第90話 亜麻色の髪の妻
「あのね、パパ……。戻し方が、わからないの」
クータルが発したのは絶望的な一言だった。
戻せないのか……。
だが、諦めるにはまだ早い。
俺は、泣きじゃくるクータルの小さな体を、もう一度強く抱きしめてやった。
「……そうか。分かった」
俺の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「大丈夫だ、クータル。ちゃんと言えて偉いな。お前は、何も悪くねえよ」
俺の言葉に、クータルはしゃくり上げながら、こく、こくと頷く。
その小さな背中を、何度も、何度も優しくさすってやる。
大丈夫だ。
大丈夫。
そう声をかけてやった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、泣き疲れたクータルが、俺の腕の中でしゃくり上げる声が、少しだけ小さくなった。
彼女は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げると、俺の目を、まっすぐに見つめ返してきた。
「……クーが、この子のママになる。しーちゃんが大きくなるまで、クーが責任を持って育ててみせるよ!」
大きくなるまで……か。
あと何年かかるんだ……。
なんとかしてシグルーンを元に戻してやらねえと……。
◇◇◇
クータルによる、育児が始まった。
「あーんして? ほら、おいしいみるくだよー」
温めたミルクを、スプーンで赤ん坊の口元へ運ぶクータル。
だが、加減が分からないのか、赤子の口の周りまでべとべとになっている。
赤ん坊はきゃっきゃと笑いながら、小さな手でぱちぱちと叩いていた。
「こ、こら! 暴れちゃだめでしょ!」
おむつ替えも、もちろん一苦労だ。
赤ん坊の足をばたつかせられ、悪戦苦闘の末、ようやく交換が終わった頃には、クータル自身が汗だくになっていた。
「ふぅ……。赤ちゃんのお世話って、たいへんなのね……」
お前も、まだまだ赤ちゃんみたいなもんだけどな、と言いたくなるのをこらえる。
ぐったりと床にへたり込む、小さなママ。
その姿に、ピヒラやミーシャが、くすくすと笑いながら駆け寄ってくる。
「クータル、私が手伝うよ」
「二人でやれば、もっと早いにゃ!」
ハラハラしながらも、優しくサポートする姉たちの存在が頼もしい。
俺は、そんな娘たちの様子を、暖炉の前の椅子に腰掛け、ただ黙って見守っていた。
かつて、俺がクータルにしたのと同じことを、今度はクータルが、目の前の小さな命に、一生懸命やっている。
ミルクの飲ませ方も、おむつの替え方も、全てが不器用で、見ていて危なっかしい。
だが、ひたむきな愛情だけは、紛れもなく本物だった。
ああ、大きくなったもんだな。
どうしようもない愛おしさが込み上げてくるのだった。
◇◇◇
その夜のことだった。
新しい我が家が、静寂に包まれる頃。
赤ん坊が、ふにゃ、とぐずり始めた。
ミルクをあげても、おむつを替えても、泣き止む気配はない。
そろそろ助け舟でも出すか……と思っていたときだった。
クータルは、何かを思いついたようだった。
彼女は、寝室の本棚から、一冊の古びた絵本を、よいしょ、と取り出してくる。
それは、シグルーンが、眠る前のクータルにたまに読んでくれていた、クータルお気に入りの一冊だった。
クータルは、赤ん坊を優しく抱きしめると、その耳元で、ゆっくりとページをめくり始めた。
伝説上の生き物である竜が出てくる話だ。
竜の親子の、温かくて、少しだけ切ない物語。
辿々しいが愛情のこもった声だった。
月明かりが差し込む静かな部屋に、優しく響き渡る。
「……だいじょーぶだよ。ママが、ここにいるからね」
物語の一節だが、クータルがお気に入りのフレーズだった。
優しく、ひたむきな声。
それに呼応するかのように、不思議なことが起きた。
さっきまでぐずっていた赤ん坊が、ぴたりと泣き止んだんだ。
それだけじゃない。
その小さな手が、何かを求めるように、クータルの服の裾をぎゅっと、力強く握りしめた。
俺には、その小さな手が、ただの赤ん坊の仕草じゃない、何か強い意志を持っているように見えたんだ。
会いたい、と。
この、自分を懸命に世話してくれる、愛おしい存在に、今すぐ会いたいのだと、そう訴えかけているかのように。
クータルの「私が、あなたのママになってあげる」という、ひたむきな愛情。
二つの魂が、思い出の絵本を通じて、完全に一つになった。
そのとき。
ふわり、と。
赤ん坊の小さな体から、眩いばかりの、温かい黄金色の光が溢れ出した。
それは、部屋中を、いや、家全体を、祝福の光で満たしていく。
◇◇◇
やがて、光がゆっくりと収まっていく。
そして。
赤ん坊がいたはずの場所には、一人の美しい女性が、パジャマ姿のままクータルを優しく抱きしめていた。
亜麻色の髪。
肌には張りと瑞々しさが戻り、その姿はまるで二十代前半だ。
俺の知るシグルーンよりも、ずっと若い。
(……誰だ?)
一瞬、思考が停止する。
だが、その女性が、涙を浮かべながらも優しい表情で微笑んだ時、俺は確信した。
「……ただいま、クータル」
その声は、紛れもなくシグルーンのものだった。
「ありがとう」とシグルーンがクータルに言う。「私の可愛い『ママ』」
「……しーちゃん、まま!」
クータルは、声を上げて泣いていた。
しばらくクータルを抱きしめていたシグルーンだが、ようやく自身の変化に気づいたらしい。
「これは……」と自分の手を見ている。
「創造の竜とやらの力ってことなんだろうな」
奇跡だ。
◇◇◇
その夜。
娘たちが、それぞれのベッドで眠りについた後。
俺とシグルーンは、暖炉の前で、二人きりで向かい合っていた。
揺れる炎が、彼女の若返った横顔を、温かく照らし出している。
「……まさか、若返るとはな」
「かわいいか?」とシグルーンが言った。
「……ああ」ちょっと恥ずかしいが、うなずいておいた。
「ふん。若い女が好きなんだな」
「そういうわけじゃない。シグルーンは、いつだってきれいだぞ」
「……まったく」
シグルーンは、はにかむように、少しだけ頬を赤らめた。
俺たちは、顔を見合わせ、どちらからともなく、ふっと笑みをこぼした。
もう、言葉は必要なかった。
俺は、そっと彼女の手を取り、引き寄せる。
唇が、重なった。
それは、長い長いキスとなった。




