第85話 音楽会
ウィッカーデイルの収穫祭の朝は、いつもより少しだけ騒がしい。
遠くから聞こえてくる準備の喧騒と、焼き菓子の甘い匂い。
だが、俺たちの新しい家の食卓を支配していたのは……。
そんな陽気な空気とは真逆の、どうしようもなくぎこちない沈黙だった。
原因は、俺と、俺の正面に座るソルヴァだ。
昨日の、あの夕暮れの口づけ以来、俺たちはまともに顔を合わせられずにいた。
ちらりと視線が合っては、慌ててパンに視線を落とす。
その繰り返しだ。
……我ながら、四十過ぎのおっさんが、何をやってるんだか。
「……なんだお前たち、昨夜何かあったのか?」
紅茶をすすりながら、シグルーンが面白そうに俺たちを見つめてくる。
その、全てを見透かしたような視線に、俺とソルヴァの肩がびくりと跳ねた。
「な、なんでもない!」
「ええ、何もありませんでした!」
声が見事に重なり、余計に墓穴を掘る。
シグルーンは「ふぅん」と意味ありげに鼻を鳴らすと、それ以上は追及してこなかった。
そんな、大人たちの不器用なやり取りをよそに、今日の主役は、完全に自分の殻に閉じこもっていた。
「ミーシャ、朝ごはん、ちゃんと食べないと力が出ないよ」
ピヒラが心配そうに声をかける。
だが、ミーシャは「……うん」と力なく頷くだけだ。
スープにほとんど口をつけず、自慢の猫耳も尻尾も、だらりと力なく垂れ下がっている。
無理もねえ。
今日が、あいつにとっての初舞台なんだ。
「みーしゃ、だいじょーぶ!」
見かねたクータルが椅子から飛び降り、ミーシャにぎゅっと抱きついた。
「失敗したっていいんだぞ」俺もミーシャの頭を撫でる。「お前がステージに立ってくれるだけで、パパは嬉しいんだからな」
シグルーンも力強く頷いた。
「そうだ。お前ならできる。私たちがついている」
「……みんな」
家族の温かい言葉に、ミーシャの瞳がわずかに潤んだ。
彼女は、一度だけぎゅっと唇を噛み締めると、こくりと小さく頷いた。
そうだ。
この子の背中には、俺たちがいる。
うまくいかなくてもいい。
失敗したっていい。
頑張ったなら、それでいいんだ。
◇◇◇
ウィッカーデイルの中央広場は、これ以上ないほどの活気に満ち溢れていた。
色とりどりの飾り付け、陽気な音楽、そして、どこまでも続く人々の笑顔の波。
娘たちは、その喧騒に目を輝かせている。
「わーい! おまつり!」
「すごい人……!」
俺は、そんな娘たちから目を離さないようにしながらも、意識の半分を、別の場所へと飛ばしていた。
斥候としての、感覚を。
―――いるな。
喧騒の中に、溶け込んでいるようで、明らかに異質な気配が、五つ。
獲物を狙う、研ぎ澄まされた獣の匂い。
祭りの熱狂とは無縁の、冷たい殺気。
ヤンリケ皇国の刺客……だろうか。
だとすると、狙いはルーミだ。
俺は、視線だけでシグルーンに合図を送る。
『五時の方角、屋根の上。弓兵』
彼女は、俺の視線の先を一瞥しただけで全てを理解し、無言で頷き返した。
次に、ソルヴァへと視線を移す。
『九時の方角、露店の影。二人組』
彼女は一瞬戸惑ったが、すぐに状況を察したようだ。
その表情を引き締めた。
俺たちは、娘たちに気づかれぬよう、ごく自然に立ち位置を変える。
◇◇◇
やがて、陽が傾き、祭りの熱狂が最高潮に達した頃。
広場に設えられた特設ステージに、司会者の声が響き渡った。
「さあ、皆様お待たせいたしました! 本日のメインイベント、音楽会の始まりです!」
万雷の拍手の中、ミーシャが、クータルに手を引かれてステージへと上がっていく。
深い藍色のワンピースが、夕暮れの光を浴びて、星空のようにきらきらと輝いていた。
