第65話 エイリケとリーヴァ
目の前に広がるのは、闇だった。
『ミョルクヴィズ』の森の入り口が、ぽっかりと黒い口を開けていた。
「……行きましょう」
隣に立つリアムが、緊張した口調で言った。
無理もねえ。
この森が放つ邪悪な気配は、ただそこにいるだけで精神を削ってくる。
だが、俺の心は不思議なほど、凪いでいた。
この手の中にある、一枚の羊皮紙。
ピヒラが俺に示してくれた『地図』。
これがある限り、俺に迷いはなかった。
俺たちは、音もなく闇へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩と進むにつれて、背後で騒がしかった虫の声も、風の音も、急速に遠のいていく。
支配するのは、耳が痛くなるほどの静寂だけだ。
しばらく進んだところで、俺は停止の合図を送る。
リアムも、ぴたりと動きを止めた。
俺は地面に膝をつくと、足元の枯れ葉を指先でそっと払った。
そこには、巧妙に隠されたワイヤーが一本、月明かりを鈍く反射している。
踏めば、頭上から毒塗りの矢が降ってくる仕掛けだろう。
「ピヒラの言った通りだ……」リアムがつぶやいた。「予言みたい」
ピヒラの地図には、この罠の位置が寸分の狂いもなく記されていた。
俺はワイヤーを慎重に切断すると、再び闇の中へと歩き出す。
道なき道を進み、巨大な岩を迂回した、その時だった。
俺は再び、リアムを手で制した。
岩陰。
闇よりも深い影の中に、三つの人影が息を潜めている。
斥候部隊だ。
これも、ピヒラの予言通り。
リアムの息を呑む気配が、背後から伝わってきた。
俺は、ピヒラの示してくれた道標を信じ、完璧な仕事で応えるだけだ。
◇◇◇
砦の外壁が見えてきた。
粗雑な造りだが、無数の見張り台が設置され、厳重な警戒網が敷かれている。
俺はリアムにハンドサインを送る。
事前に取り決めていた『待機』だ。
そして、俺は一人、音もなく闇に溶けた。
まずは、東の見張り櫓。
ピヒラの予言通り、弓兵が二人。
昨日の雨で湿った弦を、気怠そうに指で弾いている。
俺は櫓の真下の死角に潜り込むと、懐から小さな石を二つ取り出した。
風の流れ、距離、角度。全ての要素を一瞬で計算する。
ひゅっ、と。
ほとんど同時に放たれた二つの石が、寸分の狂いもなく、二人の弓兵の首筋に吸い込まれていった。
声も上げさせずに、二人を沈黙させる。
次に、壁沿いを移動し、巡回兵のルートを先読みする。
三人の巡回兵が、油断しきった様子で雑談をしながら近づいてくる。
俺は、壁のわずかな窪みに身を潜め、完全に気配を殺した。
奴らが俺の真横を通り過ぎる、その一瞬。
俺は影から躍り出た。
最後尾の兵士の口を左手で塞ぎ、右手で首の急所を的確に打つ。一人目。
異変に気づいた二人が振り返るより早く、その足元を薙ぎ払う。
体勢を崩したところを、同じように無力化する。
これで、終わりだ。
リアムと合流し、砦の内部へと潜入する。
ピヒラの地図が示す、隊長格の詰め所。
扉の隙間から、いびきと、安物の酒の匂いが漏れていた。
予言通りだ。
俺はリアムに目配せすると、音もなく扉を開ける。
机に突っ伏して眠りこける、左目に傷のあるエルフ。
その首からは、鈍い銀色の鍵がぶら下がっていた。
俺は音もなく鍵を抜き去る。
その間、眠る隊長の呼吸のリズム一つ、乱させなかった。
詰め所を出て、再び闇に紛れる。
リアムが、震える声で俺に囁きかけた。
「……信じられない。地図に敵の配置やタイミングが書いてあったとしても、これは……あまりにも完璧すぎる。音も、気配も、殺意の一欠片すら感じさせなかった」
リアムは俺の目を見てつづける。
「頭で理解するのと、これを実行するのは全く次元が違う! ピヒラの予知は完璧なかもしれないが、それを寸分の狂いもなく現実にするあなたの技術は……もはや人間業じゃない!」
「いや、そこまで褒められると照れるが……」
いつもどおりにやっただけだ。
「一体……あなたは何者なんですか……」
最高の賛辞だった。
◇◇◇
奪った鍵で、地下牢へと続く重い鉄の扉を開ける。
螺旋状に続く、石の階段。
俺たちは慎重に下っていく。
どれくらい下っただろうか。
やがて、俺たちは最下層にたどり着いた。
通路の突き当たりに、一つだけ、他よりも頑丈そうな鉄格子が嵌められた牢がある。
ここだ。
俺はリアムに合図し、二人でゆっくりと、その牢へと近づいていく。
松明の、頼りない光が、牢の中をぼんやりと照らし出した。
◇◇◇
そこに、彼らはいた。
壁にかけられた鎖に両腕を繋がれ、汚れた衣服をまとった、二人のエルフ。
男と、女。
長く、満足な食事も与えられていないのだろう。その体は痛々しいほどに痩せこけている。
だが。
その、床に落ちた顔が、ゆっくりと上げられた時。
俺は、息を呑んだ。
その瞳の光は、まだ、少しも失われてはいなかった。
絶望の淵にありながら、その魂の気高さと、誇りを失っていない、強い光。
ピヒラにそっくりな、美しい翡翠色の瞳だった。
リアムが、震える声で、その名を呼んだ。
「……エイリケ様。……リーヴァ様……」
牢の中の二人が、はっとしたように顔を上げる。
その瞳が、信じられないものを見るように、大きく見開かれた。
「リアム? 生きていたのか……? なぜ、ここに」
ピヒラの父親、エイリケの、かすれた声が、静かな地下牢に響き渡った。
エイリケの視線が、リアムの後ろに立つ、俺の姿を捉え、鋭い警戒の色を宿す。
「……人間が、なぜ一緒に?」
俺はエイリケの目を見つめ返した。
「ピヒラが、あんたたちに会いたがっていた。だから、迎えに来たんだ」




