第95話 ……パパ、私、わかってたニャ
約束の三日目の朝が来た。
俺は、ミーシャとその両親が泊まる宿屋へと、一人で向かっていた。
心は、不思議なほど凪いでいた。もう、迷いはない。
部屋の扉をノックすると、中からミーシャの元気な声がした。
「はーい! ……あ、パパ!」
扉を開けたミーシャは、俺の顔を見てぱっと笑顔になった。
その背後では、人の良さそうな夫婦が、こちらを見てにこやかに会釈している。
その完璧な「幸せな家族」の光景に、俺の胸の奥がわずかに軋んだ。
「ミーシャ、おはよう」
俺は努めていつも通りに振る舞うと、部屋の中へ一歩足を踏み入れた。
そして、できるだけ優しい声で告げる。
「すまんな、ミーシャ。お前のパパとママに、少しだけ話があるんだ。先に下の食堂で、ジュースでも飲んで待っていてくれるか?」
「うん、わかったにゃ!」
ミーシャは素直に頷くと、階段を駆け下りていった。
その小さな背中を見送り、俺は静かに扉を閉める。
さあ、ここからが、大人の時間だ。
「……何の、ご用でしょうか」
父親の方が、探るような目で俺に問いかける。
俺は、テーブルの上に、二つの羊皮紙の巻物を、とん、と置いた。
一つは、興行師との契約の覚え書き。
もう一つは、元奴隷商人の、決定的な証言録だ。
「読めば分かる」
俺の言葉に、二人の顔から表情が消えた。
父親の方が、震える手で羊皮紙を広げた。
読み進めるにつれて、その顔がみるみるうちに青ざめていく。
「な……なんだ、これは……! 何かの間違いだ! 俺たちは、こんなもの知らないぞ!」
見苦しい言い訳だ。
だが、声は情けないほどに上ずっている。
「ほう。じゃあ、この筆跡鑑定書も、何かの間違いか?」
俺が懐から三枚目の羊皮紙を取り出すと、夫婦は完全に言葉を失った。
「そ、そんな……! お前は、一体何者なんだ……!?」
「ただの、しがないCランク……Bランク冒険者だ。成り立てだけどな」
俺は、懐からずしりと重い金袋を取り出す。
そして、テーブルの上に、じゃらり、と無作法に放り投げた。
「手切れ金じゃねえ。契約金だ」
◇◇◇
「……契約?」
「ああ、そうだ。お前たちに、新しい仕事をくれてやる」
俺は、二人の哀れな役者に、その配役を告げる。
「お前たちの仕事は、この先一生、ミーシャの『理想の両親』を演じ続けることだ」
俺は、冷徹に「取引」を持ちかける。
「年に数回、心のこもった手紙をミーシャに送れ。そこには、娘の幸せを遠くから願う、愛情深い言葉だけを綴れ。もし、ミーシャがお前たちに会いたいと言ってきたら、今日この時のように、涙ながらに過去を悔い、娘を愛しているという仮面を被って、会いに来い」
俺は、二人の凍りついた瞳を、まっすぐに見据えた。
「ミーシャの記憶の中では、お前たちは『娘の将来を想い、断腸の思いで手放した、悲劇の良い両親』であり続けろ。あいつの美しい思い出を、お前たちの汚い欲望で、これ以上穢すことは許さん。……これは、俺が金で買う、永遠の嘘だ」
しばらくの沈黙。
やがて、父親の方が、わなわなと震える声で言った。
「……分かった。あんたの言う通りにする。……だ、だが、もし、俺たちがこの話を断ったら……どうするつもりだ」
「断る? 賢明じゃないな」
俺は、氷のような声で言い放った。
「断れば、この証拠は衛兵団とギルドに渡る。お前たちは一生牢獄暮らしだ。ミーシャは真実を知って深く傷つくことになるだろう。……だが、俺の契約を受け入れれば、金も手に入るし、お前たちの罪も闇に葬ってやる。ミーシャも傷つかずに済む。どっちが得か、ガキでも分かるだろう?」
俺は、二人に選択の余地などないことを、はっきりと突きつける。
「……分かった。契約しよう」
