第58話 竜の涙
「……パパ。もしかしたら、私、あの子を治せるかも」
俺は、ごくりと喉を鳴らし、彼女に尋ねる。
「……本当か、ピヒラ」
「うん……。たぶんだけど」
「あの人たちに説明できるか?」
ピヒラは小さくうなずき、アンニャの両親を見た。
そして、ゆっくりと話はじめる。
「アンニャさんの病は……おそらく古代から伝わる呪病、『フィンブルの呪い』です。通常の治癒魔法や薬では治せません」
「そ、そんな……」とアンニャの母親が力なく崩れ落ちそうになる。
「ですが……」とピヒラは続けた。「私の故郷に伝わる、古代エルフの秘薬を使えば、あるいは……」
その言葉に、部屋にいた全員の目が、一斉にピヒラへと注がれた。
「でも、薬を作るのに、どうしても必要な材料が一つだけあるんです。それは……」
ピヒラは、一度言葉を切ると、少しだけ言いにくそうに、だがはっきりと告げた。
「『竜の涙』です」
◇◇◇
「……竜の、涙、だと?」
俺の口から、間抜けな声が漏れた。
他の大人たちも、ソルヴァも、アンニャの両親も、ただ呆然と立ち尽くしている。
そりゃそうだよな。
竜なんて、ただでさえ神話やおとぎ話の中の存在だ。
どうやって手に入れろって言うんだ。
しんと静まり返った部屋で、一人だけ、きょとんとした顔で小首をかしげている奴がいた。
クータルだ。
「竜などという伝説の存在の涙を、どうすれば……」とソルヴァがつぶやいた。
「……ソルヴァ。竜なら、ここにいる」
「え……?」
「こいつが、そうだ」
俺は、自分の足元で不思議そうにしているクータルを指さす。
あ、そういえば、ソルヴァはまだ、クータルの正体を知らなかったんだ。
「ですが、『涙』なんて……。クータルちゃんは、いつも笑っているような子なのに……」
その通りだ。
こいつが、本気で悲しんで泣いたところなんて、俺は一度も見たことがない。
腹が減ったとか、眠いとかで泣くことはあっても、それは『心からの涙』とは程遠いだろう。
あとは……俺が死ぬ夢を見たときくらいか……。
とはいえ……。
「やるしかねえな!」
うじうじしていても始まらん。
「ソルヴァ、やるぞ! 手当たり次第だ!」
「は、はいっ!」
こうして、俺たちによる、『ドラゴン号泣大作戦』がはじまった。
◇◇◇
場所は屋敷の、だだっ広い厨房。
俺たちは、クータルをテーブルの椅子に座らせ、二人で鬼気迫る形相で対峙していた。
「まずはこれだ!」
俺の号令一下、ソルヴァとピヒラは、山のように積まれた玉ねぎを、猛烈な勢いで刻み始めた。
トントントントン!
厨房に、小気味よい音が響き渡る。
「うっ……目に……目にしみる……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、俺は必死に手を動かす。
隣のソルヴァも、涙で前が見えないのか、危なっかしい手つきだ。
やがて、厨房はむせ返るような玉ねぎの匂いで満たされた。
これならどうだ!
俺たちが、涙目で期待に満ちた視線をクータルに向けると。
「……?」
当の本人は、きょとんとした顔で、ただ俺たちの奇行を眺めているだけだった。
まったく、効いている様子がねえ。
というか、むしろ、ちょっと楽しそうだ。
「だ、ダメです! 竜の粘膜は、人間のそれとは構造が違うのかもしれません……!」
第一計画、あえなく失敗。
「次だ!」
俺たちは厨房から、書斎へと移動した。
書棚から、一冊の古びた絵本を引っぱり出す。
表紙には『世界一悲しい物語・マッチ売りの少女』とある。
「ソルヴァ! この悲劇を朗読してくれ! どんな鉄の心を持つ者でも、涙なくしては聞けんだろう!」
「わ、分かりました!」
ソルヴァは咳払いを一つ。
そして、透き通るような、美しい声で物語を読み聞かせ始めた。
「……少女の小さな手は、もう、かじかんで感覚がありません。ああ、一本でいいのです。マッチの炎で、少しでも暖をとりたい……」
さすがは学園一の才女。
その朗読は、あまりに感情豊かで、聞いているこっちが泣きそうになってくる。
物語は、いよいよクライマックスへ。
「少女は、大好きだったおばあ様の幻を見ます。そして、その温かい光に包まれながら、静かに、天へと召されていきました……。翌朝、人々が見つけたのは、幸せそうに微笑んだまま、凍えてしまった、小さな少女の亡骸でした……」
ソルヴァが、涙ながらに最後のページを読み終える。
どうだ!
これなら、さすがのクータルも……!
