第76話 吟遊詩人のルーミ
家の建設も順調に進んでいる。
今日も一日頑張った。
たまには、みんなでパーっと外で飯でも食うか。
そんな気分になった俺は、その夜、家族全員を連れて『獅子のグリル亭』の暖簾をくぐった。
「おう、ダンスタンじゃねえか! いらっしゃい!」
厨房から顔を出したギュンターが、野太い声で歓迎してくれる。
店の中は大勢の客で賑わっていた。
冒険者たちの豪快な笑い声と、肉の焼ける香ばしい匂い。
最高だな!
俺たち家族が席についた。
子どもたちが目を輝かせながらメニューを眺めていると……。
ふと、店の隅の方から、美しいリュートの音色が聞こえてきた。
音の主は吟遊詩人だった。
女性で、歳の頃は三十代半ばか……。
客からのチップを目当てに演奏している、いわゆる『流し』ってやつだ。
腰まで届く、雪のように真っ白で、月光を浴びて銀色に輝く長い髪。
儚げで、どこか憂いを帯びた、人形のように整った顔立ち。
俺は、なんとなく、その曲に耳を傾けていた。
◇◇◇
その音色は、ただの酒場のBGMにしては、あまりにも人の心を惹きつけるものだった。
俺は運ばれてきたエールを飲むのも忘れ、その演奏に完全に心を奪われてしまった。
聞いたこともない曲のはずなのに……なぜだろう。
胸の奥が締め付けられるような、どうしようもなく懐かしい気持ちになる。
やがて、演奏が終わる。
我に返った俺は、思わず席を立っていた。
彼女の足元に置かれた、チップを入れるための小さな革袋に、銀貨を一枚、そっと投げ入れる。
「……いい音色だった。なんていう曲だ?」
俺が尋ねると、吟遊詩人の女は俺の顔をまっすぐに見つめ返してきた。
「ありがとうございます。これは、私の生まれ育った故郷に伝わる古い歌です。ここで会えたのも、何かの縁ですね。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あぁ、ダンスタンだ」
「私はルーミと申します」
「このあたりでは聞かない名前だな」
「旅人ですから」と微笑む。「お食事の間も楽しんでいってください」
そして、彼女は再び曲を奏で始めた。
俺達一家は、ギュンターのつくってくれた料理を食べながら、その曲を聴いていた。
普段はおしゃべりばっかりになる食卓だが、彼女の演奏に、思わず聞き入ってしまう。
紡がれる音色は、どこまでも美しく、澄み渡っていた。
俺は、その音色に、なぜか胸の奥が締め付けられるような、懐かしいような、不思議な感覚を覚えていた。
家族みんなが、その美しい音楽を楽しんでいたが、その中で一人だけ、様子が違う者がいた。
ミーシャだ。
彼女はルーミを、キラキラした瞳で見つめている。
ミーシャの猫耳は、音の一粒一粒を逃すまいとするかのように、ぴんと立てられていた。
その横顔は、俺が今まで一度も見たことのない、真剣な、そして心を完全に奪われてしまった者の顔だった。
◇◇◇
店を出て、俺たちの、あの懐かしいボロ家へと帰った後。
俺は一人で月を見ながら晩酌をしていた。
すると、家の裏手の方から、かすかな音が聞こえてくるのに気づいた。
ト、ト、ト……。
トン、トト……。
それに混じって、透き通るようなハミングが聞こえる。
なんだ?
こんな夜更けに。
俺は音を立てずに、そっと裏口の扉を開けた。
月明かりの下、裏庭の切り株に、小さな影がちょこんと座っている。
ミーシャだった。
彼女は、拾ってきた木の枝を、切り株の平らな面に打ち付けながら、昼間に聴いた楽曲のリズムとメロディを、一音の間違いもなく、完璧に再現していたのだ。
嘘だろ……。
神がかり的な「聴覚」と「リズム感」。
俺は、その瞬間、確信した。
この娘の中には、まだ誰も気づいていない、とんでもない「才能」が眠っている、と。
一度聴いただけで、どんな複雑なメロディも、リズムも、完璧に記憶し、再現する。
それは、もはや才能というより、天賦の、神から与えられたギフトそのものじゃねえか。
俺が、言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くしていると。
俺の気配に気づいたのだろう。
ミーシャの肩が、びくりと大きく跳ねた。
「ひゃっ!? パ、パパ! い、いつからそこにいたにゃ……!」
彼女は慌てて木の枝を背中に隠し、顔を真っ赤にしている。
その姿が、どうしようもなく愛おしい。
「……すごいじゃないか、ミーシャ」
俺は、驚きと、それ以上の喜びを込めて、言った。
「全部、覚えてるのか? あの曲」
「う、うん……。なんだか、勝手に……。頭の中で、ずっと鳴ってるにゃ……」
もじもじと、恥ずかしそうに俯く娘。
だが、その瞳は、昼間のレストランで見た時と同じように、キラキラと輝いていた。
本当に、楽しかったんだろう。
「そっか」
俺は、彼女の前にしゃがみ込むと、その小さな頭を、わしわしと少しだけ乱暴に撫でてやった。
「お前の歌、パパは好きだぜ。また、聞かせてくれよ」
「……うんっ!」
ミーシャは、これまでで一番嬉しそうな笑顔で、力強く頷いた。
◇◇◇
俺は、満足げに鼻歌を歌いながら家に戻っていく娘の背中を、静かに見送った。
ミーシャの、あんなに楽しそうで、夢中になっている顔。
俺は、胸の奥が、どうしようもなく温かくなるのを感じていた。
(……決めた)
俺は、空に浮かぶ月を見上げ、一人、静かに決意する。
明日、あのルーミとかいう吟遊詩人に、ミーシャのことを相談してみよう。