「賢明な判断だ。……ただし、忘れるな。お前たちが少しでも契約を違えたり、ミーシャに余計なことを吹き込んだりすれば、その時は……容赦はしねえ。俺はお前たちを、どこまでも追い詰める」
◇◇◇
食堂でジュースを飲んでいたミーシャは、俺たちの姿を認めると、ぱっと顔を輝かせた。
俺は、やつれた顔の夫婦と共に、彼女のテーブルへと向かう。
これから始まる、最後の舞台の幕が上がる。
夫婦はミーシャの前に立つと、その場に崩れるように膝をついた。
「ミーシャ……」
父親が、涙ながらに語り始める。
それは、俺が書いた脚本通りの、完璧な芝居だった。
「この三日間、お前と過ごせて、本当に幸せだった。そしてな、パパとママは、よく分かったんだ。お前は……私達と一緒に田舎に帰るより、あのダンスタンさんと一緒にいたほうが、もっともっと大きく成長できる。お前の素晴らしい才能を、私達が縛り付けてはいけないんだ」
母親も、嗚咽を漏らしながら言葉を継ぐ。
「そうよ、ミーシャ……。寂しいけれど、これが、あなたのための、一番の選択なの。私達は、遠くから、ずっとあなたのことを応援しているからね……!」
ミーシャは、何も言わない。
そして、俺の顔を一度だけ、じっと見上げた。
その瞳が、何かを理解したように、深く、澄んだ光を宿す。
ミーシャは笑顔で言った。
「……うん、わかったにゃ。……パパ、ママ、元気でね」
俺は、奥歯を強く、強く噛み締めた。
今すぐこの茶番をやめさせ、娘を力いっぱい抱きしめてやりたい衝動を、必死でこらえた。
◇◇◇
帰り道の馬車の中は、ひどく静かだった。
俺は、隣で俯いたまま、微動だにしない小さな背中に、どう声をかけていいのか分からずにいた。
「……ミーシャ」
俺が、ようやく絞り出した声。
慰めの言葉を、続けようとした、まさにその瞬間だった。
こてん、と。
小さな頭が、俺の肩に、優しく寄りかかってきた。
「……パパ、私、わかってたニャ」
「え……?」
驚く俺に、彼女は続ける。
「あの人たちに会って、思い出したのニャ。小さな頃、あたし、何もできなくて、いつも怒られてばかりで……。よく叩かれてたこと。お金にならないから、売られちゃうんだって、そう言ってたのも、全部」
淡々と語られる、あまりにも痛々しい記憶。
俺は、言葉を失った。
「だから、あの人たちが今更あたしを愛してるなんて、嘘だって、すぐに分かったニャ。……でもね」
ミーシャは、俺の顔を、潤んだ瞳で見上げてきた。
「パパ、あたしのこと、心配してたニャ? ギンの時みたいに、本当のパパとママと一緒の方が、あたしが幸せだって、そう思ってくれてたの、わかってたニャ」
その、あまりにも健気な言葉に、俺は胸を突かれた。
「だから、パパを悲しませたくなくて……。パパが、あたしのために用意してくれた優しい嘘に、あたしも付き合いたかったニャ。パパが、あたしのために、優しい『パパとママ』でいさせてくれようとしたの、わかってたから」
そして、顔を上げ、俺の目をまっすぐに見つめ返す。
その琥珀色の瞳は、夕日を映して、どこまでも美しく輝いていた。
「……ありがとう、パパ。私の、本当のパパ。ミーシャのパパは、パパだけだニャ。大好きだニャ」
もう、こらえきれなかった。
俺は、街道の脇に馬車を止めると、その小さな体を、壊れ物を扱うように、だが力いっぱい、抱きしめた。
熱いものが、目の奥から、後から後からとめどなく溢れ出してくる。
情けないとは思う。
だが、もうどうしようもなかった。
「う……うわあああああっ!」
俺は、声を上げて泣いた。
娘の前で、子供のように。
ミーシャもまた、俺の胸の中で、声を上げて泣いていた。
「愛してる。愛しているよ。本当に……」
「私も愛してるニャ。ずっとそばにいるニャ……」
夕暮れの、茜色の空の下。
俺たちは、ただ、互いの温もりだけを確かめるように、長い、長い時間、抱きしめ合っていた。




