第55話 VS鋼鉄のグリフォン
作戦決行前夜。
俺たちの家は、静かな、だが確かな熱気に満ちていた。
それは、決戦を前にした高揚感というより、家族総出で文化祭の準備をしているような、どこか温かい、不思議な一体感だった。
「パパ、できたよ」
リビングのテーブルで、ピヒラが小さな乳鉢をそっと俺の前に差し出した。
中には、月光を浴びてキラキラと輝く、銀色の鱗粉が満たされている。
決戦の要、『宵光花』の鱗粉だ。
彼女は、集めた花を丁寧にすり潰し、その効果を最大限に高める加工を施してくれたらしい。
「すごいな、ピヒラ」
「えへへ。これがあれば、あの硬い鎧も、ふにゃふにゃになるんだよね」
誇らしげに胸を張るピヒラ。
その隣では、ミーシャが広げた地図の上を、小さな肉球で指し示しながら、真剣な顔で報告を続けていた。
「パパ、さっき、森の小鳥さんたちに聞いてきたにゃ。グリフォンさんは、今夜も巣の奥でぐーぐー寝てるって」
彼女の索敵能力は、もはや俺のそれを遥かに凌駕している。
完璧な情報。
これ以上ない追い風だ。
「ありがとうな、ミーシャ。お前は最高のチーフ・ガーディアンだ」
「にゃっふん!」
俺が頭を撫でてやると、ミーシャは尻尾をぴんと立てて、最高に嬉しそうに喉を鳴らした。
そして、最後に。
俺が最終装備の確認をしていると、てちてち、と小さな足音が近づいてきた。
クータルだった。
「ぱぱ、これ、あげる」
そう言って、俺の手に握らされたのは、手のひらにしっくりと収まる、つるりとした丸い小石だった。
その表面には、彼女の小さな指で、一生懸命に描いたであろう、竜の紋様が、おぼつかないながらも輝いている。
「まけないおまもり! くーが魔法を込めておいたから、パパがピンチになったら、思い出してね」
娘からの、最高の贈り物。
俺は、お守りを、そっと胸のポケットにしまい込んだ。
「ああ。これがあれば、パパは絶対に負けねえよ」
俺は三人の娘たちの頭を順番に撫でる。
そうだ。
これは、俺一人の戦いじゃない。
家族全員で挑む、初めての『狩り』なんだ。
「ぱぱが負けそうになったら、くーが助けに行くから、大丈夫だよ」
……今度は大丈夫だ。
たぶん……。
きっと……。
◇◇◇
俺とシグルーン、ソルヴァは夜の闇に紛れて家を出る。
森の入り口には、数人の男たちが息を潜めて待っていた。
先日、ギルドで俺に食って掛かってきたAランクパーティ『竜の牙』の連中だ。
「……本当に、あんたたちだけで行くのか」
リーダーを欠いた赤髪の剣士が、まだ信じられないといった顔で俺に問う。
俺は、昼間のうちにギルドのカーヤを通じて彼らに連絡を取り、万が一の際のバックアップを依頼しておいたのだ。
「ああ。お前たちはいつでも逃げられる距離で待機していてくれるか。出番はないはずだが、念のためだ」
俺は彼らの横を通り過ぎながら、立ち止まらずに、背中を向けたまま言った。
「見てな。お前たちのリーダーの、敵は取ってきてやる」
振り返らなかったから、彼らがどんな顔をしていたかは分からない。
ただ、息を呑む気配だけが、背後から静かに伝わってきた。
◇◇◇
月が、森を銀色に染め上げていた。
風が木々の葉を揺らす音だけが、辺りを支配している。
俺、シグルーン、そしてソルヴァの三人は、音もなく、森を進んでいた。
先頭は、もちろん俺だ。
長年培ってきた斥候としての技術を総動員し、小枝一本踏むことなく、獣道なき道を進んでいく。
俺が右手で、すっ、と停止の合図を送る。
背後の二人も、ぴたりと動きを止めた。
ミーシャが教えてくれた、グリフォンの巣がある岩壁が、月明かりの下にその巨大な姿を現す。
ここから先は、さらに慎重さが求められる。
俺たちはハンドサインだけで意思疎通を図りながら、岩陰を縫うように、ゆっくりと巣へと接近していく。
心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
だが、それは恐怖じゃない。
