第61話 ピヒラを尾行する父
平和な朝は、突如として終わりを告げた。
いや、正確には昨日、クータルがピヒラ宛の「ハートマーク付きの手紙」を発見した、あの瞬間に俺の平和は木っ端微塵に砕け散っていたんだが。
「ちょっと、一人で買い物に行ってくるね」
朝食を終え、ピヒラがはにかみながらそう言った瞬間、俺の頭の中で警鐘がけたたましく鳴り響いた。
一人で買い物だと?
昨日、あんな手紙が届いたっていうのにか?
嘘だ。
嘘に決まってる。
あれは間違いなく、どっかの馬の骨からの呼び出し状だ。
俺の可愛い娘を誑かそうって魂胆に違いねえ!
「……気をつけろよ」
俺は平静を装い、スープをすする。
だが、内心は嵐だ。
どこのどいつだ!
どこの馬の骨とも分からん奴に、ピヒラはやれん!
断じてだ!
ピヒラが少しお洒落をして、玄関の扉を開ける。
その背中を見送りながら、俺は静かに、だが固く決意した。
――尾行する。
父親として、娘の初デート(断定)を見届け、相手の男がピヒラに相応しいか、その値踏みをしてやるのは当然の責務だろう。
「パパ、なんだかすごく真剣な顔だにゃ」
俺の隣で、ミーシャが不思議そうに小首をかしげた。
その純粋な瞳に、俺はSランク斥候としての、冷徹なプロの顔で応える。
「……ミーシャ。緊急任務だ。これより、ターゲット『ピヒラ』の極秘追跡訓練を開始する。お前には、俺のサポートを命じる。いいな?」
「にゃっ! ラジャーであります、隊長!」
どうやら訓練だと勘違いしたらしい。
まあ、いい。好都合だ。
こうして、俺とミーシャによる、最強の親子尾行チームが、ここに結成された。
待ってろよ。
どこの馬の骨か知らねえが。
お前のことは、徹底的に分析させてもらうからな……!
もし、ピヒラに手でもだそうものなら……。
ふふふ……。
◇◇◇
王都の喧騒は、俺の研ぎ澄まされた感覚の前では、あってないようなものだった。
俺はAランク斥候としての全スキルを解放し、ピヒラの追跡を開始する。
「パパ、ターゲットは三番街の角を右折したにゃ! 現在、露店の果物を見ている模様!」
屋根の上を猫のようにしなやかに走りながら、ミーシャが小声で報告してくる。
俺は、隣の建物の壁に張り付き、気配遮断のスキルを最大レベルで発動させながら、ターゲットの動向を監視していた。
(ふむ……。今日のピヒラのスカート丈、少し短すぎやしないか? 王都には悪い虫が多いというのに……)
内心でそんな心配をしつつも、俺の動きに一切の無駄はない。
ピヒラが再び歩き出す。
俺とミーシャは、音もなく、影から影へと飛び移るように追跡を続けた。
通行人の雑談に紛れて情報を収集し、ミーシャが高い建物から進路を予測する。
長年培ってきたプロの技術を、ただ「娘の尾行」という目的のために全力で無駄遣いしていく。
やがて、ピヒラは王都の中央広場へとたどり着いた。
待ち合わせ場所として、あまりにもベタすぎる。
俺は広場を見下ろせる時計塔のてっぺんに陣取り、ミーシャは噴水の彫像の影に潜んだ。完璧な布陣だ。
「パパ、ターゲットは噴水前で停止したにゃ! おそらく、ここで相手を待つつもりだにゃ!」
「よし。相手が現れるまで監視を続ける。どんな些細な動きも見逃すな」
ピヒラの周りをうろつく男はいないか。
怪しい人影はないか。
娘に近づく不埒な輩は、たとえ視線だけであっても許さん。
俺が父親としての職務を全うすべく、神経を極限まで集中させていた、まさにその時だった。
「―――全員、動くなァッ!」
甲高い怒声が、平和な広場の空気を引き裂いた。
◇◇◇
見れば、広場に面した宝石店から、覆面を被った三人組の男が飛び出してきた。
手には剣と、宝石が詰まった革袋。
白昼堂々の、凶悪な強盗事件だ。
「ひぃっ!」
「強盗よ!」
広場は一瞬でパニックに陥る。
人々が悲鳴を上げて逃げ惑い、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
衛兵が駆けつけるまで、数分はかかるだろう。
その間に、被害が拡大するかもしれん。
――やるしか、ねえか。
