第63話 大きな父親
夜の闇を、二頭の馬が駆けていた。
俺は手綱を握りしめ、ただ前だけを見据えていた。
隣を走るソルヴァの横顔は、月明かりの下で青白く、固くこわばっている。
リアムがもたらした絶望的な知らせ。
ピヒラの涙。
そして、俺が下した決断。
残された時間は、三日だ。
だが、エルフの森へ向かう前に、俺はマグナル公爵に話を通しておくことにした。
あれだけ騒動に関与するなと言われたのだ。
彼は、最初からいろいろなことを知っていたのだろう……。
◇◇◇
通された執務室は、静寂に包まれていた。
磨き上げられた黒檀の床が、窓から差し込む月明かりを鈍く反射している。
壁一面を埋め尽くす書棚と、そこに並ぶ無数の背表紙。
巨大な執務机の向こう側で、マグナル公爵は、ただ静かに座っていた。
俺たちが部屋に入ってきても、顔を上げることもない。
ただ、手元の書類に視線を落としたまま。
その無言の圧が、俺たちの覚悟を試しているかのようだった。
「……お父様。夜分遅くに、申し訳ありません」
沈黙を破ったのは、ソルヴァだった。
だが、公爵は娘に視線を移すことなく、静かに、だが重い声で言った。
「要件は、分かっておる」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
その鋭い眼光が、俺の心の奥底まで見透かすように、まっすぐに射抜いてくる。
「エルフの森、『ミョルクヴィズ』での一件。我が国の諜報部からも、既に報告は受けている。過激派『ヘフンド(復讐者)』の蜂起、そして、穏健派の指導者夫婦が捕えられた、ということもな」
全て、お見通しか。
「貴殿の娘……ピヒラ嬢が、その夫婦の娘であるということも、調べはついている」
この男の前では、どんな言い訳も、小細工も通用しない。
俺は腹を括り、単刀直入に切り出した。
「公爵閣下。俺たちは……ピヒラの両親を救うために、ミョルクヴィズへ行こうと考えています。騒動に近づくなと仰られていた理由を教えてください」
俺の問いに、公爵は表情を変えなかった。ただ、その瞳の奥に、深い苦悩の色が浮かんだように見えた。
「儂が警告したのは、それが我が国の存亡に関わるからだ」
公爵は、淡々と、だが重い事実だけを紡いでいく。
「奴隷商が森を蹂躙し、力の空白が生まれたあの時、儂は苦渋の決断を下した。あの森を、シルヴァンテ王国の領土として接収することをな。そして、砦を築き、開拓民を送り込んだ」
その言葉に、俺は息を呑んだ。エルフたちの憎しみの根源は、この男の決断にあったのか。
「なぜ、そんなことを……」
「やらねば、国が滅びるからだ」
公爵の声に、初めて激情が滲む。
「あの森を放置すれば、宿敵ヤンリケ皇国が、混乱に乗じて森を占領していたであろう。そうなれば、王国の喉元に刃を突きつけられることになる。奴らに奪われるくらいならばと、儂は……非情の決断を下すしかなかったのだ」
政治のことはよくわからん……。
俺のそんな内心の戸惑いを、隣に立つソルヴァが敏感に感じ取ったのだろう。
彼女は解説を加えてくれた。
「ダンスタン。お父様が仰っているのは、隣国にある、ヤンリケ皇国のことです。好戦的な軍事国家で、王国とは長年、緊張関係にあります」
ふむ。
ひとまず、その緩衝地帯にエルフの森があったが、そこを取られる前に取った、みたいな話なんだろうが……。
公爵はそこで一度言葉を切ると、声のトーンをわずかに落とした。
「儂が本当に案じているのは、貴殿の娘たちのことだ」
その、あまりにも意外な言葉に、俺もソルヴァも息を呑んだ。
「貴殿の娘、ピヒラ嬢は、今や王都で『聖女』と呼ばれ始めている。それは光であると同時に、危険な影を呼び寄せる。過激派がその力を恐れ、真っ先に狙う的になるやもしれん。あるいは……担ぎ上げられるやもしれんぞ。救国の乙女としてな。エルフ解放軍のリーダーなど。あるいは亜人解放軍とかな。そうなれば、あの子はもう、ただの娘ではいられなくなる。政争の、あるいは戦争の駒となる。貴殿ら家族全員が、否応なく巨大な渦に飲み込まれることになるのだ」
公爵の瞳に、深い苦悩の色が浮かぶ。
「ダンスタンよ。騒動から娘を遠ざけ、田舎町、ウィッカーデイルで静かに暮らすというのも、良いのではないか」
国家の存亡という鉄壁の正論に加え、父親としての、あまりにも真っ当な親心。
たしかに、マグナル公爵の言うことは間違っていない……。
◇◇◇
諦めかけた、その瞬間。
俺の脳裏に、泣きじゃくる娘の顔が浮かんだ。
『会いたい……! パパ、お願い……! 助けて……』
そうだ。
俺は、父親なんだ。
ここで引き下がるわけには、いかねえだろうが。
俺の頭の中で、スイッチが切り替わる音がした。
Cランク冒険者のダンスタンじゃない。
Aランクパーティ『太陽の槍』で、幾度となく絶望的な戦況を覆してきた、斥候としての思考に。
敵の土俵で戦うな。
自分の土俵に、引きずり込め。
「――公爵閣下」
俺の声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
「お言葉ですが、閣下は、一つ、大きな勘違いをなさっている」
「……ほう?」
公爵の眉が、わずかに動く。
俺は、不敵に、ニヤリと笑って見せた。
