第50話 普通って、そんなに大切なもの?
夜が、明けない。
ベッドの中で何度寝返りを打っただろうか。窓の外はまだ闇に沈んでいる。
シグルーン。
子供が産めないという、彼女の魂の叫びごと、俺は抱きしめたいと思った。
理屈じゃない。ただ、この先の人生を、あいつと一緒に歩んでいきたい。
関係の長さでいえば、誰よりも長い。
ソルヴァ。
兄を失い、偽りの憎しみに心を縛られていた、孤独な少女。
年齢の差はありすぎるし、恋愛感情とは違う。
だが、傷つけたくない。
オーウェンの件もある。
あいつの代わりに、俺がこの子の拠り所になってやらなければならないという、強い責任感があった。
二人とも、大切だ。
だから、選べない。
どちらかを選ぶということは、もう一方を捨てるということだ。
そんなこと、できるはずがねえ。
どうすれば、誰も傷つけずに済むんだろうな……。
答えの出ない問いが、脳内で無限にループする。
俺は、ただ、明けない夜の中で、疲弊していくことしかできなかった。
◇◇◇
翌朝。
俺は台所に立っていた。
トントントン、と。
まな板の上で、人参を刻む音が、やけに虚しく響く。
ただ、手を動かしているだけ。
料理に、心がこもっていない。
そんな俺の背中に、静かな声がかけられた。
「パパ」
振り返ると、ピヒラが立っていた。
一番弟子の彼女は、いつものようにエプロンをきゅっと結び、俺の隣に並んで立つ。
そして、俺の顔を、じっと、真剣な瞳で見上げてきた。
「顔に、元気がないみたい。何か、悩み事?」
その、あまりにも真摯な眼差し。
俺は、思わず言葉に詰まった。
父親として、娘の前で弱音を吐くなんて、格好悪すぎる。
なんでもない、と強がるべきだ。
そう、頭では分かっているのに。
「……どうすれば、誰も傷つけずに済むんだろうな」
ぽつり、と。
俺の口から、弱音がこぼれ落ちていた。
もう、一人で抱え込むのは、限界だったのかもしれない。
ピヒラは、何も言わない。
ただ、静かに、俺の言葉の続きを待っている。
俺は、料理の手を止めると、ぽつり、ぽつりと、昨夜からの苦悩を漏らしてしまった。
シグルーンのこと。ソルヴァのこと。
そして、その間で揺れ動く、自分の不甲斐ない心を。
俺の、あまりにも情けない告白を、ピヒラは、ただ黙って、真剣な顔で聞いていた。
◇◇◇
俺が全てを話し終えると、しばらくの間、沈黙が台所を支配した。
やがて、ピヒラは少しだけ考えるように視線を彷徨わせた後、俺の目をまっすぐに見つめ返してきた。
「パパ。人間のことはあまり詳しくないけど、少しだけ、私の故郷の話をしてもいい?」
その声は、説教じみたものでは、決してなかった。
「……ああ」
俺が頷くと、彼女は、淡々と、だが、どこか懐かしむように語り始めた。
「私のいたエルフの森では、男の人が、とても少なく生まれるの。だから、一人の強い男の人を、何人かの女の人が支え合って、大きな家族を作るのは、とても自然なことだった」
ピヒラは、ゆっくりと言葉をつづける。
「それは、誰か一人が我慢する、っていうものじゃないの。愛する人が増えるのは、喜びが増えること。支えてくれる手が増えるのは、安心が増えること。みんなで、一緒に幸せになるための、昔からの、大切な知恵なんだよ」
彼女は穏やかな口調でつづける。
「パパの想う『好き』っていう気持ちは、一つだけじゃなきゃいけないの? シグルーンさんを想う気持ちも、ソルヴァさんを想う気持ちも、どっちもパパの本当の心から生まれた、温かくて、大切なものじゃないかな」
ピヒラの、あまりにも純粋な言葉。
「どうして、その大切な気持ちを、どちらか一つだけ選んで、もう一つを捨てちゃおうとするの? それは、すごく悲しいことだと思う」
俺は、何も言えない。
そして。
料理の一番弟子であり、俺の『恋愛の師匠』でもある娘は、最後に、その翡翠色の瞳で、俺の魂のど真ん中を、まっすぐに射抜いてきた。
「パパ」
その声は、どこまでも澄んでいて、力強かった。
「どうして、どちらか一人を選ばないと、いけないの?」
―――どうして、どちらか一人を選ばないと、いけないのか。
その、あまりにも根源的な問い。
「え……?」
俺の口から、間抜けな声が漏れる。
「そりゃ、常識的に考えてだな……人間社会では、普通は、ひとりを選ばないといけないんだ」
俺が、かろうじて絞り出した反論。
だが、師匠は、そんな俺の最後の砦を、いとも容易く、粉々に打ち砕いてみせた。
「常識って何? 普通って何?」
彼女は、不思議そうに、ただ純粋に小首をかしげる。
「普通って、そんなに大切なもの? 私も、クータルも、ミーシャも、普通じゃないよ。でも、パパは私たちを家族だって言ってくれた。それじゃ、だめなの?」
常識。
普通。
俺が、これまで揺るぎないものだと信じてきた、世界の土台そのもの。
それが、この小さな娘の、たった一言の問いかけの前で、もろくも崩れ去っていく。
……俺は、いったい、どうすればいいんだ?
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【★あとがき★】
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