第87話 ギン
その日は、朝から冷たい雨が降り続いていた。
新しくなった我が家の屋根を、雨粒が優しく叩く音が響いている。
俺は暖炉の前で揺れる炎を眺めながら、そんな静かな時間を悪くないと思っていた。
だが、この家のチーフ・ガーディアンだけは、どうにも落ち着かない様子だった。
「…………」
ミーシャが、窓の外に広がる、雨に煙る森をじっと見つめている。
自慢の猫耳はぴんと立てられ、尻尾の先が不安げにぱたぱたと床を叩いていた。
その小さな背中からは、「パトロールに行けないにゃ……」という心の声が聞こえてくるようだった。
ミーシャは雨の日でも外に行きたがるんだよな……。
シグルーンは雨の日は外に行くなというが……。
まあ、今日はシグルーンも出かけているし、たまには良いだろう。
「おいミーシャ。そんなに外が気になるなら、少しだけ様子を見てきたらどうだ。風邪をひかねえように、マントはしっかり着ていくんだぞ」
「にゃ! 分かったにゃ、パパ!」
俺の言葉に、ミーシャはぱっと顔を輝かせると、弾丸のように玄関へと駆けていった。
その、あまりにも嬉しそうな後ろ姿を見送りながら、俺は苦笑する。
しばらくして、ずぶ濡れになったミーシャが帰ってきた。
だが、その様子がどうにもおかしかった。
俺の顔をちらりと見ると、何かを隠すように、そそくさと自分の部屋がある屋根裏へと駆け上がっていく。
「おい、どうしたんだ?」
「な、なんでもないにゃ! ちょっと濡れちゃっただけだにゃ!」
階段の途中から聞こえてくる声は、明らかに動揺していた。
……何か隠してるな?
まあ、一つや二つ、親に言えない秘密もできる頃だろう。
俺は、特に深く追及することなく、その小さな背中を見送ってやることにした。
◇◇◇
それから数日、ミーシャの奇妙な行動は続いた。
食事の時間になると、いつもなら真っ先に「おかわり!」と言うはずの食欲旺盛な娘が、なぜか少しだけご飯を残すようになった。
そして、食べ終わると、残したパンや肉をナプキンにこっそり包んで、一目散に自室へと消えていく。
「ミーシャ、最近どうしたんだろう。食欲がないのだろうか?」
シグルーンが心配そうに眉を寄せるが、俺には分かっていた。
あれは、食欲がないんじゃない。
誰かのために、自分の分を運んでいるんだ。
夜、静まり返った家の中、屋根裏部屋から微かに、リュートの優しい音色が聞こえてくることがあった。
ルーミ先生に教わったばかりの、拙い子守唄。
その音色に混じって、時折、「きゅぅん」という鳴き声が聞こえるような気もした。
(やれやれ、とんでもない秘密を抱え込みやがったな)
俺は、気づかないふりをすることにした。
父親として、娘の成長を信じて、どっしりと構えてやる。
それが、今の俺にできる最善のことだと思ったからだ。
◇◇◇
事件が起きたのは、そんな秘密の生活が始まって一週間ほど経った、ある晴れた日の午後だった。
「ピヒラ、今日のパイ、さいこー!」
クータルが、オーブンから取り出されたばかりのアップルパイを前に、目をキラキラと輝かせている。
ピヒラが腕によりをかけて作った、自慢の一品だ。
その、あまりにも平和で、温かい光景を、一匹の小さな闖入者が打ち破った。
タタタタッ!
屋根裏部屋へと続く階段から、銀色の毛玉のようなものが駆け下りてきたのだ。
それは、一切のためらいなくテーブルの上に飛び乗ると、湯気の立つアップルパイに、がぶりと食らいついた。
「「「…………え?」」」
その場にいた全員が、完全に固まる。
そこにいたのは、子犬ほどの大きさの、銀色の毛皮に覆われた、狐のような生き物だった。
ピンと立った大きな耳、ふさふさの尻尾。
間違いない、この辺りの森に住むと言われる、珍しい生き物『ウィッカー・フォックス』の子供だ。
「あーっ! ギン、だめーっ!」
我に返ったミーシャの悲鳴が、リビングに木霊した。
彼女は顔を真っ青にして、子狐――ギンを慌てて捕まえようとする。
だが、もう遅い。
ついに、家族全員に、その存在が見つかってしまった。
「……ミーシャ」
俺が静かに声をかけると、ミーシャはギンをぎゅっと胸に抱きしめていた。
「この子は、あたしが見つけたにゃ! 森で、独りぼっちで、怪我して震えてたにゃ! だから、あたしが守るにゃ!」
初めて見せる、俺への明確な反抗。
その必死な姿が、かつて奴隷商に追われ、この家に逃げ込んできた頃の、幼いミーシャの姿と重なった。
ああ、そうか。
こいつは、この小さな命に、かつての自分を重ねていたんだ。
俺は、娘を叱る気には、到底なれなかった。
その小さな頭を、優しく撫でてやる。
「そうか。お前が、助けてやったんだな」
ミーシャは拍子抜けしたように、きょとんとした顔で俺を見上げた。
「……怒らない、にゃ?」
「ああ。お前は、正しいことをした。だがな、ミーシャ。一つだけ、パパと約束してほしい」
俺は、彼女の小さな右手を取ると、そっと自分の小指を絡めた。
「もし親が探しに来たら、その時は、ちゃんと返してやるんだぞ。それが、こいつにとっての一番の幸せだからな」
俺の言葉に、ミーシャはしばらくの間、じっと俺の顔を見つめていた。
「……うん。約束、するにゃ」
小さな小指が、俺の指に、きゅっと固く絡みついた。
それは、父親と娘の、誓いの証だった。
◇◇◇
それから数日後の、月がひときわ美しい夜だった。
俺が一人、新しい家のポーチで涼んでいると、森の茂みの中から、二つの燐光がこちらをじっと見つめているのに気づいた。
俺が身構えるより早く、その光は静かに茂みから姿を現す。
現れたのは、月光を浴びて銀色に輝く、二匹の立派な『ウィッカー・フォックス』だった。
その佇まいは、森の王族のような気品に満ちていた。
(……迎えに、来たか)
俺は、家の中に声をかけた。
やがて、ミーシャが、ギンを胸に抱いてポーチに出てくる。
「キュゥ……」
ギンが、親の姿を認めて、嬉しそうな、それでいて寂しそうな声を上げた。
親狐たちも、駆け寄りたい気持ちをぐっとこらえ、ただ静かに、その場で我が子の無事を確かめている。
ミーシャは、ぎゅっと唇を噛み締めた。
瞳には、みるみるうちに涙が溜まっていく。
だが、彼女は泣かなかった。
俺との、約束。
彼女は、そっとギンの体を地面に下ろすと、その小さな背中を、優しく押してやった。
「……元気でにゃ! ギン!」
しゃくり上げそうな声を必死にこらえ、無理やり作った、ぐしゃぐしゃの笑顔。
ギンは、一度だけ名残惜しそうにミーシャを振り返ると、親の元へと駆け寄っていった。
森へと帰っていく、三つの銀色の影。
その、幸せそうな親子の後ろ姿を、俺は、震える娘の肩をそっと抱きながら、静かに見送っていた。
「よく頑張ったな、ミーシャ。お前は、最高のチーフ・ガーディアンだ」
俺の優しい言葉に、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
ミーシャは、俺の胸に顔を埋めると、声を殺して、静かに涙を流すのだった。




