第59話 マグナル・アイゼンベルク
昨夜の、あの奇跡。
ピヒラとクータルの姉妹の絆が生んだ、温かい光景。
だが、俺の心の中には、ずっと引っかかるものがあった。
翌朝。
俺はベッドで、隣で眠るクータルを撫でていた。
そうしているうちに起こしちまったらしい。
クータルは、ゆっくりと目を開く。
「……ぱぱ、おはよう」
「ああ、おはよう」
俺は、この純粋な娘を、昨日、無理やり泣かせようとしたんだ。
たとえ、アンニャの命を救うためだったとしても。
父親として、それは、本当に正しいことだったんだろうか。
「クータル、ごめんな」
「ん? なあに?」
「昨日……パパ、お前に、悲しい思いをさせちまった。アンニャちゃんのためだったとはいえ、無理やり泣かせるような真似をして……。本当に、すまなかった」
俺が頭を下げると、クータルは不思議そうに小首をかしげた。
そして、俺の頭を、小さな手で、ぽん、ぽんと優しく撫で始める。
「だいじょーぶだよ、ぱぱ! クー、かなしいってきもち、わかったよ? ぴーらの、かなしいきもち。そるゔぁさんの、かなしいきもち。みんながかなしいと、クーもかなしいの。だから、クーのなみだで、みんながえがおになるなら、クー、うれしいよ!」
その、あまりにも純粋で、温かい言葉。
俺は、込み上げてくる熱いものをこらえきれずに、ただ、娘を力いっぱい抱きしめた。
……だが、だからこそ、決意した。
もう二度と、この子の優しさを、危険に晒すような真似はしないと。
俺は、さらに左で横になっているピヒラの顔を見た。
もう起きていたようで、枕元で肘をついて本を読んでいた。
「ピヒラ。一つ、約束してくれ」
「なあに? パパ」
「昨日の薬のことだ。特に『竜の涙』のことは、絶対に、誰にも話しちゃいけない。俺と、お前と、クータルだけの秘密だ」
俺の真剣な表情に、ピヒラもこくりと頷く。
「もし、このことが世間に知られたら……王様や、貴族たちが、クータルのことをどう見るだろうか。クータルは、ただの子どもじゃなくて、『奇跡の涙を流す、生きた宝物』になる。国に捕まって、自由を奪われて、涙を流すだけの道具にされちまうかもしれねえんだ」
「……うん。わかった、パパ。絶対に、誰にも言わない。約束する」
あとは、この家の人達にも口止めしておかないとな……。
◇◇◇
アンニャの部屋は、ここ数日の重苦しい空気が嘘のように、明るい雰囲気だった。
「見て、ソルヴァお姉ちゃん! アンニャね、もうこんなに起き上がれるようになったんだよ!」
ベッドの上で半身を起こしたアンニャが、きゃっきゃと嬉しそうに笑う。
その顔にはもう、死の影はどこにもない。
年相応の、快活な少女の輝きが戻っていた。
「ええ、すごいわ、アンニャ。もうすっかり元気ね」
その隣で、ソルヴァが心からの、本当に優しい笑顔を浮かべている。
俺は、部屋の入り口で腕を組みながら、その光景に目を細めていた。
ピヒラとクータルも、俺の足元で嬉しそうに二人を見守っている。
部屋の隅では、憔悴しきっていたアンニャの両親が、涙を流しながらその光景をただ黙って見守っていた。
やがて、父親の方が意を決したように俺たちの前に進み出て、深々と頭を下げる。
「ダンスタン殿……そして、ピヒラ嬢。このご恩は、言葉では言い尽くせません。あなた方は、我々一家の、そしてこの子の命の恩人です」
彼はそう言うと、震える手で、ずしりと重そうな革袋を俺に差し出してきた。
中から、金貨が擦れる重い音が聞こえる。
莫大な額であることは間違いない。
「どうか、これを受け取っていただきたい。いや、これでも足りないくらいだ。望むものがあれば、何でも言ってほしい。屋敷でも、土地でも……」
だが、俺はその革袋を、静かに、だがきっぱりと押し返した。
「お気持ちだけで、十分です」
「し、しかし……!」
「娘たちが、ただ、目の前の命を助けたい。その一心でやったことです。礼や報酬なんてものはいりません。……娘の起こした奇跡に、俺が値段をつけるわけにはいかないんですよ」
俺の、不器用な、だが偽らざる本心だった。
あと、将来、親戚になるかもしれないしなぁ……。
アンニャの両親は息を呑み、そして、改めて俺の後ろでおずおずと立っているピヒラに深々と頭を下げていた。
ピヒラは照れくさそうに俺の後ろに隠れてしまう。
この、温かくて、穏やかな時間が、いつまでも続けば良い。
さて、そろそろ王都の家へ戻ろうか……と考えていた、まさにその時だった。
アンニャの部屋の扉が、控えめに開かれた。
そこに立っていたのは、軍服を寸分の隙もなく着こなした、壮年の男。
鋭い眼光は、歴戦の猛禽を思わせる。
壮年の男は、まずアンニャの両親に軽く会釈すると、俺の方を向いた。
そして、威厳のある、だが穏やかな声で言った。
「紹介が遅れたな。ソルヴァの父、マグナル・アイゼンベルクだ。姪のアンニャが世話になった」
マグナル・アイゼンベルク。
その名を聞いた瞬間、俺の背筋に、冷たい汗が流れた。
『鉄血公爵』。
王国の軍事を一手に担い、その冷徹さと厳格さで敵国からも恐れられる、シルヴァンテ王国最高位の貴族様だ。
オーウェンの……そして、ソルヴァの父親。
◇◇◇
「……お父様」
ソルヴァの声が、緊張で微かに震える。