その小さな体は、まだ恐怖で微かに震えている。
舞台袖で、ルーミが優しくその背中を押した。
ミーシャは、一度だけ客席にいる俺たちの方を不安そうに見た。
俺は、力強く頷き返す。
大丈夫だ。
お前の背中は、俺たちが守る。
静まり返る広場。
ミーシャは、目をぎゅっと瞑ると、震える指で、そっとリュートの弦を弾いた。
ぽろん、と。
紡がれた最初の音は、まだ少しだけ、おぼつかなかった。
だが、その音色には、確かに魂が宿っていた。
震えながらも、必死に紡がれる旋律。
それは、ルーミが教えてくれた、あの懐かしい故郷の歌。
この街に来て、俺たちと出会って、彼女が感じた全ての喜びと、悲しみが、その音色に込められている。
聴衆が、息を呑む。誰もが、その小さな体から放たれる、あまりにも痛々しく、あまりにも純粋な魂の音に、心を奪われていた。
だが、俺には分かった。
まだ、本当のミーシャの音じゃない。
恐怖が、その才能を薄い膜のように覆っている。
その、張り詰めた沈黙を破ったのは、もう一人の、小さな女神だった。
ステージの上で、ミーシャの手をぎゅっと握りしめていたクータルが、すう、と息を吸い込んだのだ。
「ふん、ふふん……」
最初は、小さなハミングだった。
ミーシャの奏でるリュートの旋律に、そっと寄り添うような、優しい歌声。
だが、その声には、聴く者の魂を直接揺さぶるような、不思議な力が宿っていた。
あの農場で、死んだ大地を蘇らせた、生命そのものの歌。
クータルの歌声に、ミーシャの肩から、ふっと力が抜けたのが分かった。
恐怖の膜が、破れた。
彼女は、ゆっくりと目を開ける。
そして、隣で歌うクータルを見て、ふわりと、はにかむように微笑んだ。
もう、一人じゃない。
その確信が、ミーシャの指に、本当の力を与えた。
リュートの音色が、変わる。
切なく、優しく、そして、どこまでも力強い、魂の旋律へと。
姉妹の奏でる奇跡のデュエット。
その、あまりにも美しく、神々しいまでのハーモニーが、収穫祭の夜空に響き渡る。
――そして、影が動いた。
屋根の上の弓兵が、聴衆の注意がステージに集中している隙を突き、音もなく矢を番える。
その狙いは、舞台袖でミーシャを見守る、ルーミだ。
だが、その引き金が引かれることはなかった。
いつの間にか背後に回り込んでいたシグルーンが、露店の影から投げた石一つで、弓兵の意識を正確に刈り取っていた。
崩れ落ちる人影は、祭りの喧騒の中に、誰にも気づかれることなく消えていく。
姉妹の奏でる奇跡のデュエットが、少しだけ力強い、リズミカルな旋律を奏で始める。
その音色に合わせるように、俺は動いた。
人混みをすり抜け、露店の影に潜む二人組の背後を取る。
一人目の首筋に、手刀を音もなく叩き込む。
二人目が異変に気づき振り返るより早く、その鳩尾に、柄頭を深く、静かにめり込ませた。
ソルヴァもまた、動いていた。
彼女は、何気ないふうを装って、残る二人の刺客の足元に、ジュースを「こぼして」みせる。
次の瞬間、こぼれた液体は、誰にも気づかれぬまま、極薄の氷の膜となって刺客たちの動きを完全に封じた。
身動きが取れなくなった二人の背後に、回り込んでいた俺とシグルーンが、同時にその意識を闇へと沈める。
全てが、ほんの数十秒の出来事。
ミーシャとクータルの魂の演奏をBGMに、俺たちは、音もなく、血も流さず、完璧に脅威を排除してみせた。
◇◇◇
やがて、最後の音が、静かな余韻を残して、夕暮れの空に溶けていく。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、誰かの、堰を切ったような拍手だった。
