第64話 私は、ずっと、パパの娘だよ
『ミョルクヴィズ』の森の間近に、俺は粗末な戦略拠点を設営していた。
その中心には天幕が貼ってあった。
メンバーは俺とシグルーン、そしてピヒラとリアムだ。
ミーシャとクータル、そしてソルヴァには王都の仮住まいで待機してもらっている。
おそらくクータルがいてくれたらすごく力になるだろうけれども、それに期待して子供を戦場に連れ回すのもなぁ……という思いがあった。
胸には、手のひらサイズの小さい丸い石をさげていた。
『鋼鉄のグリフォン』と戦う前に、クータルからプレゼントされたものだ。
出かける前に、またクータルがその石に祈りを捧げていた。
パパがピンチになったら、これが守ってくれるからね、と言っていたが……。
ピヒラも、前線についてきてもらうわけではない。
この拠点で待機していてもらって、早く父と母にあわせてやりたい、というだけのことだった。
テーブルに広げられた、あまりに不完全な一枚の地図。
それを、俺とシグルーン、そしてピヒラの幼馴染だというエルフのリアムが、もう何時間も、ただ睨みつけている。
だが、答えはどこにもない。
分かっているのは、三日後の満月の夜に、ピヒラの両親が処刑されるという、絶望的なタイムリミットだけ。
敵である過激派『ヘフンド(復讐者)』の正確な拠点も、兵力も、潜入経路も、何もかもが深い森の闇の中だ。
「申し訳ございません。ここまでくれば、穏健派のメンバーから情報が得られるはずだったのですが……」
どうやら、すでに多数の穏健派の身柄が拘束されているらしい。
「いや、お前のせいじゃねえよ」
俺はそう言って、一度だけかぶりを振る。
まあ、俺が単独先行して、情報を得るしか方法はなさそうだ。
少々無理は承知だ。
その、時だった。
「――私に、やらせて」
声の主は、それまで俺たちのやり取りを、ただ黙って見つめていたピヒラだった。
俺たち三人の視線が、その小さな体に、一斉に集まる。
彼女は、まっすぐに俺の目を見つめ返すと、もう一度、はっきりと繰り返した。
「ここは、私の故郷だから。森が、きっと教えてくれるはず」
その翡翠色の瞳には、一点の曇りもない。
俺は、ただ頷くことしかできなかった。
◇◇◇
俺たちは、ピヒラに導かれるまま、ミョルクヴィズの森の入り口に立っていた。
一歩先は、昼なお暗い、深淵の闇。
ざわ、と木々が揺れる音が、まるで侵入者を拒む森の呻き声のように聞こえた。
ピヒラは、そんな森を前にしても、一切怯まなかった。
彼女はゆっくりと目を閉じると、すう、と深く、息を吸い込む。
次の瞬間。
空気が、変わった。
風が止み、鳥の声が止み、ただ、生命の息吹だけが満ちる、神聖な静寂が訪れる。
ピヒラの体が、淡い、柔らかな若葉色の光に包まれ始めた。
彼女の足元から、小さな草花の芽が、みるみるうちに芽吹き、色とりどりの、見たこともない花を咲かせていく。
それは、もはや魔法というより、生命の誕生そのものを見ているかのような、荘厳な奇跡だった。
やがて、ピヒラはゆっくりと目を開いた。
その瞳は、もはや俺の知る娘のものではない。
瞳には、宇宙が映っていた。
彼女の唇が、静かに、だが恐ろしいほど正確な情報を紡ぎ始める。
「……砦の、見張りは十二人。うち二人は弓兵で、東の見張り櫓に。弓の弦が、昨日の雨で少し湿ってる……。巡回は三人一組で、二時間交代」
淡々と、感情なく語られる言葉。
その内容は、俺が命懸けで手に入れる情報よりも、遥かに詳細で、正確無比だった。
シグルーンもリアムも、息を呑み、ただ目の前で起きている奇跡を、畏敬の念をもって見つめている。
「パパとママは……砦の地下牢。一番奥の、苔むした部屋に……。鍵は、隊長格の、左目に傷のあるエルフが、首から下げています。その人は……今、北側の詰め所で、一人で故郷の酒を飲みながら、昔を懐かしんでる……三時間後、彼は持ち場を離れて、一人で眠りにつくはず……」
それは、もはや索敵というレベルを超えていた。
敵の配置、巡回ルート、両親の居場所、鍵の在処、そして、潜入するための完璧な時間と場所まで。
勝利への道筋が、寸分の狂いもなく、俺たちの前に示されていく。
未来予知だ。
やがて、神託が終わる。
ピヒラを包んでいた神々しい光が、ふっと消えた。
彼女は、ふらり、とよろめいた。
俺はその小さな体を、慌てて、だが優しく抱きとめた。
「……パパ」
俺の腕の中で、彼女は安心しきったように、いつもの、俺の愛しい娘の顔に戻っていた。
◇◇◇
ピヒラが、まるで見てきたかのように羊皮紙に描き出した地図。
それは、もはやただの地図ではなかった。
全員が、言葉を失っている。
シグルーンですら、その怜悧な顔を驚愕に染めていた。
斥候のプロとして評価すると、この情報は、ただの情報じゃない。
勝利そのものだ。
これだけ情報があればなんとでもなる。
俺は、疲れて椅子に座る娘の前に、ゆっくりと膝をついた。
「……ピヒラ」
俺の声は、自分でも驚くほど、熱を帯びていた。
「お前のことを愛しているよ。立派な娘だ。絶対に、本当の親にあわせてやるからな」
それを聞いたピヒラの瞳から、ぽろり、と一筋の、涙がこぼれ落ちた。
「ねえ、パパ。パパのこと、私も大好き。血はつながってないけど、本当に、大事にしてもらったから。私は、ずっと、パパの娘だよ」
俺は、その涙を指でそっと拭ってやった。
もう、俺の心に迷いはなかった。




