第57話 ソルヴァの親戚、アンニャ
S級魔獣『鋼鉄のグリフォン』討伐。
そしてAランクパーティ『竜の牙』のリーダーを不治の呪詛から救った一件。
俺と、俺の娘たちの噂は、良くも悪くも王都中を駆け巡っていた。
今日も今日とて、俺たちの家には、朝からやかましい声が響き渡っている。
「聖女様! 今日の献上品です! 今朝、市場で一番でかいマグロを競り落としてまいりました!」
「ピヒラ殿! こいつは俺からだ! 見てくれ、この見事なカツオを!」
「お前ら、魚臭いだろうが! す、すみません聖女様、こいつらは馬鹿ですが、新鮮な魚は美味いので……」
玄関口で、汗臭い筋肉自慢の男たちが、ずらりと並んで巨大な魚を掲げている。
完全に回復した『竜の牙』の連中だ。
あの一件以来、こいつらは毎日、飽きもせずこうして我が家に押しかけてきては、ピヒラに謎の貢物を捧げるのが日課になっていた。
「にゃっふん! 今日の献上品は素晴らしい出来だにゃ! 聖女ピヒラに代わり、チーフ・ガーディアンのミーシャが検分するであります!」
誰よりも早く反応したのはミーシャだった。
目をキラキラと輝かせ、マグロの周りをくんくんと匂いを嗅ぎながら嬉しそうに尻尾を振っている。
「あ、あの……わ、私は、そんな……」
当のピヒラは、巨大な魚と男たちの圧に完全に気圧され、俺の後ろに隠れておろおろしている。
聖女様、ねえ。
まあ、たしかにあれは奇跡だが……。
そんな、いつも通りの、平和で少しだけ騒がしい時間が流れていた、まさにその時だった。
コン、コン。
控えめなノックの音が、家の扉を叩いた。
俺が「ん?」と首をかしげると、一人の配達員が息を切らしながら立っていた。
「至急の、速達でお届けです! ソルヴァ様はいらっしゃいますか!」
ソルヴァ?
あいつに、一体誰からだ。
奥の部屋から出てきたソルヴァが、不思議そうな顔でその手紙を受け取る。
手紙の封をとき、文章を読み進める。
徐々に、彼女の顔から、すっと血の気が引いていくのが分かった。
「……嘘」
か細い、震える声。
その完璧に整った顔が、みるみるうちに絶望の色に染まっていく。
彼女の手から、一枚の便箋がはらりと床に落ちた。
「どうした、ソルヴァ」
俺が声をかけるが、返事はない。
「おい、ソルヴァ。大丈夫か」
ソルヴァは言葉を発せないようだ。
俺は床に落ちた手紙を拾った。
◇◇◇
書かれていたのは、あまりにも残酷な知らせだった。
ソルヴァの、遠縁にあたる親戚。
その一人娘である少女が、原因不明の病で倒れ、今まさに危篤状態にある、と。
「……行きます」
呆然と立ち尽くしていたソルヴァが、絞り出すようにそう言った。
「分かった。馬を出そう。俺も一緒に行くよ」
ピヒラがおずおずと俺の袖を引いた。
「パパ……私も、何か手伝えることが、あるかもしれないから……」
その翡翠色の瞳に宿る、ヒーラーとしての確かな覚悟。
原因不明の病か……。
もしかしたら、この子の力が何か役に立つかもしれねえ。
「ぱぱ、クーもいく! 置いてかないで!」
今度はクータルが足にまとわりついてきた。
まずい、こうなったらてこでも動かないぞ、こいつは。
一刻を争うこの状況で、説得している時間はない。
「……わかった。ソルヴァはピヒラを乗せてくれるか。俺がクータルを乗せる。急ぐぞ!」
シグルーンとミーシャには留守を頼んだ。
俺たちは最低限の準備だけを済ませると、借りてきた馬に飛び乗った。
石畳を蹴る蹄の音が、やけに焦りを煽るように響く。
◇◇◇
屋敷に到着すると、憔悴しきった様子の夫婦が出迎えてくれた。
少女の両親だろう。
「ソルヴァ、よく来てくれた……」と少女の父親が言った。
「アンニャの容態は」とソルヴァが尋ねる。
「それが……もう、手の施しようがないと……高名な医師も、神殿の神官様も、皆、匙を投げて……。ソルヴァちゃんには心配をかけたくなかったから、言わなかったんだけどね。もう、いよいよだって……」
