第82話 月夜の演奏会
ウィッカーデイルの街が、浮き足立っていた。
もうすぐ、年に一度の『収穫祭』がやってくる。
その準備で、街中がそわそわとした、心地よい熱気に包まれている。
俺たちの家にも、その楽しげな空気は届いていた。
「今年の収穫祭の目玉は、なんといっても音楽会です!」
昼下がり、俺たちの家にやってきた新ギルド支部長のヒルルヤが、目をキラキラと輝かせながらそう切り出した。
「そこで、ぜひ、ミーシャちゃんとクータルちゃんに、特別ゲストとしてステージに立っていただきたいのです! お二人の奇跡の歌声は、もう街中の噂ですから!」
農場の一件以来、娘たちはすっかりこの街で人気者だ。
ヒルルヤの提案に、クータルは「くー、うたうー!」と大喜びで飛び跳ねている。
だが、俺の隣にいたミーシャの肩が、びくりと小さく震えたのを、俺は見逃さなかった。
「……あたしは、いいにゃ」
消え入りそうな、か細い声。
「え?」とヒルルヤが不思議そうに首をかしげる。「どうしてです? ミーシャちゃんの演奏をききたい人、たくさんいると思いますよ」
その、あまりにも無邪気な一言が、引き金になった。
「あたしなんて、可愛くないし、隅っこにいるのがお似合いだにゃ……」
ぽろり、と。
ミーシャの大きな瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、そのまま俺の後ろに隠れるようにして、小さな声で嗚咽を漏らし始めた。
まずい。
ミーシャは自己肯定感が低いときがたまにあるんだよなぁ……。
「あ、あの……わ、私は、そんなつもりじゃ……」
狼狽するヒルルヤに、シグルーンが「気にするな。お前が悪いわけじゃない」と静かに声をかける。
結局、その話は立ち消えになり、重苦しい空気だけが、後に残った。
◇◇◇
その夜、俺は一人、師匠であるルーミの元を訪ねていた。
「なるほど」と話を聞いたルーミはうなずいた。
「どうしたらいいと思う?」
「そうですね……。無理にステージに立たせるのも違うと思いますし。でも、ステージに立つことで得られる経験も、かけがえのないものです。ひとまず、あの子の心を癒やす方法を考えてあげてください」
ああ、そうだよな。
俺は、なんて馬鹿な父親なんだ。
一番大事なことを見落としていた。
俺は、覚悟を決めた。
まず、ミーシャの心の傷を、俺がこの手で癒してやらなきゃならねえ。
◇◇◇
月明かりが、屋根裏部屋を静かに照らしていた。
ミーシャは、膝を抱え、窓の外をただ、ぼんやりと眺めている。
俺は、音を立てないように、その小さな背中に、ゆっくりと近づいた。
「……ミーシャ」
俺の声に、娘の肩がびくりと震える。
「昼間は、悪かったな。無理なことを言っちまって」
「……ううん。パパは、悪くないにゃ」
俯いたままの、か細い声。
俺は、彼女の隣に、そっと腰を下ろした。
「なあ、ミーシャ」
俺は、できるだけ優しい声で、語りかけた。
「パパ一人にだけ、お前の曲を聴かせてはくれないか?」
俺の言葉に、ミーシャは、はっとしたように顔を上げた。
「街のみんなのためじゃなくていい。誰かに褒めてもらうためでもない。ただ、俺のためだけに。お前の、その最高の音色を、パパ一人にだけ、聴かせてほしいんだ。……だめか?」
しばらくの沈黙。
やて、彼女は、こくりと一つ、小さく頷いた。
そして、震える手で、壁に立てかけてあった、虎柄のリュートを、そっと胸に抱きしめる。
ぽろん、と。
月明かりの下で、最初の音が、静かに紡がれた。
それは、ルーミが教えてくれた、あの懐かしい故郷の歌。
だが、俺が今まで聴いた、どの演奏とも違っていた。
そこには、技術や正確さを超えた、魂そのものの響きがあった。
切なくて、優しくて、どうしようもなく温かい音色にアレンジされている。
それは、この子の心の叫びそのものだった。
怖いよ、と。
でも、パパに聴いてほしいんだ、と。
その、あまりにも美しく、あまりにも痛々しい音色に、俺は、もう涙をこらえることができなかった。
ぽろり、と。
俺の頬を、熱いものが伝っていく。
格好悪いとは思う。
だが、どうしようもなかった。
この、俺のためだけに奏でられる、世界でたった一つの、魂の演奏。
それを前にして、涙を流さずにいられるほど、俺の心は強くはなかった。
◇◇◇
やがて、最後の音が、静かな余韻を残して、月明かりの中に溶けていく。
ミーシャは、リュートを抱きしめたまま、おずおずと俺の顔を窺っていた。
俺は、涙を拭うこともせず、しゃがみ込むと、その小さな体を、力いっぱい抱きしめた。
「……世界一の演奏だったぞ、ミーシャ」
俺の声は、情けないくらいに、震えていた。
「お前の音には、人の心を幸せにする力がある。パパは、今、世界で一番幸せな男だ。本当に、ありがとうな」
それを聞いたミーシャの体から、ふっと力が抜けていくのが分かった。
張り詰めていた、最後の糸が切れたのだろう。
俺の胸に顔を埋め、声を上げて泣きじゃくり始めた。
俺は、その小さな背中を、何度も、何度も、優しくさすってやる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、泣き疲れたミーシャが、しゃくり上げながら、か細い、だが、確かな声で言った。
「……パパ」
「ん?」
「あたし……やってみる、にゃ。祭りの、ステージ……。みんなにも、聴かせてみたい、にゃ。パパが、幸せになったみたいに……」
その、震えながらも、ひたむきな決意。
俺は、込み上げてくる熱いものをこらえきれずに、ただ、娘の頭を、もう一度、力強く撫でてやった。
「おう。お前なら、きっとできる」
小さな音楽家が、自らの意志で、大きな、大きな一歩を踏み出した。
その、あまりにも尊い瞬間を。
月だけが、静かに、優しく、照らし出していた。