俺たちが、固唾をのんでクータルの反応を見守っていると。
「あはははは! おもしろーい! おそら、とんだのー!」
めっちゃ笑顔。天使。
……だめだこりゃ。
死の概念が、まだよく分かってねえんだ。
こいつにとっては、ただのファンタジーなんだろうな。
俺とソルヴァは、その場にがっくりと膝から崩れ落ちた。
もう、万策尽きた。
◇◇◇
竜の涙の入手は絶望的だ。
一度は希望が見えたあとの絶望たるや……。
皆、消沈していた。
そんななか、一人だけ、クータルは状況を理解できていない様子だった。
てちてちと俺の元へ駆け寄ってきた。
そして、俺の服の裾を、くい、と引っぱる。
「ねー、ぱぱ」
「……なんだ、クータル」
俺が力なく返事をする。
クータルは純粋な、一点の曇りもない瞳で、厨房の隅で泣いているソルヴァを指さした。
「そるゔぁ、なんでないてるの? どこか、いたいの?」
その、あまりにも無垢な問い。
俺は、言葉に詰まった。
この子に、どう説明すればいい?
死の概念も、大切な人を失う悲しみも、まだよくわからない、この小さな竜に。
だが、俺は逃げなかった。
この子の父親として、誠実に向き合わなければならない。
俺は、クータルの前にゆっくりと膝をつくと、その小さな肩を、そっと掴んだ。
「……なあ、クータル」
俺は、慎重に、だが、ごまかさずに言葉を選ぶ。
「ソルヴァはな、今、すごく悲しいんだ。あっちの部屋で眠ってる、アンニャちゃんっていう、ソルヴァの大事な妹みたいな子が、もうすぐ、遠いお空の向こうに行っちまうかもしれないから」
「おそらのむこう?」
「ああ。もう二度と、会えなくなるかもしれない。ぎゅって、できなくなるかもしれないんだ」
クータルは、きょとんとした顔で、俺の言葉を聞いている。
まだ、ピンと来ていないようだ。
俺は、すう、と息を吸い込んだ。
そして、この子の心に、一番響くであろう、たった一つの言葉を紡いだ。
「クータル。もし、パパが、急にいなくなっちまったら……。もう二度と、会えなくなっちまったら、クータルは、どう思う?」
その、一言。
クータルのルビーのような瞳が、大きく、大きく見開かれた。
彼女の脳裏に、あの日の悪夢が蘇ったのかもしれない。
俺がいなくなってしまう、あの恐ろしい夢が。
「いや……」
小さな唇が、震えながら動く。
「ぱぱ、いなくならないで……。やだ……やだぁ……っ!」
ぽろり。
ぽろ、ぽろり。
クータルの大きな瞳から、大粒の、水晶のように透き通った涙が、後から後からとめどなく溢れ出した。
それは、自分のための涙じゃない。
俺の言葉で、彼女は初めて、本当の意味で理解したんだ。
大切な誰かを失うかもしれない、という恐怖と、その悲しみを。
今、ソルヴァが感じている、胸が張り裂けそうな痛みを。
「そるゔぁ……あんにゃちゃん……かわいそう……。クーも……かなしい……」
それは、アンニャとソルヴァの悲しみに、ただ純粋に『共感』して流した、あまりにも美しい、心からの涙だった。
◇◇◇
ピヒラは、その奇跡の一滴を、小さなスプーンでそっと受け止めると、小さなガラスの小瓶に、大切に、大切に収めた。
そして、立ち上がると、俺たちに、力強く頷いてみせる。
ピヒラは、用意していたレクナール草を乳鉢で丁寧にすり潰していく。
その動きに、一切の迷いはない。
最後に、あの奇跡の涙を、一滴。
そっと乳鉢に垂らした。
瞬間。
ふわり、と。
乳鉢の中身が、温かい、柔らかな黄金色の光を放ち始めた。
生命の息吹そのものが形になったかのような、神々しい光。
古代エルフの秘薬が、完成した瞬間だった。
◇◇◇
俺たちは、再びアンニャの病室へと戻っていた。
ピヒラは、完成したばかりの秘薬を、アンニャの唇に、そっと、一滴だけ垂らしてやる。
黄金色の雫が、少女の体の中へと、ゆっくりと吸い込まれていった。
しん、と静まり返った部屋。
誰もが、固唾をのんで、その小さな体に起きる変化を見守っていた。
数秒か、あるいは数分か。
永遠のようにも感じられた沈黙の後。
すぅ……。
アンニャの、か細く、途切れ途切れだった呼吸が、穏やかで、深いものへと変わった。
蝋のように白かった肌に、ほんのりと、だが確かな血の気が戻る。
青白く落ち窪んでいた頬が、ふっくらと、健康的な色を取り戻していく。
まるで、枯れかけた花が、再び生命の瑞々しさを取り戻していくかのように。
奇跡は、確かに、そこに始まっていた。
「……ああ」
誰かが、安堵のため息を漏らす。
絶望に支配されていたこの部屋に、ようやく、温かい希望の光が差し込み始めていた。
俺は、隣で寄り添うように立つ、二人の娘の肩を、そっと、力強く抱き寄せた。
俺の、世界一、誇らしい娘たち。
お前たちが起こした、この小さな、だが、とてつもなく大きな奇跡を。
俺は一生、忘れないだろう。




