第78話 妹と革命
昨日、俺が「ミーシャにリュートを買い与えたいんだが」と相談した。
そのとき、ルーミさんは「最初の楽器選びはとても重要ですから」と言って同行を申し出てくれた。
そういうわけで、俺、ミーシャ、ルーミさんの三人でウィッカーデイルで唯一の楽器屋へ向かった。
古びた木の扉をくぐる。
壁一面に飾られたリュートや笛、見たこともない異国の弦楽器が、俺たちを出迎えた。
その光景に、ミーシャは目をキラキラと輝かせている。
「さて、ミーシャちゃん」
ルーミさんは、ずらりと並んだ楽器には目もくれず、まずミーシャの前にしゃがみ込む。
「初心者が最初に手にする楽器こそ、一番大切なものなの。安物や作りの悪い楽器は、才能の芽を摘んでしまうことさえある。音が悪くて、練習が少しも楽しくなくなってしまうから。でも、本当に良い楽器は、持ち主と一緒に歌ってくれる。あなたの、最高の友達になってくれるの」
ほーん。
そうなのか。
音楽のセンスがない俺は、ただ感心して頷くことしかできない。
「だから、焦らないで。心の声に、耳を澄ませてみて。きっと、あなたを呼んでいる楽器が、この中のどこかにあるはず」
ルーミさんの言葉に、ミーシャはこくりと頷いた。
そして、楽器の間を歩き始める。
やがて、彼女の足は、店の隅に置かれていた一本のリュートの前で止まる。
その胴に使われている木材は、まるで虎の毛皮のような美しい縞模様を描いている。
ミーシャはしばらく見とれていたようだが、値札を見て、さっと目をそらしていた。
そして、急ぎ足で他の品へと移動する。
「これがいいのか?」
俺が声をかけると、ミーシャはびくりと肩を震わせ、慌てて首を横に振った。
「う、ううんにゃ! こっちの、安いやつで十分だにゃ!」
彼女が指さす先には、何の飾り気もない、ただの練習用のリュートが数本並んでいる。
俺は、そんな娘の頭をわしわしと撫でてやった。
そして店の主人に向かって、にやりと笑いかけた。
「おやじさん。すまねえが、そっちの虎柄のやつ、包んでくれるか」
「えっ!? パパ、でも……!」
「いいんだよ。たまにはパパに格好つけさせろ」
俺の言葉に、ミーシャの大きな瞳が、みるみるうちに潤んでいく。
店を出ると、ミーシャは真新しいリュートを、そっと胸に抱きしめた。
本当に嬉しそうにしている。
その顔を見られただけで、もう十分すぎるほど元は取れた気分だった。
◇◇◇
その日の午後。
俺たちの家の庭で、早速、ルーミ先生による最初のレッスンが始まった。
「では、ミーシャちゃん。まずは、このリュートの持ち方から。そう、優しく抱きしめるように」
ルーミさんは、一つ一つ丁寧に、音楽のイロハを説いていく。
ミーシャは、そっと構え、真剣な顔でその言葉に耳を澄ませている。
「じゃあ、簡単な音階を弾いてみるね。よく聴いて」
ぽろん、ぽろん、と。
ルーミさんが、澄んだ音色で手本を見せる。
ミーシャは、こくりと一度だけ頷くと、そっと弦を弾いた。
最初は、ぎこちない音が数回。
だが、彼女はすぐに何かを掴んだようだった。
数分後には、彼女はルーミさんが弾いた音階を、一音の間違いもなく、滑らかに奏でてみせた。
「……すごい」
師匠であるルーミさんですら、感嘆の息を漏らす。
その飲み込みの速さは、常軌を逸していた。
レッスンは驚異的な速度で進んでいく。
ミーシャは、ルーミさんの教えを次から次へと吸収していった。
やがて、太陽が西に傾き始める頃。
レッスンは、もはや一方的な指導ではなくなっていた。
ルーミさんが楽しそうに簡単なメロディを奏でれば、ミーシャがそれに、覚えたばかりの和音を重ねて応える。
どうだ、すごいだろう、俺の娘は。
◇◇◇
「驚きました。あの子は、間違いなく天才です」
ルーミさんは、まだ興奮冷めやらぬといった様子で、ミーシャの才能を絶賛している。
ミーシャ本人は、褒められすぎて照れくさいのか、俺の足元で丸くなって、尻尾をぱたぱたと揺らしていた。
そんな、和やかな空気が流れる中だった。
「皆様お揃いで。楽しそうですね」
家の奥から声が聞こえてきた。
ソルヴァだった。
彼女は、手にしていた本を閉じると、優雅な足取りでこちらへやってくる。
「ああ、ソルヴァ。ちょうどいいところに」
俺は、立ち上がると、ルーミさんを紹介しようと口を開いた。
「ルーミさん、こいつはソルヴァだ。俺の……その、なんだ。妻であり、妹のような……」
しん、と。
急に空気が変わったように思えた。
あれ?
