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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第88話 クーのあかちゃん

 ミーシャがウィッカー・フォックスの子供を森へ返してから、数日が過ぎた。


 騒がしい日々から、また、穏やかな朝となる。

 俺たちの新しい城の、日当たりのいいダイニング。

 焼きたてのパンの香ばしい匂いと、ピヒラが淹れてくれたハーブティーの優しい湯気が立ち上っている。


「ぴーら、このぱん、おいしー!」

「ふふ、良かった。クータル、口の周りにクリームがついてるよ」


 そんな娘たちの賑やかな声を、俺とシグルーン、そしてソルヴァが、本当の家族のように、ただただ温かい目で見守っていた。

 ルーミは、まだ少し居心地が悪そうだが、食事のときは同席してくれている。


 この、何気ない日常。

 それこそが、俺が人生の最後に手に入れた、かけがえのない宝物だった。

 ……いや、最後だなんて、縁起でもねえか。


 その平和な食卓の空気を、遠慮なく、真正面からぶち破ったのは、クータルだった。


「ねえ、しーちゃんママ!」


 クータルが、満面の笑みで、俺の隣に座るシグルーンを見上げた。

 そのルビーみたいな瞳には、一点の曇りもない。

 純粋な好奇心でキラキラと輝いている。


「ママは、パパの赤ちゃん、うまないの?」


 しん、と。

 あれだけ騒がしかった食卓が静まり返った。


 クータルの、あまりにも無邪気で、残酷な一言。


 カシャン、と。

 シグルーンの手から、銀のスプーンが滑り落ちる、甲高い音が響く。


「……っ」


 シグルーンの顔から、すうっと血の気が引いていくのが、隣にいる俺にすら分かった。


「子供は……産まない」とシグルーンは言った。


「なんで? なんで? クー、妹ほしい! ミーシャみたいに育てたい! ママ、パパの赤ちゃん産んで」


「ごめんね、クータル。無理なんだよ」とシグルーンが優しく言う。


「なんで〜。そんなのいや〜。赤ちゃんほしい〜」


「……私だって、産めるものなら産みたいさ」


 シグルーンは深くため息をついたあと、食事中にもかかわらず、散歩に行ってくる、といって出ていってしまった。


 後に残されたのは、気まずい沈黙と、何が起きたのか分からず、ただ呆然としている娘たちだけだった。


 うーん、あとでフォロー入れておかないとな……。


◇◇◇


 気まずい空気が、一日中、家の中に重くのしかかっていた。

 シグルーンは、あれから一度も帰ってこない。


 そんな、重苦しい午後のことだった。

 俺が一人、リビングで物思いに耽っていると、玄関の扉が勢いよく開いた。


「ぱぱー! みてみてー!」


 弾むような声と共に、クータルが駆け込んできた。

 その腕の中には、小さな赤ん坊が一人、すやすやと穏やかな寝息を立てている。

 陽光を浴びて輝く、亜麻色の髪がきれいだ。


「この子、森でひろったの! だから、クーのあかちゃんにするの!」


 クータルは、胸を張り、誇らしげにそう宣言した。

 ミーシャが子狐の『ママ』になったように、自分もこの子の『ママ』になるのだと、その瞳は輝いている。


 ……いや、人間は拾ってきたらだめだろ。

 狐じゃねえんだから。


「ダメだ、クータル」


 俺は、毅然とした声で言った。

 その小さな肩を掴み、視線を合わせる。


「この子には本当の親御さんがいるんだ。今頃、どれだけ心配しているか考えろ。すぐに返しに行くぞ」


 俺の言葉に、クータルの顔が、みるみるうちにしょんぼりと曇っていく。

 だが、俺は心を鬼にして、赤ん坊をそっと抱き上げた。

 ずしりとした、温かい重み。

 クータルを、はじめて抱いたときのことを思い出した。


 俺はクータルを伴い、街へと聞き込み調査に出た。


 ……だが、結果は芳しくない。

 この辺りで赤ん坊がいなくなったという届け出は、どこにも出ていなかった。


◇◇◇


 クータルが赤ん坊を拾ったと言っていた場所も、いまはわからないという。


「仕方ない……。今夜は、うちで保護するしかないな」


「……ごめんなさい」とクータルはしょげている。


「気にするな……。いや、むしろ、お手柄かもしれないな」


 こんな赤子が森で迷子になるわけがない。

 ウィッカーデイルで聞き込みをしても親は現れなかった。

 そうなると、この子は……どこか遠くから来て、捨てられた子としか思えない。

 もしクータルが赤子を発見していなければ、この子は、今頃……。


 そんなことを考えていたときだった。


 腹を空かせたのか、赤ん坊がふにゃ、と泣き声を上げた。


 その瞬間、俺の頭のスイッチが、かつてクータルを育てた『父親』のものへと切り替わる。


「ピヒラ、ミルクを温めてくれ。ミーシャ、おむつ代わりの清潔な布を持ってきてくれ。ソルヴァとルーミは、湯を沸かしてくれ」


 俺の指示に、娘たちが「は、はいっ!」と慌てて動き出す。


 俺は赤ん坊を抱きかかえ、その小さな体を優しく揺する。


「よしよし、腹が減ったのか。もう大丈夫だぞ」


 温めたミルクを、人肌まで冷まし、哺乳瓶の吸い口をそっと赤ん坊の口元へ。

 ちゅぱ、と小さな口が吸い付き、夢中でミルクを飲み始める。

 飲み終われば、背中を優しく叩いて、げっぷをさせてやる。

 汚れたおむつを、取り替える。

 慣れたもんだった。


 それを見ていた娘たちが、感嘆の声を上げた。


「すごい……パパ、完璧……」

「さすがです、お兄様」

「まるで、プロだにゃ……」


 腕の中で安心しきって、再びすやすやと寝息を立て始めた赤ん坊の、その温かい重みだけを感じていた。

 かつて、孤独だった俺の人生を、根底からひっくり返してくれた、あの懐かしい重みだった。


◇◇◇


「赤ちゃん、かわいい!」とクータルが言った。


 クータルが、隣で赤子を見ていた。

 お前も、ちょっと前までは、そんな感じだったんだぞ、なんてことを思う。

 すっかり大きくなったもんだ。


 すーすー、と穏やかな寝息を立てる、その無垢な寝顔。

 俺は、その小さな頬を、ごつごつした指先で、そっと撫でた。


 その瞬間だった。

 眠っているはずの赤ん坊の小さな手が、俺の指を、ぎゅっと、力強く握り返してきた。

 ふとした瞬間に見せる、その寝顔の面影。


 それは、どうしようもなく、あの不器用で、素直じゃなくて、だけど誰よりも優しい、俺の愛しい女に、そっくりだった。


 ありえない。

 そんな馬鹿なことが、あるはずがない。

 だが、俺の心臓が、ドクン、ドクンとやかましく鳴り響いていた。


「……まさか、な」


 俺の、震える呟きだけが、静まり返った夜の部屋に、虚しく落ちた。


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