第68話 こんなところで奇遇だな
「―――クータルッ!」
忘れていたはずの名前。
忘れるはずのなかった、俺の宝物の名前。
ぽろり、と。
自分でも気づかないうちに、頬を熱いものが伝っていく。
目の前の、生まれたばかりの小さな銀色の竜。
そのルビーみたいな瞳が、俺の叫びに答えるように、きらりと輝いた。
「ぱぱー!」
辿々しく、しかし、確かな喜びの色を乗せて。
小さな竜は、短い足で一生懸命に地面を蹴り、俺の胸へと飛び込んできた。
ずしりとした、温かい重み。
ごつごつした鱗の感触の下に、確かに、娘の体温を感じる。
「ああ……ああ……! クータル……! 会いたかった……!」
俺は、その小さな体を、壊れ物を扱うように、だが力いっぱい抱きしめた。
そうだ。
これだ。
俺が、この完璧な偽物の世界で、ずっと探し求めていた、たった一つの温もり。
俺が、娘との再会の奇跡を噛み締めた、まさにその瞬間だった。
◇◇◇
俺はクータルを頭に乗せ、森を進んでいた。
「なあ、クータル。どうしてお前が、この夢の中にいるんだ? どうやって、ここまで来た?」
俺の問いかけに、クータルは空を飛んで、俺の胸ポケットを、短い前足でぽんぽんと叩いた。
「ぱぱにあげた、おまもりのいしだよ」
「お守りの石……?」
言われて、俺はポケットに手を入れた。
指先に触れる、硬くて、滑らかな感触。
そうだ。『鋼鉄のグリフォン』との戦いの前、クータルが俺に握らせてくれた、あの竜の紋様が描かれた小石だ。
「あの石が、クーをここに呼んでくれたの!」
クータルは、にぱっと屈託なく笑う。
「……そうか。ありがとうな、クータル。お前がいてくれて、パパは心強いよ」
俺は娘の頭を優しく撫でる。
よし、と覚悟を決めた。
「この世界の出口を探すぞ。ホーコンとかいう野郎の、隠れ家を見つけ出すんだ」
「うん!」
クータルは力強く頷くと、俺の腕からぴょんと飛び降りた。
そして、静まり返った森の中を、くんくんと鼻を鳴らしながら歩き始める。
「なあ、クータル。何か分かるのか?」
ふと、気づけば森が消える。
まるで夢を見ているみたいに。
いや、ここは実際に夢の世界なのか……。
やがて、クータルの足は、見覚えのある一軒の建物の前でぴたりと止まった。
古びた石造りの、小さな孤児院。
俺の原点だ。
「ぱぱ、あっち」
クータルが、短い前足で示した先。
孤児院の裏庭。
俺たちがよく隠れて遊んだ、大きな樫の木の根元に、一人の小さな女の子が座り込んでいた。
亜麻色の髪を揺らし、俯いているせいで顔は見えない。
だが、その小さな背中には、どうしようもなく見覚えがあった。
俺が近づくと、少女はゆっくりと顔を上げた。
大きな瞳。
いつも俺の後ろに隠れて、べそをかいていた、泣き虫の……。
「……しーちゃん?」
俺の口から、懐かしい名前がこぼれ落ちた。
少女は、俺の顔をじっと見つめると、ふっと、悪戯っぽく笑った。
その笑い方は、泣き虫だったあいつとは、少しだけ違う。
もっと、芯の通った、怜悧な光を宿している。
「やっと来たか、この朴念仁」
◇◇◇
「……は?」
呆気に取られる俺をよそに、少女――しーちゃんの姿をした『何か』は、やれやれと肩をすくめてみせた。
その仕草は、どう見たってガキのものじゃない。
俺がよく知る、誰かさんのものだ。
「な、なんで……しーちゃんが、ここに……。いや、それより、その口調は……」
「説明は後だ。時間がない」
彼女は木の根元から立ち上がると、俺の隣にちょこんと立った。
その時、俺の足元にいたクータルが、くんくん、としーちゃんの匂いを嗅ぐと、ぱあっと顔を輝かせた。
「ぱぱ! しぐるーんのにおいがするよ!」
『しーちゃん』。
そして、俺が知る、あの怜悧な女。
まさか。そんな馬鹿な。
「その子の言う通りだ。私は、現実世界にいる『シグルーン』が、お前がクータルに贈ったお守りを介して送り込んだ、魂の化身みたいなものだと思え」
シグルーンは言葉をつづけた。
「お前がホーコンに捕らわれたと知ってな。クータルが、お守りがあるから一緒に祈れと言うので祈ってみたら、ここに来られたよ。まあ、都合よく昔の姿になったのは、この世界がお前の記憶でできているせいだろう」
淡々と語られる、信じられない事実。
俺の頭は、もう完全にショート寸前だった。
しーちゃんが、シグルーン……?