俺、なにか変なことを言ったか?
ルーミさんの表情が、一気に冷たくなったように思えたのだ。
「初めまして、ルーミさん。ソルヴァと申します」
声の主は、ソルヴァだった。
ソルヴァは、ルーミさんの様子の変化に気づかないようだ。
「……妹さんなんですか? それとも、奥さん?」
ソルヴァがにこやかに口を開いた。
「ふふ、どちらでもある、というのが正しいでしょうか。私は妻だと考えていますけれど」
「……ふぅん」
ルーミさんは、それだけを言うと、興味深そうに、じっと俺とソルヴァの顔を交互に見比べた。
(な、なんだこの空気は……)
なんだか居心地が悪かった。
妹のような、婚約者。
その言葉に、なぜルーミさんは引っかかっているんだろう。
やがて、ルーミさんは、ふっと口元だけで微笑んだ。
「それはそれは、仲睦まじいことで」
その声には、明らかに棘があった。
ようやく、ソルヴァもその場の異様な雰囲気に気づいたのだろう。
眉をひそめていた。
気まずい沈黙が、まるで鉛のように重くのしかかる。
俺が、何か言ってこの場を取り繕わなければと焦った、まさにその時だった。
「あ、あの……! そろそろ、レッスンの続きをお願いするにゃ!」
声の主は、それまで俺たちのやり取りを見守っていた、ミーシャだった。
我が家のチーフ・ガーディアンが、その鋭い危機察知能力で、この場の空気を読んでくれたらしい。
ナイスだ、ミーシャ!
「そうですね。ごめんなさい、ミーシャちゃん。大事な時間を邪魔してしまいましたね」
ルーミさんは、何事もなかったかのように、にこりとミーシャに微笑みかける。
ソルヴァは、そんな二人の様子を、まだ少しだけ戸惑ったような顔で見つめている。
俺は、ただ、早くこの気まずい時間が終わってくれと、心の中で祈ることしかできなかった。
◇◇◇
その夜。
今日はギルドから頼まれていた、夜の見回りの日だった。
最近、街の治安が少しだけ悪化しているらしい。
まあ、大したことじゃねえだろうが、これもCランク……いや、Bランク冒険者の大事な仕事だ。
俺は、腰に剣を差し、静まり返ったウィッカーデイルの夜の街へと繰り出した。
ひんやりとした夜気が、心地いい。
月明かりが、石畳を淡く照らし出している。
俺は、長年の経験で培った、斥候としての感覚を研ぎ澄ませながら、ゆっくりと見回りルートを歩いていた。
酒場の裏通りに差し掛かった、その時だった。
前方の角から、見慣れた人影が、すっと現れた。
月光に照らされた、雪のように白い髪。
ルーミさんだった。
彼女は、何かから逃れるように足早に歩いている。
時折、不安そうに背後を振り返りながら。
彼女の背後、数メートル離れた屋根の上と、路地の影。
そこに、複数の気配が息を潜めている。
素人じゃねえ。訓練された、プロの動きだ。
(……追われてやがる)
俺がどう動くべきか判断するより早く、ルーミさんが俺の存在に気づいた。
彼女は俺に向かって駆け寄ってきた。
それは、パニックに陥った者の動きじゃない。
何か、明確な意図を持った計算され尽くした動きだった。
「―――っ!」
どん、と。
柔らかくて、華奢な体が、俺の胸に飛び込んでくる。
甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
彼女は、俺の体に、ぎゅっと、震える腕を回して抱きついてきた。
そして、俺の耳元で囁く。
「すみません、話を合わせて。恋人のフリをしてください」
俺が硬直していると、路地の角から、黒ずくめの男たちが数人、顔を覗かせた。
男たちは、抱き合う俺たちを一瞥すると、小さく舌打ちし、音もなく闇の中へと消えていった。
俺は、何が何だか分からないまま、ただ立ち尽くしていた。
「なんで追われてるんだ?」
ルーミさんは俺から離れ、にっこりと笑い。
そして、言った。
「ダンスタンさんは、革命って興味あります?」
ん?
何を言っているんだ、こいつは?




