっとした顔で自分の鞄を漁り始めた。
「そうだ! 大事な手紙を届ける途中だったんです! 崖崩れで道が塞がって、遠回りしてたら、あの魔物に……。ええと、確か宛名は……」
男は、鞄の奥から一通の手紙を取り出した。
「これだ! 『シグルーン様』宛となっております。この辺りにお住まいだと伺ったのですが、ご存知ありませんか?」
それを聞いた瞬間、俺の隣に立っていたシグルーンが前に出た。
「……私だ」
「ああ、それは良かった。それでは、ここでお渡ししてもよろしいですか?」
シグルーンは無言でうなずき、手紙を受け取った。
そのまま封を切る。
そして……固まった。
「ママ、どうしたの?」
クータルが、不思議そうに彼女の服の裾を引っぱる。
だが、その声はもう彼女の耳には届いていなかった。
シグルーンは無表情になっていた。
瞳から光が消え、唇は固く引き結ばれていた。
その全身から放たれる空気は、あの氷のように冷たい『ギルド支部長』そのものだった。
「シグルーン、大丈夫か? 何があったんだ?」
シグルーンは、虚ろな目で俺を見た。
「……ダンスタン。お前を、頼ってもいいか?」
「当たり前だろうが」
俺は、掴んだ彼女の腕をぐっと引き寄せ、その体を、力いっぱい抱きしめた。
「俺たちは、もう家族なんだ。夫婦なんだ。お前は……俺の、大事な人だ。一人で抱え込むな。お前の悩みも、苦痛も、全部まとめて俺が引き受けてやる」