じゃあ、俺がガキの頃、いつも一緒にいた、泣き虫で、ドジで、だけど誰よりも優しかった、あの『しーちゃん』は。
ウィッカーデイルのギルドで再会した、あの氷みたいに冷たくて、だけど本当は誰よりも情に厚い、ギルド支部長の……。
「……ああ、そうだ。私が、お前の言う『しーちゃん』だ」
シグルーンは、観念したように、だが、どこか照れくさそうに、そう告白した。
「王都の魔法学園を卒業した後、色々あってな。ギルド職員として、辺境のウィッカーデイルに赴任してきたんだ。そこで、お前と再会した。だが……お前は、私のことなんて、すっかり忘れているようだったからな」
ふいっとそっぽを向く横顔。
その、素直じゃない態度。
ああ、間違いない。こいつは、シグルーンだ。
長年の、そして最大の謎が、今、この偽物の世界で、解けた。
驚きと、どうしようもない愛おしさと。
そして、今まで気づかなかった自分への猛烈な腹立たしさが、ごちゃ混ぜになって、俺の胸に込み上げてきた。
「……馬鹿野郎」
俺の口から、かろうじて絞り出されたのは、そんな一言だけだった。
「なんで、今まで黙ってたんだよ……!」
「……お前が、朴念仁だからだ」
◇◇◇
「感傷に浸っている場合じゃないぞ。ホーコンを見つけ出し、この術を破るのが先決だ」
シグルーンは、ぱん、と頬を叩いて気合を入れると、いつもの、頼れる指揮官の顔に戻っていた。
……少女だけどな。
「さて、どうやって見つけるか、だな」シグルーンは、子供の姿には不釣り合いな、険しい顔で腕を組む。「この世界は、お前の記憶そのものだ。広すぎる」
「いや、範囲は限定されているかもしれない」
俺は、自分の頭を指さした。
「この世界は、俺の記憶でできている。それは間違いない。だが、ホーコンの奴は、俺の記憶を『材料』にしているだけだ」
俺の言葉に、シグルーンの目が見開かれた。
俺が言わんとすることの核心に気づいたのだろう。
「なるほどな。灯台下暗し、というわけか。奴は、お前の記憶を再構成してこの世界を作った。だが、術者自身の隠れ家、心の『聖域』だけは、お前の記憶からは作り出せん。だから、この世界に、後から無理やり『増築』したはずだ。……つまり」
「ああ」俺は、シグルーンの言葉を引き継ぐ。「この、俺の記憶でできたハリボテの世界に、たった一つだけ存在する、本物の『魂』が込められた場所。世界の法則から外れた『異物』を見つけ出せばいい」
「そういうことだな」
さすが、話が早い。
さて、そうと決まれば話は早い。
これより、斥候ダンスタンの、独壇場だ。
俺は目を閉じ、意識を集中させる。
だが、脳内にウィッカーデイルの地図を描き出すのではない。そんな単純な探し方では、術者の巧妙な偽装は見破れない。
俺は、この世界の『空気』そのものに、神経を研ぎ澄ませた。
俺の記憶から作られた場所は、全てが懐かしく、馴染み深い。
だが、同時に、どこか薄っぺらで、魂が抜けたような空虚な感覚がする。
俺が探すべきは、その逆だ。
俺にとって『見覚えがない』にもかかわらず、強烈な『誰かの魂』を感じる場所。
この偽りの世界で、唯一、異質な『手触り』を持つ場所を探すんだ。
そして、目を開く。
俺は、シグルーンとクータルを伴い、懐かしい街を歩いていく。
パン屋の看板の文字が、一文字だけ違う。
孤児院の窓の数が、一つだけ多い。
だが、こんなものは、ただの間違いだ。
俺が探している、根源的な矛盾じゃない。
やがて、俺の足は、街外れの、見慣れた丘の上でぴたりと止まった。
ここだ。
この丘から見下ろす街並みは、俺が一番好きな景色だった。
そして、この世界の『空気』を、最も広く感じられる場所でもある。
俺は、丘の上に立ち、ゆっくりと、三百六度、視界を巡らせた。
風車の位置、川の流れ、遠くに見える森の稜線。
全てが、俺の記憶と完全に一致している。
―――いや。
一つだけ、あった。
俺の記憶の地図には、決して存在するはずのないものが。
俺の魂が、ここにはないはずだと叫んでいるものが。
「……見つけたぜ」
俺は、丘の麓へと続く、一本の細い、見覚えのない小道を指さした。
他の道が、使い古された土の道なのに対して、その小道だけが、真新しい、白い砂利で舗装されている。
まるで、この世界に、後から無理やり描き加えられたかのように。
「ぱぱ、あの道から、かなしくて、あったかいにおいがするよ」
俺の足元で、クータルが確信に満ちた声で言った。
やはり、間違いねえ。
◇◇◇
俺たちは、その異質な小道を、慎重に下っていく。
一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かった。
クータルの言った通りだ。
どうしようもなく、切なくて、温かい、誰かの思い出の匂いがする。
霧が、ゆっくりと晴れていく。
俺たちの目の前に現れたのは、小さな、一軒の家だった。
庭には、色とりどりの花が咲き乱れている。
ブランコが、静かに揺れていた。
懐かしい。
俺は、この家を知らないはずなのに。
なぜか、心の奥底が、締め付けられるように痛んだ。
家の扉が、ぎぃ、と音を立てて、ひとりでに開く。
俺たちが、その中に足を踏み入れた、瞬間だった。
「―――何者だ」
静かで、冷たい、怒りに満ちた声が、家の奥から響き渡った。
「私の、聖域に、土足で踏み入る不敬な輩は……」
「ホーコン先生」俺は言ってやった。「こんなところで奇遇だな」




