第91話 『過去からの招待状』
「ん……ふわぁ……」
テーブルの向かい側で、シグルーンが小さくあくびを漏らした。
眠い目をこすり、少しだけ潤んだ瞳で俺を見て、ふにゃり、と気の抜けた笑みを浮かべる。
その仕草の一つ一つが、なんだかやけに……その、なんだ。色っぽい。
赤ん坊から元の姿に戻ったはいいが、どういうわけか、彼女は少しだけ若返っていた。
二十代後半、といったところか。
元々整っていた顔立ちは、瑞々しいまでの美しさを取り戻し、正直、まともに顔を見れねえ。
「ダンスタン……。おはよう」
とろんとした声で、俺の名前を呼ぶ。
そして、まるでそれが当たり前であるかのように、椅子から立ち上がると、俺の隣にぴたりと寄り添い、肩にこてん、と頭を乗せてきた。
亜麻色の髪が、ふわりと俺の首筋をくすぐる。甘い匂いがした。
「……っ、お、おい、シグルーン!」
「んー……? なんだ、騒々しいぞ……」
完全に無意識だ。
赤ん坊だった頃の記憶が残っているのか……。
ここ数日、彼女はこうして無防備に甘えてくるようになった。
その度に、俺の心臓はやかましいくらいに跳ね上がる。
四十過ぎのおっさんの顔は、情けなくも真っ赤に染め上がる。
「パパとシグルーンママ、またイチャイチャしてるー!」
「朝からご馳走様ですにゃ」
「ふふ、パパ、お顔が真っ赤ですよ」
クータル、ミーシャ、ピヒラが、テーブルの向こう側でニヤニヤしながらこちらを見ている。
やめろ、そんな生暖かい目で見るのは。
「これは違う! 断じて違う!」
俺が慌てて身をよじると、シグルーンは「むぅ……」と不満げな声を漏らしながらも、ようやく自分が何をしているのか気づいたらしい。
はっとしたように俺から身を離すと、顔を真っ赤にして、自分の席へと戻っていった。
そんな、俺たちのぎこちないやり取りを見て、ソルヴァが「ふふふ」と楽しそうに笑い、ルーミは「……朴念仁」と呆れたように呟いていた。
まあ、なんだ。
騒がしくて、手がかかって、どうしようもなくむず痒い。
だが、このどうしようもなく温かい朝が、俺の、俺たちの新しい日常なんだ。
◇◇◇
平和な昼下がりだった。
俺は新しい家のポーチで、気持ちよく吹き抜ける風を感じながら、年季の入った剣の手入れをしていた。
庭では娘たちが、きゃっきゃと笑い声を上げながら駆け回っている。
そんな、ありふれた、かけがえのない日常。
その穏やかな空気を破るように、一人の訪問者が現れた。
「ダンスタンさん、いらっしゃいますか!」
声の主は、新しいギルド支部長のヒルルヤだった。
彼女は少しだけ息を切らしながら、一通の封筒を俺に差し出してきた。
「ミーシャちゃんに、お手紙です。差出人は……ミーシャちゃんのご両親を名乗る方から、と」
「……なんだと?」
駆け回っていた娘たちの足がぴたりと止まる。
家の中から様子を窺っていたシグルーンたちも、驚いたように顔を見合わせている。
「ミーシャの、パパとママ……?」
クータルが、不思議そうに小首をかしげた。
「本当ですか!?」とソルヴァ。
「ミーシャの両親については、聞いたことがなかったな」とシグルーン。
シグルーンとソルヴァが、駆け寄ってくる。
二人の顔には、驚きと共に、喜びの色が浮かんでいた。
そうだよな。
ミーシャが、本当の家族と再会できる。これ以上の祝福があるはずない。
だが。
祝福ムードに包まれる家族の中で、一人だけ。
当事者であるはずのミーシャの反応は、俺たちの予想とは、あまりにもかけ離れていた。
彼女は、ヒルルヤが差し出す手紙を、ただ見つめている。
顔は真っ白を通り越して、青ざめていた。
「ミーシャ……?」
ピヒラが心配そうに声をかける。
だが、その声は届いていない。
ミーシャは後ずさった。
そして、踵を返し、家の中へと駆け込んでいってしまった。
向かった先は、先日完成したばかりの、彼女専用の『防音室』だ。
ガチャン、と。
内側から鍵をかける音が響き渡った。
後に残されたのは、呆然とする俺たちと、一通の手紙だけだった。
◇◇◇
「一体、どうしたというんだろうか……」
シグルーンが、固く閉ざされた扉の前で途方に暮れたように呟く。
誰もが、ミーシャのあまりに異常な反応を、理解できずにいた。
だが、俺だけは分かっていた。
いや、分かってしまったんだ。
あいつの、あの怯えきった瞳。
あれは、俺が初めて会った時と、まったく同じ目だった。
奴隷商に追われ、心も体も擦り切れて、世界の全てを拒絶していた、あの時の目だ。
手紙の差出人が、誰であろうと関係ない。
ミーシャにとって、あの手紙は『過去からの招待状』なんだ。
思い出したくもない、地獄への。
「……すまん。少しだけ、一人にしてやってくれ」
俺は、心配そうにする家族たちを手で制した。
そして、一人、ミーシャが閉じこもる扉の前へと、ゆっくりと歩み寄る。
俺は扉を叩かなかった。
ただ、その冷たい木の扉に背中を預け、どさりと、その場に座り込んだ。
しばらくの沈黙。
俺は、扉の向こう側にいるであろう、小さな背中に向かって語りかけた。
「……聞こえるか、ミーシャ」
返事はない。
だが、俺は構わず、言葉を続ける。
「無理にとは言わねえ。話したくないなら、話さなくていい。扉を開けたくないなら、開けなくていい。お前が、そうしたいと思うまで、俺はずっと、ここにいる」
俺は、一度言葉を切る。
そして、一番伝えたかった言葉を、ありったけの愛情を込めて告げた。
「もし辛いなら、パパにだけ話してくれないか。お前がどんな過去を背負っていても、俺がお前の父親であることに、変わりはねえんだからな」
理屈じゃない。
ただ、それだけが、俺がこの子にしてやれる、全てだった。
俺の、無条件の愛を告げる言葉。
それが、扉の向こうの、凍てついた小さな心に届くことを、ただ、祈りながら。
◇◇◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
俺は、ただ黙って、扉に背を預け続けていた。
焦りはない。
あいつが、自分の力で一歩を踏み出すのを、信じて待つだけだ。
やがて。
カチャリ、と。
扉の向こう側から、小さな、金属音が聞こえた。
鍵が、開いた音だった。
ぎぃ、と。
重い扉が、ほんの少しだけ開かれる。
その隙間から、涙でぐしゃぐしゃになった、小さな顔が、ひょっこりと覗いた。
ミーシャだった。
彼女は、俺の顔をじっと見つめると、しゃくり上げながら、消え入りそうな声で、言った。
「……パパ」
「おう」
「あのね、パパ……。あたしの本当の……いや、前のパパとママはね……、あたしを……売ったの」




