第94話 やさしい偽物
「ミーシャ。お前は、どうしたい?」
俺の問いかけに、ミーシャは答えられない。
ただ、潤んだ琥珀色の瞳で、俺と、目の前で涙を流す男女の顔を、不安そうに行き来させるだけだった。
「……どうか、お願いします」と母親が言った。
彼女は俺に向かって深々と頭を下げた。
「私達に、娘との時間を取り戻させてはいただけないでしょうか。もちろん、今すぐ一緒に帰ろうなどとは言いません。ただ、三日間だけでいいのです。この街で、もう一度だけ、この子と『家族』として過ごす時間を……どうか……!」
その声は、悲痛な響きを帯びていた。
父親もまた、言葉もなく、ただ何度も頭を下げている。
その姿に、ミーシャの心が、ぐらりと大きく傾いたのが分かった。
彼女は、俺の服の裾を、祈るようにぎゅっと握りしめる。
その瞳が、助けを求めるように、俺を見上げていた。
俺は、一度だけ、ぎゅっと目を瞑った。
そして、腹を括る。
「……分かった。そうだな。ひとまず、三日一緒にいてみるってのは、良いかもしれないな」
俺の言葉に、夫婦の顔がぱっと輝いた。
ミーシャの強張っていた肩から、ふっと力が抜ける。
さびしい。
さびしいぞ、ミーシャ……。
◇◇◇
俺はミーシャたちとは別の、安宿に部屋を取った。
わざと一番安い、窓の外の景色も望めないような、薄暗い部屋を選んだ。
今の俺には、それくらいがちょうどいい。
扉を閉める。
すると、やけに静かに思えてならなかった。
いつもなら、この時間には「パパ、お腹すいたー!」だの「今日の夕飯はなぁに?」だの、娘たちの賑やかな声が響いているはずなのに。
がらんとした部屋の静けさが、どうしようもなく落ち着かなかった。
夕食の時間になっても、腹は少しも減らなかった。
俺はあてもなく、宿場町の雑踏を彷徨い歩く。
そして、一軒の安食堂の前で足を止めた。
窓越しに見える、温かい光景。
小さなテーブルを囲み、料理を三人が笑いながら頬張っている。
ミーシャと、その両親だった。
母親が、ミーシャの口の周りについたソースを、ハンカチで優しく拭ってやっている。
父親が、何か面白い話でもしたのだろう。
ミーシャが微笑んでいた。
その、あまりにも完璧で、幸せな「家族」の光景。
それを見た瞬間、俺の胸は、ずきりと痛んだ。
(……ああ、そうか。これが、本当の……あいつの、幸せな姿なのかもしれないな)
俺がどれだけ愛情を注いでも、どれだけ必死に守ろうとしても。
血の繋がった、本当の親との絆には、敵わないのかもしれない。
俺は、所詮、偽物の父親で。
俺が与えてやれる幸せもまた、偽物だったのかもしれない。
強烈な孤独感と、父親としての無力感が、鉛のように重くのしかかってくる。
俺は、その場に立ち尽くしたまま、ただ、ガラス窓の向こうに広がる、温かい光景を見つめていた。
まるで、世界からたった一人、切り離されてしまったかのように思えた。
俺は……自分のことはどうでもいい。
ただ、ミーシャが幸せになってくれたら、それでいいんだ。
だから、やるべきことをやる。
ミーシャが傷つかないように。
たとえ傷ついたとしても、また立ち上がれるように。
◇◇◇
二日目の夜。
俺は、動いた。
父親としての感傷は、もう捨てた。
ここから先は、元Aランク斥候としての、仕事の時間だ。
俺は宿を抜け出すと、ミーシャたちが泊まる宿屋が見える、向かいの建物の屋根に陣取った。
気配を完全に殺し、闇に溶け込む。
しばらくして、宿屋の裏口から、二つの人影がこそこそと出てきた。
ミーシャの両親だ。
間違いない。