それは、一人、また一人と伝染し、やがて、ウィッカーデイルの街を揺るがすほどの、万雷の喝采へと変わった。
「すごいぞ、嬢ちゃんたち!」
「ブラボー!」
ミーシャは、呆然とした顔で、自分に降り注ぐ称賛の嵐を見つめている。
やがて、その瞳から、ぽろり、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
それは、恐怖の涙じゃない。
安堵と、喜びと、そして、どうしようもないほどの達成感に満ちた、温かい涙だった。
俺は、人混みの中で、ただ、涙をこらえながら、誰よりも大きな拍手を娘に送っていた。
よくやった。
本当によくやったな、ミーシャ。
◇◇◇
ステージの周りには、瞬く間に人だかりができていた。
興奮した街の連中が、口々に称賛の言葉を送り、姉妹の頭を撫でようと手を伸ばしてくる。
よし。
この喧騒こそが、絶好の好機だ。
俺は、シグルーンとソルヴァに「刺客を片付けてくる」とだけ目配せし、音もなくその場を離れた。
娘たちの晴れ姿を、もう少しだけ見ていたい気持ちを振り払いながら……。
俺が裏路地に転がしておいた刺客たちを尋問しようとした、その時だった。
ふと、嫌な予感が胸をよぎる。
舞台袖にいたはずの、ルーミの気配が消えている。
まずい。
俺は刺客たちを放置し、急いで広場へと戻った。
家族はまだ、街の連中にもみくちゃにされている。
だが、やはりルーミの姿だけがどこにもない。
「ルーミさんを知らないか!?」
俺のただならぬ様子の声に、シグルーンがはっとした顔で答える。
「わからない。気づいたときには、もう……」
俺は斥候としての全感覚を解放し、彼女の痕跡を追い始めた。
ルーミの発するかすかな魔力を追う。
人混みを抜け、裏路地を駆け……その魔力の痕跡は、ウィッカーデイルの南門へと続いていた。
門の外、月明かりが照らす街道に、その人影はあった。
リュートを背負い、ただ一人、静かに佇んでいる。
「……行くのか。挨拶もなしか」
俺の声に、ルーミはゆっくりと振り返った。
その顔に、驚きはない。
「ええ。あなたなら、追いついてくると思っていました」
彼女は、俺の目をまっすぐに見つめると、静かに、だが重い言葉を紡ぎ始めた。
「刺客たちの狙いは、私です。私がこの街に長居すれば、いずれ、あなた方家族にも危害が及ぶ。……もう、そんなことはたくさんですから」
「ヴィンタークラーグ、だったか。お前は、一体何者なんだ」
その名を聞いた瞬間、ルーミの瞳が、鋭い光を宿した。
彼女は、諦めたように、ふっと息を吐く。
「……私の本当の名は、ルーミ・ヴィンタークラーグ。滅ぼされたヤンリケ皇国の旧貴族、その最後の……いえ、二人のうちの一人の生き残りです」
二人……?
もうひとり生き残りがいるということか。
「……お前が、あの農場に呪いをかけたのか?」
俺の問いに、ルーミの肩が震えた。
「……違う! 断じて違います!」叫ぶように言葉をつむぐ。「あれこそが、私が破壊しようとしている、古い世界のやり方です。力で全てを捩じ伏せ、命を弄び、絶望を撒き散らす……。父様と母様を殺し、私たちの故郷を奪った、あの忌まわしい者たちの思想そのものです」
「革命、と言っていたな。お前は、一体何をしようとしているんだ」
「復讐ではありません。私が目指しているのは、この腐敗した世界そのものの、革命です」
彼女は、月を見上げ、ぽつりと、つぶやいた。
「そして、私は、このウィッカーデイルで見つけました。クータル。あの子こそが、革命の鍵なんです」