「我々がこれから行おうとしているのは、ただの私的な『救出作戦』などではありません。これは、王国にとって最小のリスクで、最大の利益をもたらす、最高の『諜報作戦』です」
俺は、たたみかける。
「閣下は、過激派『ヘフンド(復讐者)』の正確な戦力、組織構成、そして、彼らを裏で操っている『黒幕』の正体をご存知ですか?」
「……それは」
「ご存知ないはずだ。なぜなら、王国は彼らを『放置』しているのですから。ですが、我々なら、その内部情報を手に入れることができる。穏健派の指導者を救出するという、これ以上ない『手土産』を持って、彼らの懐に潜り込むのですから」
俺は、公爵の執務机に一歩、近づいた。
「我々は、穏健派との間に、王国との非公式なパイプを築きます。彼らを通じて、過激派の動向、そして、彼らに禁術を与え、憎しみを煽っているという『謎の組織』の情報を、逐一、王国にもたらす。……そうなれば、王国は、国境の森で起きている全てのことを、手に取るように把握できるようになる。ヤンリケ皇国が介入する隙など、どこにも生まれはしません」
俺は、そこで一度言葉を切ると、公爵の目を、まっすぐに見据えた。
「そして何より、この作戦の最大のメリットは、王国は公式には一切、関与しないという点です。我々は、ただの『しがない冒険者』として、独断で動く。万が一、作戦が失敗し、我々が命を落としたとしても、王国が被る損害はゼロ。我々が、全ての責任を負うのですから」
最小のリスク。
最大の利益。
これでどうだ。
ぎりぎり通るラインの話だと思うが……。
◇◇◇
しん、と。
執務室が静まり返った。
ソルヴァは、呆気に取られた顔で、俺と父親を交互に見つめている。
やがて、マグナル公爵の、常に厳しく引き結ばれていた唇が、ふっと、わずかに綻んだ。
それは、呆れと、感嘆と、そして、どうしようもない面白さがごちゃ混ぜになったような、苦笑だった。
「……はっ。なるほどな」
彼は、心の底から感心したように、一度だけ、深く頷いた。
「オーウェンが、なぜ貴殿を『我が背中を預けられる唯一の男』と言っていたのか……。今、ようやく、腑に落ちたわ」
その声には、もう敵意も、警戒の色もない。
そして。
鉄血公爵は、俺の目を、まっすぐに見つめ返すと、静かに、だがはっきりと、告げた。
「……さすがだな、ダンスタンくん」
その、あまりにも自然な呼び方。
それは、彼が俺を、ただの冒険者ではなく、対等な『男』として認めた、何よりの証だった。
公爵は、椅子からゆっくりと立ち上がると、俺の肩を、ぽん、と一度だけ、力強く叩いた。
「よかろう。貴殿の作戦、儂個人の判断で『黙認』する」
その言葉に、俺の隣で固唾をのんで見守っていたソルヴァの顔が、ぱっと輝いた。
「本当ですか、お父様! では、私も……!」
「ならん」
公爵の、短く、だが絶対的な拒絶の言葉が、ソルヴァの希望を打ち砕いた。
「お前は行かせん」
「なぜです! ピヒラは私の娘……というか妹も同然です! それに、この作戦には私の力も……!」
「ならんと言ったらならん!」
公爵の怒声が、執務室に響き渡った。
「儂は、もう二度と、我が子を戦場に送る過ちは犯さん! オーウェン一人で、十分だ!」
その声は、鉄血公爵のものではない。
ただの、息子を失った父親の、悲痛な叫びだった。
だが、その魂の叫びに、ソルヴァは食い下がろうとする。
「ですが、お父様……!」
「――そこまでだ、ソルヴァ」
俺は二人の間に割って入った。
ソルヴァが、はっとしたように俺の顔を見る。
「公爵閣下の言う通りだ。お前は、行かせられない」
「ダンスタンさんまで……!? なぜです!」
「これは、正面から斬り結ぶ戦じゃねえ。隠れて、欺いて、いざとなったら尻尾を巻いて逃げる、泥臭い斥候の仕事だ。お前の剣は、あまりに正直すぎる。この任務には向かねえ」
俺は、彼女の目をまっすぐに見据え、静かに、だがきっぱりと言い放った。
「それに、俺はオーウェンと約束したんだ。『妹を頼む』ってな。お前を危険な場所に連れて行くなんて真似、できるわけがねえだろうが」
俺の言葉に、ソルヴァは唇を噛み締め、何も言えずに俯いてしまう。
「お前のことが好きだ。だから、無理をさせたくないんだ」
公爵は、そんな俺たちのやり取りを、ただ黙って見つめていた。
その瞳には、俺への、深い信頼の色が浮かんでいる。
やがて、彼は天を仰ぎ、深くて、長い息を吐いた。
「……ダンスタンくん」
絞り出すような声で、彼は言った。
「娘を、頼んだぞ」
「はい」
俺は、深々と頭を下げた。
「儂は、何も見ていない。何も、聞いていない。……だが、なにか困ったことがあれば、相談しなさい」
公爵は、それだけを言い残すと、俺たちに背を向け、窓の外に広がる、夜明け前の空を見つめた。
もう、俺たちの交渉は終わった、という合図だった。
俺たちは、静かに執務室を後にする。
扉が閉まる直前、俺はもう一度だけ、その威厳に満ちた背中を振り返った。
朝日が、彼の横顔を照らし出している。
その表情は、どこか、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。
俺も、あんなふうに、大きな父親になれるだろうか……。