俺は舌打ち一つ。
尾行のために陣取っていたこの時計塔は、狙撃地点としては、まさに最高のポジションだった。
俺は懐から、斥候任務に使うための、ただの石を三つ、手に取った。
風の流れ、距離、強盗たちの動き。
全ての要素を一瞬で計算し、最適解を導き出す。
ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ。
三つの石が、ほとんど同時に、俺の指先から放たれた。
それは、音もなく宙を切り裂き、逃走しようとする強盗たちの、首筋と、膝の、寸分違わぬ急所に、正確に吸い込まれていく。
「ぐはっ!?」
「がっ……!?」
「な、なんだ……体が……」
強盗たちは、何が起きたのかも理解できぬまま、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちた。
気絶しているだけだ。殺しはしない。
広場は、一瞬の静寂の後、爆発的な歓声に包まれた。
「な、なんだ今のは……!」
「どこからか、石が……!」
「天罰だ! 悪党に天罰が下ったんだ!」
人々が、正体不明の英雄の姿を探して空を見上げる。
だが、その時にはもう、時計塔に俺の姿はなかった。
俺は満足感に浸りながら、屋根伝いにその場を離れようとした。
だが、その、あまりにも完璧な仕事ぶりが、一つの、致命的なミスを誘発した。
「……パパ?」
声がした方を見下ろすと、そこには、呆然とした顔でこちらを見上げる、ピヒラの姿があった。
強盗事件のどさくさで、俺の気配遮断が、一瞬だけ緩んじまったらしい。
まずい。
完全に、バレた。
◇◇◇
気まずい沈黙が、俺とピヒラの間に流れる。
俺が、どう言い訳したものかと頭を悩ませていると、ピヒラの後ろから、一人のエルフが、静かに姿を現した。
ピヒラと同じくらいの年頃の、凛とした顔立ちのエルフだった。
その翡翠色の瞳には、ただならぬ覚悟と、焦りの色が浮かんでいる。
「てめえ、何者だ?」
俺は、低く、威嚇するような声で問う。
「娘に妙な手紙を寄越しやがって。目的は何だ? 答え次第じゃ、タダじゃおかねえぞ」
俺の剥き出しの敵意を受けても、怯まなかった。
ただ、はっと息を呑み、俺の力量を正確に測るような目で見つめ返してくる。
その視線が、ピヒラへと移った瞬間、張り詰めていた表情が、わずかに揺らいだ。
「……ピヒラ」
その声に、ピヒラが驚いたような顔を見せた。
「その声……まさか、リアム?」
「うん、私よ」
少女――リアムは、こくりと頷く。
その瞳には、再会の喜びよりも、深い悲しみの色が浮かんでいた。
「ごめんなさい、ピヒラ。あなたをこんな形で呼び出すしか、方法がなかった」
彼女は、一度ぎゅっと唇を噛み締めると、早口に、だが必死に言葉を紡ぎ始めた。
「あの手紙は、偽装よ。あなたと話がしたくて」
「リアム、本当に久しぶり……」
ピヒラの声が、震える。
再会を喜ぶと同時に、彼女の胸には、ずっと抱えてきた最大の疑問が渦巻いていたのだろう。
彼女は、俺の服の裾をぎゅっと握りしめながら、祈るように尋ねた。
「ねえ、私のパパとママは? 知ってる?」
パパと、ママ。
その、あまりにも当たり前な言葉が、俺の胸に突き刺さった。
ズキリ、と。
心の、一番柔らかい場所が、確かに痛んだ。
……そうだ。俺は、こいつの本当の父親じゃない。
こいつには、血の繋がった本物の『パパ』がいるんだ……。
当たり前の事実を、今更ながらに突きつけられた気がした。
俺が、どれだけ父親ぶっていても、その事実は決して変わらない。
俺が、一瞬、言葉を失っていると。
リアムは何かを言おうとして、だが言葉を見つけられないかのように、一度、固く唇を結んだ。
その瞳に、深い、深い苦悩の色が浮かぶ。
やがて、彼女は覚悟を決めたように、ピヒラの目をまっすぐに見つめ返した。
「……ええ。生きているわ」
その一言に、ピヒラの顔が、ぱっと希望に輝く。
だが、リアムは絶望的な言葉を続けた。
「けれど……」
その声は、悲痛な叫びだった。
「残された時間は、もう、ほとんどないかもしれない」




