第72話 旦那様
王都に帰還してから、俺たちの日常は少しだけ形を変えた。
一番大きな変化は、ピヒラが、実の両親であるエイリケさんたちの元で過ごす時間が増えたことだ。
もちろん、当たり前のことだ。
ずっと会えなかったんだ、親子水入らずの時間を過ごしたいに決まってる。
頭では、痛いほど分かっているんだが。
「……ふぅ」
朝食の後、一人でコーヒーをすすっていると、無意識にため息が漏れた。
がらんとしたリビング。
いつもなら、ピヒラが「今日の晩ごはんは私がつくりますね」なんて言ってくれたっけ。
ミーシャとクータルは、ソルヴァに連れられて学園に行っちまった。
シグルーンも、エルフの件の後始末だとかで朝から出かけている。
静かだ。
クータルを拾う前の、あのどうしようもなく孤独だった日々に逆戻りしたみたいで、胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(……なんだってんだ、俺は)
娘が、本当の親と過ごしている。
喜んでやるべきだろうが。
なのに、この言いようのない寂しさは、一体なんなんだ。
◇◇◇
そんな、少しだけ感傷的な気分に浸っていた日の昼下がり。
俺は、王立魔法学園の学園長室に呼び出されていた。
「いやはや、ダンスタン殿! この度のエルフの内乱鎮圧、実に見事な手腕であったと聞いておるよ!」
長い白髭を蓄えた好々爺――学園長は、俺の顔を見るなり、手放しでそう称賛してくれた。
だが、その表情はすぐに曇り、深々と頭を下げた。
「……そして、それ以上に、謝罪せねばならんことがある。我が学園の教師、ケティルとホーコンが、貴殿と、そしてご家族の命を脅かすという、あってはならん事件を引き起こしてしまった。この学園の長として、監督不行き届きであった。本当に、申し訳ない」
隣に立つシグルーンも、厳しい顔で頷いている。
「いえ……学園長が頭を下げることでは」
「いや、儂の責任じゃ。現在、騎士団と連携し、奴らの背後関係について徹底的に調査を進めておる。二度と、このような不祥事を起こさぬと、約束しよう。……貴殿のような英雄を、そして、未来ある子供たちを危険に晒してしまったこと、重ねて詫びる」
学園長は、もう一度深く頭を下げると、ふっと真面目な顔つきに戻り、静かに、だがはっきりと告げた。
「さて、ダンスタン殿。君たち家族が、この学園で過ごす『お試し留学』の期間も、そろそろ三ヶ月が経とうとしておる」
ああ、そうか。
もう、そんなになるのか。
「もちろん、君たちが望むなら、このまま王都に残り、学園に通い続けることも可能じゃ。儂としても、その方が嬉しい。……だが、君自身の、今後の身の振り方について、そろそろ答えを出さねばならん時期でもある。どうかな? 何か、考えていることはあるかな?」
今後の、身の振り方。
その問いに、俺の心は、もう決まっていた。
この王都での生活も、刺激的で悪くはなかった。
だが、俺の、俺たち家族の本当の居場所は、ここじゃない。
「……学園長。お心遣い、感謝します」
俺は、椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
「俺たちは、ウィッカーデイルへ帰ります。全てが始まった、あの街へ」
◇◇◇
その夜。
俺たちの王都の家で、最後の家族会議が開かれた。
ピヒラの両親であるエイリケさんとリーヴァを招いて、だ。
俺は、全員の顔を順番に見渡すと、ゆっくりと、自分の決意を告げた。
「みんな、聞いてくれ。俺は、ウィッカーデイルへ帰ろうと思う」
俺の言葉に、娘たちは、どこか納得したように頷いた。
シグルーンもソルヴァも、俺の決断を尊重してくれるようだ。
その、穏やかな空気が流れる中だった。
エイリケさんが、静かに、だが、愛情に満ちた声で、ピヒラに語りかけた。
「ピヒラ」
「……はい、お父様」
「我々と共に、森へ帰ろう。これからは、ずっと一緒だ。もう、寂しい思いはさせないと、約束する」
胸の奥が、ずきりと痛む。
だが、これが、この子の幸せなんだ。
ピヒラは、一度だけ、ぎゅっと唇を噛み締めた。
その翡翠色の瞳が、潤んで揺れる。
一瞬、迷うように視線を彷徨わせた後、彼女は、俺の目を、まっすぐに見つめ返してきた。
そして。
「……ごめんなさい、お父様、お母様」
震える声。
だが、その声には、一点の曇りもない、鋼鉄の意志が宿っていた。
ぽろり、と。
彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私の帰る場所は、ここなんです。ダンスタンパパのいる、この家が、私の、本当のお家なんです……!」
リビングにいた全ての者が、息を呑んだ。
ピヒラは、涙を拭うこともせず、続ける。
「だって……」
彼女は、俺の前に、とん、と立つと、少しだけ頬を赤らめ、はにかむように、だが、世界で一番誇らしげな顔で、告げた。
「旦那様のいる場所に、嫁いだ者がいるのは、当たり前のこと、ですから」
旦那様。
その、あまりにも不意打ちで、あまりにも破壊力のある一言。
俺の、四十二年間の人生で、一度も呼ばれたことのないワード。
俺の頭は、完全にショートした。
「『魂の盟約』は、血よりも濃い、魂の誓い。私、もう、ダンスタンパパの、お嫁さん、ですから」
そう言って、彼女は微笑んだ。
◇◇◇
ピヒラの、あまりにも力強い決意。
その場にいた誰もが、もう、何も言えなかった。
エイリケさんとリーヴァさんは、涙を流しながらも、どこか誇らしげに、そして最高に嬉しそうに、何度も、何度も頷いていた。
「……分かった」
彼は、俺の前に進み出ると、深々と頭を下げた。
「娘を……ピヒラを、よろしく頼む」
「……はい」
俺は、それだけを返すのが、精一杯だった。
なにはともあれ。
帰ろう。
ウィッカーデイルに。