完璧な作戦が、これから完璧に遂行されることへの、武者震いだ。
やがて、風上にある、作戦決行ポイントの岩棚にたどり着く。
眼下には、グリフォンの巣の入り口が、黒い口をぽっかりと開けていた。
俺は、シグルーンとソルヴァに目配せした。
二人は、こくりと静かに頷き返す。
その瞳には、俺への絶対的な信頼の色が宿っていた。
さあ、ショータイムの始まりだ。
◇◇◇
この作戦の真のクライマックスは、物理的な戦闘じゃない。
この、夜陰に紛れて行われる、沈黙の奇襲。
知略と、家族の連携だけで、絶対的な強者を蹂躙する、この一瞬だ。
「――風よ」
ソルヴァが、囁くように詠唱を始める。
彼女の足元から、魔力で編まれた、目には見えない穏やかな風が巻き起こった。
それは、巣の入り口へと向かう、完璧な風の道筋を描いていく。
「――結界、展開」
シグルーンが、短く告げる。
俺たちの周囲に、音も光もなく、薄い魔力の壁が形成された。
万が一、グリフォンが鱗粉に気づいて暴れ出したとしても、この結界が俺たちを守ってくれるだろう。
準備は、整った。
俺は、ピヒラが作ってくれた『星屑』の入った革袋を、静かに構える。
風の流れ、距離、角度。
全ての要素を、一瞬で計算する。
そして。
「――行け」
俺の手から放たれた革袋が、放物線を描いて宙を舞う。
それは、ソルヴァが作った風の道に乗り、完璧な軌道で、巣の入り口の真上へと到達した。
俺は、腰に下げていたナイフを、音もなく抜き放つ。
狙いは、宙に浮かぶ革袋。
ひゅっ、と。
風を切り裂き、投げ放たれたナイフが、寸分の狂いもなく革袋を切り裂いた。
―――その瞬間、奇跡が起こる。
夜空に、銀色の星屑が、ふわりと舞い上がった。
『宵光花』の鱗粉が、月光を浴びて、ダイヤモンドダストのようにキラキラと輝く。
それは、あまりにも幻想的で、美しい光景だった。
鱗粉のカーテンは、ソルヴァの風に導かれ、まるで生きているかのように、静かに、だが確実に、巣の中へと吸い込まれていく。
直後。
巣の奥から、何かが崩れるような、乾いた音が響き渡った。
パリン……パラパラ……。
眠りながら、無防備に鱗粉を吸い込んだグリフォンの、自慢の鋼鉄の鎧が。
その絶対的な防御力が、音もなく、ただの砂のように脆く崩れ去っていく音だった。
作戦は、成功だ。
俺は、内心で会心の笑みを浮かべた。
◇◇◇
「――グルアアアアアッ!?」
巣から現れたグリフォンは、混乱の極みにあった。
眠っている間に、己の身に何が起きたのか、理解できていない。
誇り高き鋼鉄の鎧は見る影もなく剥がれ落ち、柔らかい肌が、無防備に朝日に晒されている。
ただの、デカい鳥。
俺の言った通りだろう?
「終わりだ」
俺たち三人は、岩陰から一斉に飛び出した。
シグルーンの剣が、閃光のように走り、グリフォンの翼の付け根を正確に切り裂く。
ソルヴァの放った氷の矢が、その動きを完全に封じた。
そして、俺は。
がら空きになった、その心臓めがけて、最後の一歩を踏み出す直前。
俺は左手で、胸のポケットにしまい込んだ、あの丸い小石を、ぎゅっと強く握りしめた。
(―――パパは、絶対に負けねえよ)
娘との約束を胸に、俺は一直線に駆け抜ける。
ザシュッ!
何の抵抗もなく、俺の剣は、その命の源を深く、深く貫いていた。
断末魔の叫びを上げる間もなく、S級魔獣『鋼鉄のグリフォン』は、巨体を揺らし、どしんと地響きを立てて崩れ落ちた。
文字通りの、瞬殺だった。
戦闘の終結を察して、待機場所から駆けつけてきた『竜の牙』のメンバーたちが、その光景を呆然と見つめていた。
「……うそ、だろ……?」
「俺たちのリーダーが、手も足も出なかったあのグリフォンを……一瞬で……?」
「本当に……本当に、俺たちの仇を……」
赤髪の剣士は、その場に膝から崩れ落ち、震える声で呟いた。
俺は剣についた血を、静かに振り払った。
「言ったろ? ただのデカい鳥だってな」
完璧なる、狩りの終わりだった。




