第69話 全部、背負って生きていく
「ホーコン先生」俺は言ってやった。「こんなところで奇遇だな」
俺は、努めて平静を装い、そう言ってやった。
「貴様……なぜ、ここにたどり着けた……。なぜ、私の『記憶再編纂』を破れた……。そして何より!」
ホーコンの声が、悲痛な叫びに変わる。
「なぜ、この完璧な幸福を拒絶する! 貴様にも見せてやったはずだ! 失った仲間と共に笑い合う、あの温かい日々を! 貴様とて、俺と同じ絶望を知る者のはずだろうが!」
その通りだ。
「ああ、分かるとも」
俺は、お前と同じ痛みを知っている。
仲間を失い、未来を呪い、ただ息を潜めるように生きてきた。
だからこそ、お前の悲しみは、痛いほど分かるんだ。
「お前が、この偽りの世界に縋りたくなる気持ちは、痛いほど分かる。俺も、お前の作った夢の中で、危うく溺れかけるところだった」
だがな、と俺は続ける。
俺の隣に立つ、小さな娘の頭を、そっと撫でながら。
「お前と俺は、決定的に違うところがある。俺は、過去をやり直したいとは思わねえ。あのどうしようもねえ過去があったからこそ、俺は、この子たちと出会えたんだからな」
ピヒラ、ミーシャ、そして、クータル。
俺の、かけがえのない宝物たち。
「こいつらのいない世界なんざ、俺にとっちゃ、地獄と同じなんだよ」
俺の、偽らざる本心。
それを聞いたホーコンの顔が、絶望と、理解不能なものを見るような色に歪んだ。
「狂っている。貴様は、そのちっぽけな、偶然手に入れただけの幸福のために、失われた全ての尊い命を見捨てるというのか!?」
「見捨てやしねえ。全部、背負って生きていくと決めたんだ」
俺は、ホーコンの瞳をまっすぐに見据え、静かに、だがきっぱりと言い放った。
「俺は、過去に囚われて現実を否定するお前とは違う。俺は、過去を背負って、現実の未来を創る。……それが、お前と俺の違いだ」
俺の言葉に、ホーコンはわなわなと震え、そして、甲高い嘲笑を上げた。
「戯言を! その小娘たちとて、いつかはお前を見捨て、死に別れる運命! いずれ失われる仮初めの幸福に、一体何の意味があるというのだ! 私の創る世界こそが、永遠の、完璧な幸福だというのに!」
その、あまりにも悲しい叫び。
こいつは、もう何も見えちゃいない。
失うことへの恐怖に心を喰われ、時を止めることしか考えられなくなっている。
もう、言葉での説得は無意味だ。
こいつをこの悪夢から覚ましてやるには、この偽りの楽園の、根源的な『矛盾』を、その魂に直接叩き込むしかねえ。
斥候としての、俺の最後の仕事だ。
「……なあ、ホーコン」
俺は、声のトーンを一つ落とした。
同情も、憐れみも、全て捨て去る。
ただ、冷徹な事実だけを、刃のように研ぎ澄ませて。
「お前が、この世界を『リセット』して、失われた家族を取り戻したとしよう。お前は、本当に幸せになれると思うか?」
「当たり前だ!」
「そうか。じゃあ、一つだけ教えてくれ」
俺は、一歩、前に踏み出した。
「お前が、その『記憶再編纂』とかいう大層な魔法で、完璧に再現できるのは、どこまでだ? 姿か? 声か? お前との思い出か?」
「全てだ! 生前の、寸分違わぬ姿を、完璧に……!」
「そうか」俺は、ホーコンの言葉を遮った。「じゃあ、『魂』は?」
「……え?」
ホーコンの顔から、表情が消えた。
俺は、その凍りついた瞳を見据え、最後の、そして最も残酷な問いを、静かに突きつけた。
「お前が、どんなに精巧な記憶を再構築したところで、そこに宿るのは、お前の記憶の中にある『過去の姿』だけだ。魂は再生できん。お前がその腕に抱きしめられるのは、お前の問いかけに、お前の記憶通りにしか答えない、空っぽの『人形』だけだ」
俺の言葉が、静かな室内に、重く響き渡る。
「なあ、ホーコン。お前は、その完璧な人形を抱きしめて、永遠にたった一人で、幸せなフリをし続けるのか?」
その言葉が、引き金だった。
「あ……」
ホーコンの唇から、か細い、吐息のような声が漏れた。
彼の瞳から、急速に光が失われていく。
完璧だったはずの世界に、たった一つだけ存在した、決して埋めることのできない、根源的な欠陥。
その、あまりにも残酷な真実を前にして、彼の精神は、もう形を保ってはいられなかった。
「ああ……ああああ……」
彼の足元から、世界が崩れ始める。
暖炉の炎が揺らぎ、壁に亀裂が走り、世界のすべてが、意味のない光の粒子となって霧散していく。
「あああああああああああああっ!!」
ホーコンの絶叫が、崩壊する世界に木霊した。
彼の愛しい家族の幻影が、その輪郭を失い、砂のように崩れていく。
彼は、その崩れゆく幻に、必死に手を伸ばす。
だが、その指先は、空しく空を切るだけだった。
偽りの楽園が、完全に崩壊する。
俺の意識が、急速に現実世界へと引き戻されていくのを感じた。
遠のく意識の中、俺は見た。
全てを失い、ただ虚空を見つめて立ち尽くす、一人の男の、あまりにも悲しい後ろ姿を。




