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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第90話 亜麻色の髪の妻

「あのね、パパ……。戻し方が、わからないの」


 クータルが発したのは絶望的な一言だった。

 戻せないのか……。


 だが、諦めるにはまだ早い。


 俺は、泣きじゃくるクータルの小さな体を、もう一度強く抱きしめてやった。


「……そうか。分かった」


 俺の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。


「大丈夫だ、クータル。ちゃんと言えて偉いな。お前は、何も悪くねえよ」


 俺の言葉に、クータルはしゃくり上げながら、こく、こくと頷く。

 その小さな背中を、何度も、何度も優しくさすってやる。


 大丈夫だ。

 大丈夫。

 そう声をかけてやった。


 どれくらいの時間が経っただろうか。

 やがて、泣き疲れたクータルが、俺の腕の中でしゃくり上げる声が、少しだけ小さくなった。

 彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、俺の目を、まっすぐに見つめ返してきた。


「……クーが、この子のママになる。しーちゃんが大きくなるまで、クーが責任を持って育ててみせるよ!」


 大きくなるまで……か。

 あと何年かかるんだ……。


 なんとかしてシグルーンを元に戻してやらねえと……。


◇◇◇


 クータルによる、育児が始まった。


「あーんして? ほら、おいしいみるくだよー」


 温めたミルクを、スプーンで赤ん坊の口元へ運ぶクータル。

 だが、加減が分からないのか、赤子の口の周りまでべとべとになっている。

 赤ん坊はきゃっきゃと笑いながら、小さな手でぱちぱちと叩いていた。


「こ、こら! 暴れちゃだめでしょ!」


 おむつ替えも、もちろん一苦労だ。

 赤ん坊の足をばたつかせられ、悪戦苦闘の末、ようやく交換が終わった頃には、クータル自身が汗だくになっていた。


「ふぅ……。赤ちゃんのお世話って、たいへんなのね……」


 お前も、まだまだ赤ちゃんみたいなもんだけどな、と言いたくなるのをこらえる。


 ぐったりと床にへたり込む、小さなママ。

 その姿に、ピヒラやミーシャが、くすくすと笑いながら駆け寄ってくる。


「クータル、私が手伝うよ」

「二人でやれば、もっと早いにゃ!」


 ハラハラしながらも、優しくサポートする姉たちの存在が頼もしい。


 俺は、そんな娘たちの様子を、暖炉の前の椅子に腰掛け、ただ黙って見守っていた。

 かつて、俺がクータルにしたのと同じことを、今度はクータルが、目の前の小さな命に、一生懸命やっている。

 ミルクの飲ませ方も、おむつの替え方も、全てが不器用で、見ていて危なっかしい。

 だが、ひたむきな愛情だけは、紛れもなく本物だった。


 ああ、大きくなったもんだな。

 どうしようもない愛おしさが込み上げてくるのだった。


◇◇◇


 その夜のことだった。

 新しい我が家が、静寂に包まれる頃。

 赤ん坊が、ふにゃ、とぐずり始めた。


 ミルクをあげても、おむつを替えても、泣き止む気配はない。


 そろそろ助け舟でも出すか……と思っていたときだった。


 クータルは、何かを思いついたようだった。

 彼女は、寝室の本棚から、一冊の古びた絵本を、よいしょ、と取り出してくる。

 それは、シグルーンが、眠る前のクータルにたまに読んでくれていた、クータルお気に入りの一冊だった。


 クータルは、赤ん坊を優しく抱きしめると、その耳元で、ゆっくりとページをめくり始めた。

 伝説上の生き物である竜が出てくる話だ。

 竜の親子の、温かくて、少しだけ切ない物語。

 辿々しいが愛情のこもった声だった。

 月明かりが差し込む静かな部屋に、優しく響き渡る。


「……だいじょーぶだよ。ママが、ここにいるからね」


 物語の一節だが、クータルがお気に入りのフレーズだった。


 優しく、ひたむきな声。

 それに呼応するかのように、不思議なことが起きた。


 さっきまでぐずっていた赤ん坊が、ぴたりと泣き止んだんだ。


 それだけじゃない。

 その小さな手が、何かを求めるように、クータルの服の裾をぎゅっと、力強く握りしめた。


 俺には、その小さな手が、ただの赤ん坊の仕草じゃない、何か強い意志を持っているように見えたんだ。

 会いたい、と。

 この、自分を懸命に世話してくれる、愛おしい存在に、今すぐ会いたいのだと、そう訴えかけているかのように。


 クータルの「私が、あなたのママになってあげる」という、ひたむきな愛情。

 二つの魂が、思い出の絵本を通じて、完全に一つになった。


 そのとき。

 ふわり、と。

 赤ん坊の小さな体から、眩いばかりの、温かい黄金色の光が溢れ出した。

 それは、部屋中を、いや、家全体を、祝福の光で満たしていく。


◇◇◇


 やがて、光がゆっくりと収まっていく。


 そして。


 赤ん坊がいたはずの場所には、一人の美しい女性が、パジャマ姿のままクータルを優しく抱きしめていた。

 亜麻色の髪。

 肌には張りと瑞々しさが戻り、その姿はまるで二十代前半だ。

 俺の知るシグルーンよりも、ずっと若い。


(……誰だ?)


 一瞬、思考が停止する。

 だが、その女性が、涙を浮かべながらも優しい表情で微笑んだ時、俺は確信した。


「……ただいま、クータル」


 その声は、紛れもなくシグルーンのものだった。


「ありがとう」とシグルーンがクータルに言う。「私の可愛い『ママ』」


「……しーちゃん、まま!」


 クータルは、声を上げて泣いていた。


 しばらくクータルを抱きしめていたシグルーンだが、ようやく自身の変化に気づいたらしい。


「これは……」と自分の手を見ている。


「創造の竜とやらの力ってことなんだろうな」


 奇跡だ。


◇◇◇


 その夜。

 娘たちが、それぞれのベッドで眠りについた後。

 俺とシグルーンは、暖炉の前で、二人きりで向かい合っていた。

 揺れる炎が、彼女の若返った横顔を、温かく照らし出している。


「……まさか、若返るとはな」


「かわいいか?」とシグルーンが言った。


「……ああ」ちょっと恥ずかしいが、うなずいておいた。


「ふん。若い女が好きなんだな」


「そういうわけじゃない。シグルーンは、いつだってきれいだぞ」


「……まったく」


 シグルーンは、はにかむように、少しだけ頬を赤らめた。


 俺たちは、顔を見合わせ、どちらからともなく、ふっと笑みをこぼした。

 もう、言葉は必要なかった。

 俺は、そっと彼女の手を取り、引き寄せる。


 唇が、重なった。


 それは、長い長いキスとなった。

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