第92話 手紙
「あのね、パパ……。あたしの本当の……いや、前のパパとママはね……、あたしを……売ったの」
その痛々しい言葉。
俺の頭の中で、何かがぷつりと切れる音がした。
―――売った、だと?
この、小さくて、温かくて、かけがえのない娘を?
冗談じゃねえ。
どこのどいつだ。
今すぐ見つけ出して、骨の一本も残さず、この世から消し去ってやりてえ。
……だが、今、俺がすべきことは、そんなことじゃねえ。
「……そうか」
俺は、震えそうになる声を必死で抑え、できるだけ優しい声で言った。
そして、俺の胸に顔を埋めて震えるミーシャを、力いっぱい抱きしめてやる。
「辛かったな。よく、話してくれた」
俺の言葉に、張り詰めていたミーシャの最後の糸が切れたのだろう。
うわあああん、と。
子供のように、声を上げて泣きじゃくり始めた。
俺は、ただ黙って、その小さな背中を優しくさすってやることしかできなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、泣き疲れたミーシャのしゃくり上げる声が、少しだけ小さくなった。
俺は、このデリケートな問題を、すぐに家族全員に共有するべきではないと判断した。
「ミーシャ」
「……にゃ」
「このことは、まだ二人だけの秘密にしておこう。お前が、話してもいいって思う時が来るまで、な。パパと、お前だけの、大事な秘密だ」
「……うん」
こくりと頷く、小さな頭。
その夜、俺はミーシャの部屋のベッドの脇に座り、彼女が安心しきった寝息を立て始めるまで、ずっと、その小さな手を握りしめていた。
眠りについた娘の頬を伝う、一筋の涙の跡を、ごつごつした指先でそっと拭ってやる。
◇◇◇
翌日、俺はミーシャの許可を得て、例の手紙を一人で読むことにした。
娘のいないところで、まずは俺自身が内容を確かめる必要があった。
リビングのテーブルに、一枚の羊皮紙を広げる。
そこには、丁寧な文字で、こう綴られていた。
『――突然のお手紙、失礼いたします。私達は、ミーシャの本当の両親です』
できる限り感情を排し、文章を追う。
『先日、収穫祭のためにウィッカーデイルを訪れていた行商人から、不思議な噂を耳にいたしました。この街に、歌で奇跡を起こす、猫人族の小さな歌姫が現れた、と。その特徴が、私達がずっと探し続けていた愛娘のものとあまりに似ていたため、藁にもすがる思いで、こうして筆を取った次第です』
収穫祭の噂か。
なるほど、筋は通っている。
手紙は、涙を誘うような、悲痛な言葉で続いていた。
『数年前、私達の村は未曾有の不作に見舞われ、多くの村人が飢えに苦しんでおりました。私達も例外ではなく、このままでは家族全員が飢え死にしてしまうという、絶望的な状況でした。そんな折、村を訪れた一人の裕福な商人から、ある提案を受けたのです。「あなた方の娘を、私の養子として預からせてはくれないか。そうすれば、村が立ち直るまでの間、十分な食料を支援しよう」と』
俺は、ごくりと喉を鳴らす。
『私達は、断腸の思いで、その提案を受け入れました。娘を、ただ飢え死にさせることだけはできなかった。せめて、温かい寝床と、腹いっぱいの食事だけでも与えてやりたかったのです。ですが……私達は、騙されていたのです。その男が、子供を売り買いする奴隷商人だったとは、知る由もありませんでした……!』
あまりに、出来すぎている。
だが、もし、万が一、これが本当だとしたら……?
『罪を償うためにも、どうか一目だけでも、娘に会って謝罪させてはいただけないでしょうか。もちろん、今更親だと名乗る資格などないことは、重々承知しております。ただ、一言だけでいいのです。「すまなかった」と、そう伝えさせていただけないでしょうか』
これで手紙は終わりだ。
……さて、どうするべきか。
◇◇◇
もし、この手紙に書かれていることが、本当だったとしたら?
こいつらは、ミーシャを売ったんじゃなく、苦渋の決断の末に『預けた』だけだったとしたら?
ミーシャの幸せとは、一体なんだ?
このまま、俺の娘として、この家で笑って暮らすことか。
それとも、血の繋がった本当の両親の元へ帰り、失われた時間を取り戻すことか。
俺には、もう分からなかった。
その夜。
俺は、意を決して、ミーシャに手紙の内容をありのまま伝えた。
俺の言葉を、ミーシャは、じっと聞いていた。
俺が全てを話し終えると、彼女の瞳が、大きく、大きく揺れた。
「……あたしを、助けるため……?」
か細い声。
「村のみんなが、飢え死にしないように……あたしは……」
残酷な記憶と、甘い可能性。
「パパ……」
ミーシャは、俺の服の裾を、迷子の子供のようにぎゅっと握りしめる。
「あたし、どうしたらいいか、分からないにゃ……」
その、助けを求める、あまりにも痛々しい瞳。
それを見た瞬間、俺の中で燻っていた全ての迷いが、完全に吹き飛んだ。
◇◇◇
そうだ。
俺は、父親なんだ。
この子が道に迷っているなら、俺が、その手を引いてやるのが仕事だろうが。
「ミーシャ」
俺は、泣きじゃくる娘の小さな肩を、そっと掴んだ。
「俺も、どうすればいいか分からん」
俺の正直な言葉に、ミーシャは、はっとしたように顔を上げた。
「だから、確かめに行こう。お前の本当の気持ちをな」
俺は、娘の涙を、ごつごつした指先で優しく拭ってやる。
そして、ニヤリと笑って見せた。
「返事を書くぞ。『一度、お会いして話がしたい』ってな。ただし……パパも一緒に行く。そいつらが本物かどうか、俺がこの目で、この耳で、この鼻で、魂ごと見極めてやる」




