第80話 豊穣の女神様
庭では、ミーシャがルーミさんからリュートのレッスンを受けていた。
「ミーシャちゃん、指の力が少し強すぎるかな。もっと、弦を撫でるように、優しく」
「にゃ! こうかにゃ?」
ぽろん、と。
さっきとは比べ物にならないくらい、澄んだ音色が響き渡る。
うーん、うちの子は天才だな。
レッスンが終わり、ルーミさんが帰り支度を始めた時だった。
それまで黙って様子を見ていたシグルーンが、ふと彼女に近づいた。
「素晴らしい音色ですね、ルーミさん。よろしければ、少し、その楽器を拝見させてもらえませんか?」
「ええ、どうぞ」
シグルーンは、恭しくリュートを受け取った。
その作りを鑑定するように、じっくりと眺め始める。
その瞬間、シグルーンの目が、すっと鋭い光を宿したのを、俺は見逃さなかった。
ルーミさんが帰った後。
シグルーンは、俺をリビングの隅へと手招きした。
「ダンスタン。……あの吟遊詩人、やはりただ者ではないぞ」
彼女の表情は、いつになく険しい。
「あのリュートの内側に、小さな工房印が刻まれていた。意図的に、目立たないように、な。だが、あの紋章……間違いない。ヤンリケ皇国の旧貴族『ヴィンタークラーグ家』のものだ」
ヴィンタークラーグ家?
「聞いたこともねぇ名前だな……誰だ、そりゃ」
「ヤンリケの、それもリベラル派の旧貴族だ。すでに子孫ごと根絶やしにされたときいていたが……。今のヤンリケ帝国にとっては目の上のこぶ。つまり、見つかれば即刻処刑されてもおかしくない、極めて危険な存在ということだ」
なるほどな……。
「じゃあ、ルーミさんは、そのヴィンタークラーグ家の末裔ってことか?」
「そこまではわからんが、関係者なのかもしれんな。厄介な件に巻き込まれないといいがな……」
うーん。
そういえば、革命がどうとか言ってやがったな。
もしかして、あいつはヴィンタークラーグ家の末裔で、国家を転覆しようとしてるってことか?
やばい女だな。
そんな話をしていたときだった。
ドアが激しく叩かれる。
「だ、ダンスタン! 大変だ!」というギュンターの声。
◇◇◇
「落ち着け、ギュンター。何があったんだ?」
「の、農場が……! 街の南側にある、一番大きな農場が、全滅しちまったんだ!」
ギュンターの報告に、俺たちは言葉を失った。
一家総出で、すぐさま現場へと急行する。
そこに広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
数日前まで、黄金色の麦が豊かに実っていたはずの大地は、完全に生命力を失い、灰色の大地へと変貌していた。
作物は根元から黒く枯れ果て、土は乾ききってひび割れている。
生命の匂いが、一切しない。
ただ、死の匂いだけが、辺り一面に立ち込めていた。
「な……なんだ、これは……」
農場主の男が、その場に膝から崩れ落ち、絶望に顔を歪ませている。
俺の足元にいたクータルが、ふらり、とよろめいた。顔色が悪く、いつもの元気がない。
「おい、クータル、大丈夫か!」
俺はクータルを抱きしめる。
「ぱぱ、ここ、気持ち悪い……」
土地が病気に?
それが原因でクータルも?
ピヒラが歩いてきて、両手を地面につける。
「お願い……元気になって!」
ピヒラの体から、温かい、柔らかな若葉色の光が放たれる。
だが。
「……っ、うそ……」
彼女の癒やしの光は、灰色の大地に触れた瞬間、あっけなくかき消されてしまったのだ。
「この土地は、もう……」
聖女の、無慈悲な宣告。
その場にいた誰もが、言葉を失い、ただ立ち尽くす。
ピヒラも、自分の無力さに打ちひしがれ、その場にへたり込んでしまった。
◇◇◇
誰もが俯き、重苦しい沈黙が続いていた、その時だった。
ぽろん、と。
場違いなほど、澄んだリュートの音色が響いた。
音の主は、ミーシャだった。
彼女は、いつの間にか、俺が買い与えた虎柄のリュートを構えていた。
「クータル、元気だすにゃ。ルーミ先生に教わった、お花が元気になる歌、歌うにゃ」
ミーシャは小さな指を弦の上で滑らせ始めた。
紡がれるのは、ルーミに教わった歌。
優しく、祈るような音色。
ちょっと場違いではあるが……。
もう、この土地が手遅れだとすると、どうしようもない。
その時だった。
「……ふん、ふふん……」
ミーシャの音色に、小さなハミングが重なった。
ぐったりとしていたクータルが、ハミングしていた。
ミーシャの奏でる曲。
そして、クータルの鼻歌。
その音色が混じり合い、音楽になる。
ふわり、と。
姉妹の体から、温かい、黄金色の光の粒子が舞い上がった。
光は、死んだはずの大地に、まるで春の雨のように、優しく、優しく降り注いでいく。
ミシミシ……。
乾ききっていた灰色の土が、生命の息吹を取り戻し、深い黒色へと変わっていく。
枯れ果てていた麦の根元から、力強い若葉色の芽が、みるみるうちに顔を出す。
それは、瞬く間に天へと伸び、黄金色の、豊かな穂を実らせていった。
死せる大地が、蘇る。
絶望の灰色が、生命の緑と、祝福の黄金色へと、生まれ変わっていく。
その、あまりにも美しく、神々しい光景を前にして。
俺は、ただ、言葉もなく立ち尽くす。
◇◇◇
「お、おお……」
奇跡が終わり、後に残されたのは、以前よりもずっと豊かに、黄金色の穂を揺らす、生命力に満ち溢れた大地だった。
農場主の男が、その場にへたり込んだまま、わなわなと震えている。
やがて、その瞳から、大粒の涙が、後から後からとめどなく溢れ出した。
「女神様だ! 我が街に、豊穣の女神様が、二人も……!」
男は、天に祈るように、涙ながらに叫んだ。
その声に、我に返ったギュンターや他の農夫たちも、次々とその場にひざまずき、涙ながらに姉妹を称賛し始めた。
当の本人たちは、自分たちが何をしでかしたのか分からず、ただ、きょとんとした顔で顔を見合わせている。
農場主は俺の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「ダンスタン殿! この畑からの未来永劫の収穫を、あなた様方に捧げることを誓います!」
いや、そんなことされても困るんだが……。
俺は娘たちの元へと歩み寄る。
そして、その小さな頭を、順番に、力いっぱい撫でてやった。
「よくやったな。お前たちは、最高の姉妹だ」
俺の言葉に、二人は「えへへー」「にゃっふん!」と、最高に嬉しそうに笑うのだった。
しかし、この現象はいったい……。