だが、マグナル公爵の視線は、娘ではない。
ただ一点、ベッドの上のアンニャにだけ注がれていた。
彼は、ゆっくりと、一歩、また一歩とベッドに近づいていく。
「……アンニャ。顔色が良くなったな」
やさしい声だった。
そして、彼は、久しぶりに会う自分の娘、ソルヴァへと視線を移す。
「……ソルヴァ。お前も、息災なようで何よりだ」
「はい、お父様も、お元気そうで何よりです」
ぎこちない会話だ。
やがて、マグナル公爵は、俺の方へとゆっくりと向き直った。
「貴殿が、ダンスタン殿か。姪と、そして娘が世話になった。まずは、礼を言う」
「いえ……俺は、何も。娘たちが頑張っただけですから」
俺がそう言って頭を下げると、公爵は「謙遜は不要だ」と、静かに、だが重く言った。
そして、その鋭い眼光が、俺の心の奥底まで見透かすように、まっすぐに射抜いてくる。
「礼は述べた。……だが、話はまだ終わってはおらん」
眼光が、さらに鋭くなる。試される時が来た。
◇◇◇
「単刀直入に聞こう、ダンスタン殿」
マグナル公爵の声が、静かな部屋に響く。
その鋭い眼光が、俺の後ろに隠れるピヒラへと、一瞬だけ向けられた。
「貴殿が、エルフの娘を保護しているという話は私の耳にも入っている。差し支えなければ、その娘との出会いについて、聞かせてもらえんか?」
探るような、だが有無を言わさぬ響きを持った問い。
俺は一瞬ためらったが、事実を簡潔に話した。
「ウィッカーデイルの森の奥で、猟師が仕掛けた罠にかかり、動けなくなっているところを保護しました」
「……そうか。森で、ひとりだったということか」
公爵は何かを思案するように、一度だけ静かに頷いた。
「出自はどうあれ、だ。貴殿の娘……ピヒラ嬢は、今や王都の一部では『聖女』とまで呼ばれているそうだな。人の称賛は心地よかろう。だが、忘れるな。人の熱狂は、時として容易く憎悪に変わる。特に、異種族に対するそれは、根深いぞ」
彼の言葉は、婉曲的だった。
だが、その真意は痛いほど伝わってくる。
今は称賛されているこの小さな娘が、何かをきっかけに、いつか人々の憎悪の的になるかもしれない。
「貴殿は……世論という見えざる敵の憎悪から、本当に、この子を守り抜けるのか? その覚悟が、貴殿にはあるのかと、そう問いたい」
厳しい追及だ。
だが、俺の心は揺らがなかった。
「承知しています。ですが、ピヒラは、ただの『エルフの子』でも『聖女』でもありません。俺の、大事な娘です」
俺は、公爵の視線を逸らさずに、きっぱりと言い放った。
「どんな困難があろうと、世間が何を言おうと、俺がこの命に代えても、この子を守り抜きます。……他の娘たちと、何ら変わりなく」
俺の、揺るぎない覚悟。
それを聞いたマグナル公爵は、何も言わない。
ただ、じっと俺の目を見つめている。
やがて、彼はふっと視線を俺から外し、隣に立つ自分の娘、ソルヴァへと向けた。
だが、その視線が交わることはない。
彼は、娘の顔を直接見ることなく、まるで事務的な確認をするかのように、静かに、俺にだけ問いかけた。
「……ダンスタン殿。貴殿は、我が娘をどう見ておられる」
あまりにも無機質で、感情の読めない問いだ。
俺は、隣に立つソルヴァの気配を感じながら、誠実に、ありのままを答えた。
「自分の足で、未来へ向かって歩き出そうとしている。強く、美しい女性だと、そう思っています」
俺の答えに、公爵は何も言わない。
ただ、部屋の窓の外に広がる空を、黙って見つめている。長い、重たい沈黙が流れた。
「いや、そういうことではなく……例の件だ。噂で聞いておるぞ」
マグナル公爵の言葉に、ソルヴァの頬が、ぽっと赤く染まる。
俺は、ぎくりと心臓が跳ねるのを感じた。
まずい。
学園での、あのとんでもない勘違い騒動と、その後の婚約の話が、もうこの人の耳にまで届いているのか。
事前に、父とどういう話をするのかシミュレートしていたはずなのに。
頭が真っ白になって、言葉出てこない。
何かを話さなくては。
そう思えば思うほど、言葉が出てこなくなる。
「あ、いや、それはその……はい。そうです。好きなんです。お互いに」
なんじゃそりゃ!
我ながら終わっている返答だった。
公爵はそれを、片手を上げて静かに制した。
「ふん。まあ、よかろう」
その声には、呆れと、ほんの少しの安堵が混じっているように聞こえた。
「貴殿が、我が娘をただの子供ではなく、一人の女性として見ておることだけは、よく分かった。……その件については、いずれ、改めてじっくりと聞かせてもらうとしよう」
その言葉は、この場では追及しないという猶予であり、同時に、決して逃がさないという最終通告でもあった。
俺は、冷や汗をかきながら、ただ頷くことしかできない。
やがて、マグナル公爵は、ふぅ、と深く、長い息を吐いた。
その息と共に、彼の全身から、威厳も、公爵としての建前も、全てが抜け落ちていくようだった。
「少し、外に出ないか」
意外な誘いに、俺は乗った。
二人で屋敷の庭へと出て、ゆっくりと進む。
マグナル公爵は、ふと立ち止まり、俺のほうを向いた。
「一つだけ、教えてはくれまいか」
彼は、俺の目を見て、懇願するように言った。
「――我が息子、オーウェンの最期について、全てを話してもらおうか」




