第89話 あの赤ちゃんは、どこから来たんだ?
しんと静まり返った朝だった。
シグルーンが家を飛び出したまま、夜が明けてしまった。
あの強い女が、今どこでどうしているのか……。
心配だ……。
俺は夜明けと共にギルドへ駆け込み、ヒルルヤに事情を話して、内密に捜索願を出しておいた。
ギルドの連中には、ただの夫婦喧嘩だと思われているだろう。
まあ、あながち間違いじゃねえのが、余計に情けねえ。
家に帰ると、そこはもう戦場だった。
「パパ、おはようございます」ピヒラが言った。「赤ちゃん、お腹が空いたみたいだったので、特製の離乳食を作ってみました!」
厨房では、ピヒラがすり鉢を片手に、目を輝かせている。
その隣では、ソルヴァが栄養バランスについて何やら小難しい専門用語を並べ立て、結果的にピヒラの邪魔をしていた。
「にゃっふん! チーフ・ガーディアンによる子守唄の時間でありますにゃ! ねーんねーん、ころーりーにゃー!」
リビングでは、ミーシャが即興の子守唄を披露し、赤ん坊をあやしている。
赤ん坊は、きゃっきゃと声を上げて喜んでいた。
クータルは、そんなミーシャと赤ん坊の姿を、少しだけ羨ましそうに、そしてどこか寂しそうに見つめている。
家族総出の育児だった。
◇◇◇
その日の午後。
「よし、風呂に入れるか」
俺の言葉に、娘たちが「「「わーい!」」」と歓声を上げる。
新しくなった我が家の自慢の風呂は、ピヒラが木の根を操って作ってくれた、ちょっとした露天風呂気分が味わえる特注品だ。
俺は赤ん坊の小さな服を脱がせていく。
ぷにぷにした、マシュマロみてえな柔らかな肌。
湯船にそっと浸からせてやると、最初は驚いたように目を丸くしていた赤ん坊も、すぐにその温かさが気に入ったらしい。
きゃっきゃと嬉しそうに笑いながら、小さな手で湯面をぱちゃぱちゃと叩き始めた。
その、あまりにも無防備な姿。
俺は、石鹸を泡立てながら、その小さな体を優しく洗ってやる。
ふと、赤ん坊が、安心しきったように、俺の胸にこてん、と頭をもたせかけてきた。
すーすー、と穏やかな寝息すら聞こえてくる。
俺はクータルが赤ん坊だった頃のことを思い出しながら、腕の中の温かい重みを抱きしめた。
◇◇◇
風呂から上がり、赤ん坊は、すっかり上機嫌になっていた。
ピヒラとミーシャが代わる代わる抱っこしては「かわいいー!」と歓声を上げ、ソルヴァまでもが、いつになく表情を緩ませてその頬をつついている。
そんな、完全に赤ん坊に夢中になっている家族の中で、一人だけ。
冷静に、この奇妙な状況を観察している者がいた。
「お兄様。少し、よろしいでしょうか」
声の主は、ルーミだった。
……相変わらずお兄様と呼ばれている俺だった。
俺たちは、少し離れた書斎へと場所を移す。
ルーミは、俺の目をまっすぐに見つめると口を開いた。
「あの赤ん坊から、クータルちゃんと同じ魔力を感じます。これは、間違いなく『創造の竜』の力です」
「……やっぱりか?」
薄々、勘づいてはいたが……。
「ヴィンタークラーグ家に伝わる古文書によれば、『創造の竜』の力は、世界の理そのものを捻じ曲げる、と記されています。生命の創造、季節の改変……そして、生物の形態さえも、自在に変化させることが可能だと」
ルーミは言葉をつづけた。
「お兄様。シグルーンさんが姿を消した……。まさにその日に、都合よく現れた、亜麻色の髪の赤ん坊。――この子は、本当に『拾われた』のでしょうか?」
◇◇◇
実際のところ、不自然な点が多すぎた。
だが、まさか、そんなことはありえないだろう……と思っていたのだが。
俺は、リビングでミーシャに抱かれてすやすやと眠る赤ん坊と、その隣でどこか寂しそうにしているクータルの元へと、ゆっくりと歩み寄った。
「クータル」
俺の声に、娘の肩がびくりと震える。
「少しだけ、二人で話がしたいんだ。いいか?」
俺たちは、暖炉の前に二人きりで向かい合って座った。
パチパチ、と薪のはぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。
俺は、クータルの小さな肩を、優しく掴んだ。
「クータル。正直に、話してくれ」
俺はできるだけ優しい声を心がけて言った。
叱るつもりなんて、欠片もねえ。
ただ、真実が知りたいだけだ。
「あの子は……あの赤ちゃんは、どこから来たんだ?」
俺の問い。
それを聞いたクータルのルビーみたいな瞳が、大きく揺れた。
「……森で、ひろったの」
だが、その声は嘘をついている者のそれだった。
俺は、何も言わない。
ただ、じっと、娘の瞳を見つめ返す。
やがて、俺の視線に耐えきれなくなったのだろう。
クータルの瞳から、ぽろり、と大粒の涙がこぼれ落ちた。
一度溢れ出した涙は、もう止まらなかった。
「……ごめんなさい」
嗚咽が、漏れる。
「ごめんなさい、パパ……っ!」
彼女は、しゃくり上げながら、ついに全てを告白した。
「しーちゃんママと、けんかして……むしゃくしゃして……っ。『あかちゃんになっちゃえー!』って、やったら……ほんとに、なっちゃったの……!」
◇◇◇
クータルの衝撃の告白。
リビングにいた全員が、完全に固まっていた。
「そ、そんな……」とピヒラが口元を抑えていた。
「論理的にありえません……」とソルヴァも驚いている。
俺は、泣きじゃくるクータルの前に膝をつき、その小さな体を、力いっぱい抱きしめてやった。
「……そうか。大丈夫だ。ちゃんと言えて偉いな」
俺の言葉に、クータルの嗚咽が、さらに大きくなる。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「いいんだ。もう、いいんだよ」
俺は、その小さな背中を、何度も、何度も優しくさすってやる。
やがて、少しだけ落ち着きを取り戻したクータルが、俺の胸に顔を埋めたまま、か細い声で言った。
「あのね、パパ……。戻し方が、わからないの」




