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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第87話 ギン

 その日は、朝から冷たい雨が降り続いていた。


 新しくなった我が家の屋根を、雨粒が優しく叩く音が響いている。

 俺は暖炉の前で揺れる炎を眺めながら、そんな静かな時間を悪くないと思っていた。


 だが、この家のチーフ・ガーディアンだけは、どうにも落ち着かない様子だった。


「…………」


 ミーシャが、窓の外に広がる、雨に煙る森をじっと見つめている。

 自慢の猫耳はぴんと立てられ、尻尾の先が不安げにぱたぱたと床を叩いていた。

 その小さな背中からは、「パトロールに行けないにゃ……」という心の声が聞こえてくるようだった。


 ミーシャは雨の日でも外に行きたがるんだよな……。

 シグルーンは雨の日は外に行くなというが……。

 まあ、今日はシグルーンも出かけているし、たまには良いだろう。


「おいミーシャ。そんなに外が気になるなら、少しだけ様子を見てきたらどうだ。風邪をひかねえように、マントはしっかり着ていくんだぞ」


「にゃ! 分かったにゃ、パパ!」


 俺の言葉に、ミーシャはぱっと顔を輝かせると、弾丸のように玄関へと駆けていった。

 その、あまりにも嬉しそうな後ろ姿を見送りながら、俺は苦笑する。


 しばらくして、ずぶ濡れになったミーシャが帰ってきた。

 だが、その様子がどうにもおかしかった。

 俺の顔をちらりと見ると、何かを隠すように、そそくさと自分の部屋がある屋根裏へと駆け上がっていく。


「おい、どうしたんだ?」


「な、なんでもないにゃ! ちょっと濡れちゃっただけだにゃ!」


 階段の途中から聞こえてくる声は、明らかに動揺していた。


 ……何か隠してるな?


 まあ、一つや二つ、親に言えない秘密もできる頃だろう。

 俺は、特に深く追及することなく、その小さな背中を見送ってやることにした。


◇◇◇


 それから数日、ミーシャの奇妙な行動は続いた。


 食事の時間になると、いつもなら真っ先に「おかわり!」と言うはずの食欲旺盛な娘が、なぜか少しだけご飯を残すようになった。

 そして、食べ終わると、残したパンや肉をナプキンにこっそり包んで、一目散に自室へと消えていく。


「ミーシャ、最近どうしたんだろう。食欲がないのだろうか?」


 シグルーンが心配そうに眉を寄せるが、俺には分かっていた。


 あれは、食欲がないんじゃない。

 誰かのために、自分の分を運んでいるんだ。


 夜、静まり返った家の中、屋根裏部屋から微かに、リュートの優しい音色が聞こえてくることがあった。

 ルーミ先生に教わったばかりの、拙い子守唄。

 その音色に混じって、時折、「きゅぅん」という鳴き声が聞こえるような気もした。


(やれやれ、とんでもない秘密を抱え込みやがったな)


 俺は、気づかないふりをすることにした。


 父親として、娘の成長を信じて、どっしりと構えてやる。

 それが、今の俺にできる最善のことだと思ったからだ。


◇◇◇


 事件が起きたのは、そんな秘密の生活が始まって一週間ほど経った、ある晴れた日の午後だった。


「ピヒラ、今日のパイ、さいこー!」


 クータルが、オーブンから取り出されたばかりのアップルパイを前に、目をキラキラと輝かせている。

 ピヒラが腕によりをかけて作った、自慢の一品だ。


 その、あまりにも平和で、温かい光景を、一匹の小さな闖入者ちんにゅうしゃが打ち破った。


 タタタタッ!


 屋根裏部屋へと続く階段から、銀色の毛玉のようなものが駆け下りてきたのだ。

 それは、一切のためらいなくテーブルの上に飛び乗ると、湯気の立つアップルパイに、がぶりと食らいついた。


「「「…………え?」」」


 その場にいた全員が、完全に固まる。


 そこにいたのは、子犬ほどの大きさの、銀色の毛皮に覆われた、狐のような生き物だった。

 ピンと立った大きな耳、ふさふさの尻尾。

 間違いない、この辺りの森に住むと言われる、珍しい生き物『ウィッカー・フォックス』の子供だ。


「あーっ! ギン、だめーっ!」


 我に返ったミーシャの悲鳴が、リビングに木霊した。

 彼女は顔を真っ青にして、子狐――ギンを慌てて捕まえようとする。

 だが、もう遅い。

 ついに、家族全員に、その存在が見つかってしまった。


「……ミーシャ」


 俺が静かに声をかけると、ミーシャはギンをぎゅっと胸に抱きしめていた。


「この子は、あたしが見つけたにゃ! 森で、独りぼっちで、怪我して震えてたにゃ! だから、あたしが守るにゃ!」


 初めて見せる、俺への明確な反抗。


 その必死な姿が、かつて奴隷商に追われ、この家に逃げ込んできた頃の、幼いミーシャの姿と重なった。


 ああ、そうか。

 こいつは、この小さな命に、かつての自分を重ねていたんだ。


 俺は、娘を叱る気には、到底なれなかった。

 その小さな頭を、優しく撫でてやる。


「そうか。お前が、助けてやったんだな」


 ミーシャは拍子抜けしたように、きょとんとした顔で俺を見上げた。


「……怒らない、にゃ?」


「ああ。お前は、正しいことをした。だがな、ミーシャ。一つだけ、パパと約束してほしい」


 俺は、彼女の小さな右手を取ると、そっと自分の小指を絡めた。


「もし親が探しに来たら、その時は、ちゃんと返してやるんだぞ。それが、こいつにとっての一番の幸せだからな」


 俺の言葉に、ミーシャはしばらくの間、じっと俺の顔を見つめていた。


「……うん。約束、するにゃ」


 小さな小指が、俺の指に、きゅっと固く絡みついた。

 それは、父親と娘の、誓いの証だった。


◇◇◇


 それから数日後の、月がひときわ美しい夜だった。


 俺が一人、新しい家のポーチで涼んでいると、森の茂みの中から、二つの燐光がこちらをじっと見つめているのに気づいた。


 俺が身構えるより早く、その光は静かに茂みから姿を現す。

 現れたのは、月光を浴びて銀色に輝く、二匹の立派な『ウィッカー・フォックス』だった。

 その佇まいは、森の王族のような気品に満ちていた。


(……迎えに、来たか)


 俺は、家の中に声をかけた。

 やがて、ミーシャが、ギンを胸に抱いてポーチに出てくる。


「キュゥ……」


 ギンが、親の姿を認めて、嬉しそうな、それでいて寂しそうな声を上げた。

 親狐たちも、駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえ、ただ静かに、その場で我が子の無事を確かめている。


 ミーシャは、ぎゅっと唇を噛み締めた。

 瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。

 だが、彼女は泣かなかった。


 俺との、約束。


 彼女は、そっとギンの体を地面に下ろすと、その小さな背中を、優しく押してやった。


「……元気でにゃ! ギン!」


 しゃくり上げそうな声を必死にこらえ、無理やり作った、ぐしゃぐしゃの笑顔。

 ギンは、一度だけ名残惜しそうにミーシャを振り返ると、親の元へと駆け寄っていった。


 森へと帰っていく、三つの銀色の影。

 その、幸せそうな親子の後ろ姿を、俺は、震える娘の肩をそっと抱きながら、静かに見送っていた。


「よく頑張ったな、ミーシャ。お前は、最高のチーフ・ガーディアンだ」


 俺の優しい言葉に、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。

 ミーシャは、俺の胸に顔を埋めると、声を殺して、静かに涙を流すのだった。

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