母親は、言葉を詰まらせ、その場に泣き崩れた。
父親が、力なくその肩を支える。
屋敷の中は、しんと静まり返っていた。
案内された病室の扉を開けた瞬間、俺は息を呑んだ。
死の匂いだ。
かつて、冒険者として何度も嗅いだことのある、生命が尽きようとする者だけが放つ、あの独特の匂い。
天蓋付きの大きなベッドの上で、小さな少女が、か細い寝息を立てていた。
アンニャ、というらしい。
その肌は蝋のように白く、頬はこけ、閉じられた瞼は青白く落ち窪んでいる。
ベッドの脇では、白衣を着た初老の医師が、悔しそうに首を横に振っている。
「……手の尽くしようがありません。原因不明の不治の病です。まるで……まるで、生命力そのものが、内側から消えていくような……」
部屋の隅では、神官服を着た男が、力なく床に座り込んでいる。
彼の顔には、己の無力さを嘆く、深い絶望の色が浮かんでいた。
誰もが、諦めている。
この小さな命が、もう助からないという事実を、受け入れてしまっている。
そんな、救いのない空気が、この部屋の全てを支配していた。
◇◇◇
ソルヴァは、そんな絶望的な空気の中を、ただ、まっすぐに歩いていった。
そして、ベッドの脇に静かに膝をつくと、眠るアンニャの小さな手を、そっと、優しく両手で包み込んだ。
「……アンニャ」
呼びかける声は、震えていなかった。
気丈だった。
彼女は、この絶望の淵にいる小さな少女を、励まそうとしていた。
「ソルヴァよ。私が学園に入る前、よく一緒に遊んだでしょう」
ソルヴァの声に、遠い日の光景を懐かしむような、温かい色が灯る。
「お兄様を隊長にして、三人で庭の探検をしたじゃない。あなたが木の根に躓いて転んで、膝を擦りむいて、べそをかいた時、お兄様、なんて言ったか覚えてる? 『勇敢な隊員の涙は宝物だ』なんて言って、私のハンカチであなたの涙を大事そうに拭いていたわ。あなたはすぐに泣き止んで、また探検の続きだって走り出した。本当に、昔から元気な子だったんだから……」
その優しい思い出が、目の前の残酷な現実との落差を際立たせる。
ソルヴァの声が、わずかに震えた。
「……だから、負けないで。お願いだから、目を覚まして。元気になったら、また一緒に……今度は、私の家族も紹介するわ。優しくて、少し不器用な……私の大切な人と、可愛くて、頼りになる子たちがいるの。きっと、あなたも好きになるわ」
その声は、どこまでも優しく、温かかった。
その時だった。
ぴく、と。
意識のないはずのアンニャの指が、ほんのわずかに、動いた。
そして、ソルヴァの手を、力なく、だが確かに、きゅっと握り返してきたのだ。
その、あまりにもか細い、だが、確かな生命の反応。
それが、引き金だった。
張り詰めていた、ソルヴァの心の糸が、ぷつり、と音を立てて切れた。
「……いやよ」
ぽろり。
彼女の大きな瞳から、大粒の涙が、一粒、また一粒と、とめどなく溢れ出す。
「頑張って……。辛いかもしれないけれど……。もう少しだけ……」
嗚咽が、漏れる。
ソルヴァは、アンニャの手を胸に抱きしめ、子供のように声を上げて泣いた。
俺も、何もしてやれなかった。
ただ、その震える小さな背中を、見守ることしか。
自分の無力さが、腹立たしかった。
◇◇◇
どれくらいの時間が経っただろうか。
誰もが、もう、この小さな命の灯火が消えるのを、ただ待つしかないのだと、諦めかけていた。
その時だった。
くい、と。
俺の服の裾が、控えめに引かれた。
振り返ると、ピヒラが立っていた。
俺が「どうした?」と尋ねるよりも早く、彼女は、俺の耳元に、そっと唇を寄せた。
そして、俺にだけ聞こえる、ひそやかな声で言った。
「……パパ。もしかしたら、私、あの子を治せるかも」




