第70話 くーのそばにいないと、あぶないんだから……
意識が、ゆっくりと浮上する。
鼻腔をくすぐるのは、埃と、湿った苔の匂い。
肌を撫でるのは、ひんやりとした石牢の空気。
現実だ。
俺は、ミョルクヴィズの砦の地下牢で、意識を取り戻したらしい。
目の前には、一人の男が力なく床に座り込んでいる。
ホーコンだ。
その瞳には、もう何の光も宿っていない。
完全に、心が壊れちまったらしい。
(……さて、どうやってここから抜け出すか)
俺は、壁に繋がれた古びた鎖を睨みつけた。
力任せに引きちぎろうと力を込める。
だが、呪詛が込められているのか、びくともしねえ。
そのときだった。
ドォンッ!
遠くから、地を揺るがすような轟音と、剣戟の音が響いてきた。
それは、俺が聞き慣れた、シグルーンの剣の音。
ソルヴァの魔力。
(……来たか、あいつら!)
俺の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
俺は、世界で一番頼もしい希望の音を聞いていた。
◇◇◇
ドゴォォン!!
地下牢の壁が、外からの凄まじい衝撃で吹き飛んだ。
砂塵が晴れ、月明かりを背に現れたのは、抜き身の剣を構えた、亜麻色の髪の女剣士。
「迎えに来たぞ、ダンスタン!」
シグルーンのどうしようもなく頼もしい一言。
彼女に鎖を断ち切られ、地上へと駆け上がった俺が目にしたのは、砦の中庭で繰り広げられる、壮絶な総力戦だった。
ソルヴァが、広範囲に展開した氷結魔法で、敵の足止めをしている。
『竜の牙』が、その隙を突いて、数の利を活かしヘフンドたちを打ち倒していく。
来てくれていたとは……。
そして。
壁を駆け、天井を走り、猫のような俊敏さで敵の指揮系統を引っ掻き回しているのは、我が家のチーフ・ガーディアン、ミーシャ。
その後方で、負傷した味方に、ピヒラが次々と治癒魔法をかけていく。
◇◇◇
だが、敵の数はあまりに多い。
呪いで強化された『ヘフンド』たちの猛攻に、徐々に、仲間たちが追い詰められていく。
シグルーンが、敵の隊長格の一撃を受け、大きく吹き飛ばされた。
「シグルーン!」
俺が叫ぶ。
絶体絶命。
誰もが、そう思った瞬間だった。
砦の上空が、突如として、温かい銀色の光に包まれた。
戦場にいた全ての者が、武器を構えたまま、呆然と空を見上げる。
光の中心から、ゆっくりと舞い降りてくる、小さな少女。
その背中には、光でできた翼が生えている。
クータル。
彼女は、目の前の地獄絵図を、ただ悲しそうな瞳で見つめると、ぽつりと、呟いた。
「みんな、もう、やめるの!」
そして、その両手を広げる。
彼女の体から放たれたのは、戦場にいる全ての者の心に直接語りかけるような、温かく、そしてどこか懐かしい、生命そのもののような『浄化の光』だった。
その光を浴びた『ヘフンド』たちの目から、憎悪の光が消える。
彼らの瞳から涙がこぼれ落ちる。
武器が、カラン、と力なく地面に落ちる音が、あちこちから聞こえてきた。
◇◇◇
戦いは、終わった。
浄化の光によって、森は本来の静けさを取り戻していた。
力を使い果たしたのだろう。
クータルが、ふわふわと俺のもとへゆっくりと飛んでくる。
俺は駆け寄り、その体を強く抱きしめた。
そうすると、クータルから生えていた羽が、粒子となって消えていく。
「……ありがとうな、クータル。お前が、あの石ころのお守りで俺を呼んでくれなかったら、パパは、まだあの夢の世界から抜け出せなかったかもしれない」
俺の言葉に、クータルはこくんと頷いたのが分かった。
そして、安心しきったように、小さな声で呟く。
「うん……ぱぱ、くーのそばにいないと、あぶないんだから……」
それを最後に、彼女はすーすーと穏やかな寝息を立て始めた。
俺が娘を抱きしめていると、呪いから解放されたエルフたちの中から、一人の男が静かに進み出てきた。
リーダー格だろう。
彼は、俺たちの前に立つと、深々と頭を下げた。
「我々は、間違っていた。憎しみに心を喰われ、同胞を、そして森を傷つけた。この罪は、どう償えばいいのか……」
その問いに答える前に、俺はやるべきことを片付ける。
俺は『竜の牙』の連中に、心の壊れたまま転がっているホーコンを指さした。
「そいつを捕縛しろ。こいつが、全ての元凶だ」
俺の指示を受け、『竜の牙』の連中が、手際よくホーコンを拘束していく。
ホーコンは黙ったままで、抵抗をしなかった。
その時だった。
「パパ……ママ……!」というか細い声が聞こえた。
ピヒラが両親の元へと駆け寄っていく。
三人は、言葉もなく、ただ涙を流しながら、強く、強く抱きしめ合っていた。
血の繋がった、本当の家族の再会。
その光景を、俺は、ただ黙って見つめていた。
胸の奥が、ちくりと痛む。
寂しいような、でも、どうしようもなく嬉しいような、不思議な気持ちだった。
良かったな。
ピヒラ。
幸せに暮らせよ。
……さびしくなるけどな。