俺は、屋根から屋根へと、音もなく飛び移りながら追跡を開始する。
二人は、街の裏路地へと消えていった。
俺もまた、壁のわずかな窪みに身を潜め、その先を窺う。
路地の突き当たり。
待っていたのは、一人の、派手な服装をした小太りの男だった。
その指には、これみよがしに金の指輪がいくつも嵌められている。
街の興行師だろう。
俺は、息を殺し、彼らの会話に耳を澄ませた。
「……で、首尾は上々かね? 娘さんは、あんたたちの涙の再会話を信じ込んだのかい?」
興行師が尋ねる。
父親の方が、にやにやと下品な笑みを浮かべて答えた。
「ええ、もちろん。あの子は昔から人が良くて単純でしたから。まさか、一度自分を売り飛ばした親が、また金目当てで近づいてきたなんて、考えもしないでしょう」
その声は、昼間の、涙ながらに謝罪していた男のそれとは、まるで別人だった。
「結構なことだ。まさか、はした金で売り払ったあのガキが、奇跡のリュート奏者、つまり『金のなる木』になって帰ってくるとはな。あんたたちも運がいい」
興行師はそう言うと、懐からずしりと重そうな革袋を取り出し、父親に放り投げた。
「ほら、約束の前金だ。あの子を完全に取り戻し、あんたたちが『マネージャー』として興行権を握れば、この十倍、いや百倍の金が転がり込んでくる。せいぜい、父親と母親の芝居をうまくやりな」
母親が、ひったくるようにその革袋を掴み、欲望に満ちた目で中身を確かめている。
「分かっております。あの子の才能は本物です。今度こそ、大儲けさせてもらいますよ。あの娘には、死ぬまで俺たちのために歌い続けてもらわねえと」
俺の心の中で、何かが、音を立てて凍り付いていくのが分かった。
父親としての、あの切ない葛藤も、苦悩も。
全てが、馬鹿みたいだった。
こいつらは、ミーシャの本当の両親だ。
そして、その上で、金のために一度娘を売り、その娘に再び金儲けの価値を見出したから、またしても甘い言葉で騙し、取り戻そうとしている。
見ていたのは、ミーシャの才能が生み出す『金』だけだったんだ。
◇◇◇
俺は、感情を殺し、闇の中へと静かに姿を消した。
怒りも、憎しみも、今は必要ない。
ただ、最後の確証を得る。
それだけだ。
翌朝、約束の三日目の朝。
俺は宿場町のギルド支部へと向かった。
ウィッカーデイルを発つ前に、シグルーンに頼んでおいた件の確認だ。
ギルドの通信網は、そこらの伝令よりもよっぽど速く、正確だ。
「お待ちしておりました、ダンスタン様。シグルーン様からご依頼の件、対象者は既に個室にて待機しております」
受付の職員に案内されたのは、一番奥にある、窓のない小さな部屋だった。
中には、一人の男が、椅子にふんぞり返って座っている。
顔に大きな傷跡のある男。
シグルーンが手配してくれた、獣人を専門に扱っていた元奴隷商人だった。
俺は、男にミーシャの両親の人相と、彼らが語った村の名前を告げた。
男は、しばらくの間、天井を仰いで記憶を辿っていたが、やがて、にやりと口の端を吊り上げた。
「ああ、思い出しましたぜ。確かに、数年前にその村で、猫人族のガキを一人、買い取りやした。特徴も、あんたの言う通りだ」
男は、心底愉快そうに、言葉を続ける。
「不作? はっ、冗談じゃねえ。あの村は、ここ数十年、不作知らずの豊かな土地でさあ」
そして、男は吐き捨てるように言った。
「あの夫婦は、ただの博打好きで、借金まみれになって、たった一人の娘を奴隷商に売り飛ばした、人間のクズだよ」
俺は男に礼を言うと、静かに席を立つ。
今日が約束の三日目だ。
俺は、大切な娘を、迎えに行くことにした。




