第88話 クーのあかちゃん
ミーシャがウィッカー・フォックスの子供を森へ返してから、数日が過ぎた。
騒がしい日々から、また、穏やかな朝となる。
俺たちの新しい城の、日当たりのいいダイニング。
焼きたてのパンの香ばしい匂いと、ピヒラが淹れてくれたハーブティーの優しい湯気が立ち上っている。
「ぴーら、このぱん、おいしー!」
「ふふ、良かった。クータル、口の周りにクリームがついてるよ」
そんな娘たちの賑やかな声を、俺とシグルーン、そしてソルヴァが、本当の家族のように、ただただ温かい目で見守っていた。
ルーミは、まだ少し居心地が悪そうだが、食事のときは同席してくれている。
この、何気ない日常。
それこそが、俺が人生の最後に手に入れた、かけがえのない宝物だった。
……いや、最後だなんて、縁起でもねえか。
その平和な食卓の空気を、遠慮なく、真正面からぶち破ったのは、クータルだった。
「ねえ、しーちゃんママ!」
クータルが、満面の笑みで、俺の隣に座るシグルーンを見上げた。
そのルビーみたいな瞳には、一点の曇りもない。
純粋な好奇心でキラキラと輝いている。
「ママは、パパの赤ちゃん、うまないの?」
しん、と。
あれだけ騒がしかった食卓が静まり返った。
クータルの、あまりにも無邪気で、残酷な一言。
カシャン、と。
シグルーンの手から、銀のスプーンが滑り落ちる、甲高い音が響く。
「……っ」
シグルーンの顔から、すうっと血の気が引いていくのが、隣にいる俺にすら分かった。
「子供は……産まない」とシグルーンは言った。
「なんで? なんで? クー、妹ほしい! ミーシャみたいに育てたい! ママ、パパの赤ちゃん産んで」
「ごめんね、クータル。無理なんだよ」とシグルーンが優しく言う。
「なんで〜。そんなのいや〜。赤ちゃんほしい〜」
「……私だって、産めるものなら産みたいさ」
シグルーンは深くため息をついたあと、食事中にもかかわらず、散歩に行ってくる、といって出ていってしまった。
後に残されたのは、気まずい沈黙と、何が起きたのか分からず、ただ呆然としている娘たちだけだった。
うーん、あとでフォロー入れておかないとな……。
◇◇◇
気まずい空気が、一日中、家の中に重くのしかかっていた。
シグルーンは、あれから一度も帰ってこない。
そんな、重苦しい午後のことだった。
俺が一人、リビングで物思いに耽っていると、玄関の扉が勢いよく開いた。
「ぱぱー! みてみてー!」
弾むような声と共に、クータルが駆け込んできた。
その腕の中には、小さな赤ん坊が一人、すやすやと穏やかな寝息を立てている。
陽光を浴びて輝く、亜麻色の髪がきれいだ。
「この子、森でひろったの! だから、クーのあかちゃんにするの!」
クータルは、胸を張り、誇らしげにそう宣言した。
ミーシャが子狐の『ママ』になったように、自分もこの子の『ママ』になるのだと、その瞳は輝いている。
……いや、人間は拾ってきたらだめだろ。
狐じゃねえんだから。
「ダメだ、クータル」
俺は、毅然とした声で言った。
その小さな肩を掴み、視線を合わせる。
「この子には本当の親御さんがいるんだ。今頃、どれだけ心配しているか考えろ。すぐに返しに行くぞ」
俺の言葉に、クータルの顔が、みるみるうちにしょんぼりと曇っていく。
だが、俺は心を鬼にして、赤ん坊をそっと抱き上げた。
ずしりとした、温かい重み。
クータルを、はじめて抱いたときのことを思い出した。
俺はクータルを伴い、街へと聞き込み調査に出た。
……だが、結果は芳しくない。
この辺りで赤ん坊がいなくなったという届け出は、どこにも出ていなかった。
◇◇◇
クータルが赤ん坊を拾ったと言っていた場所も、いまはわからないという。
「仕方ない……。今夜は、うちで保護するしかないな」
「……ごめんなさい」とクータルはしょげている。
「気にするな……。いや、むしろ、お手柄かもしれないな」
こんな赤子が森で迷子になるわけがない。
ウィッカーデイルで聞き込みをしても親は現れなかった。
そうなると、この子は……どこか遠くから来て、捨てられた子としか思えない。
もしクータルが赤子を発見していなければ、この子は、今頃……。
そんなことを考えていたときだった。
腹を空かせたのか、赤ん坊がふにゃ、と泣き声を上げた。
その瞬間、俺の頭のスイッチが、かつてクータルを育てた『父親』のものへと切り替わる。
「ピヒラ、ミルクを温めてくれ。ミーシャ、おむつ代わりの清潔な布を持ってきてくれ。ソルヴァとルーミは、湯を沸かしてくれ」
俺の指示に、娘たちが「は、はいっ!」と慌てて動き出す。
俺は赤ん坊を抱きかかえ、その小さな体を優しく揺する。
「よしよし、腹が減ったのか。もう大丈夫だぞ」
温めたミルクを、人肌まで冷まし、哺乳瓶の吸い口をそっと赤ん坊の口元へ。
ちゅぱ、と小さな口が吸い付き、夢中でミルクを飲み始める。
飲み終われば、背中を優しく叩いて、げっぷをさせてやる。
汚れたおむつを、取り替える。
慣れたもんだった。
それを見ていた娘たちが、感嘆の声を上げた。
「すごい……パパ、完璧……」
「さすがです、お兄様」
「まるで、プロだにゃ……」
腕の中で安心しきって、再びすやすやと寝息を立て始めた赤ん坊の、その温かい重みだけを感じていた。
かつて、孤独だった俺の人生を、根底からひっくり返してくれた、あの懐かしい重みだった。
◇◇◇
「赤ちゃん、かわいい!」とクータルが言った。
クータルが、隣で赤子を見ていた。
お前も、ちょっと前までは、そんな感じだったんだぞ、なんてことを思う。
すっかり大きくなったもんだ。
すーすー、と穏やかな寝息を立てる、その無垢な寝顔。
俺は、その小さな頬を、ごつごつした指先で、そっと撫でた。
その瞬間だった。
眠っているはずの赤ん坊の小さな手が、俺の指を、ぎゅっと、力強く握り返してきた。
ふとした瞬間に見せる、その寝顔の面影。
それは、どうしようもなく、あの不器用で、素直じゃなくて、だけど誰よりも優しい、俺の愛しい女に、そっくりだった。
ありえない。
そんな馬鹿なことが、あるはずがない。
だが、俺の心臓が、ドクン、ドクンとやかましく鳴り響いていた。
「……まさか、な」
俺の、震える呟きだけが、静まり返った夜の部屋に、虚しく落ちた。




