第46話 パパは、私の恋愛塾の一番弟子だね
プロポーズに、失敗した。
翌朝の食卓は、まさに氷河期だった。
カチャ、と食器が立てる音だけが、やけに大きく響く。
俺の正面に座るシグルーンは、一度も俺と目を合わせようとしない。
ただ黙々とスープを口に運んでいる。
その横顔は、まるで能面のように、一切の感情を殺していた。
ピヒラも、ミーシャも、そしてクータルでさえ、この異常な空気を敏感に感じ取っているのだろう。
三人とも、しょんぼりと俯き、いつもなら賑やかなはずの食卓が、まるで葬式のように静まり返っている。
なんで、だ……?
俺は、混乱の渦の中にいた。
俺の提案は、完璧だったはずだ。
娘たちのため、そして、職を失ったシグルーンのため。
双方の利益を考慮した、最も合理的で、効率的な解決策。
なのに、なぜ、あいつはあんなに傷ついたような顔をしたんだ?
分からない。
俺には、何一つ、分からなかった。
重苦しい空気に耐えきれず、俺はほとんど味のしないパンを無理やり喉に押し込むと、「……ごちそうさん」とだけ呟き、逃げるように席を立った。
◇◇◇
その日の夕方。
俺は一人、台所で夕食の準備をしていた。
シグルーンは、今日も早々に自室に引きこもってしまった。
ため息しか出ねえ。
トントントン、と人参を刻む。
料理をしているときだけは、頭を真っ白にしていられる。
そんなとき、背後から声をかけられた。
「……パパ」
ピヒラだった。
俺は、振り返らないまま「どうした?」とぶっきらぼうに返す。
「パパ、元気ないから、心配で」
おずおずと、だが、芯のある声。
俺は、まな板の上でナイフを止めると、ぽつり、ぽつりと、昨夜の出来事を語り始めた。
娘にする話じゃないが……。
誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。
「俺は、ただ、あいつと、お前たちのために、一番いい方法を考えたつもりだったんだ」
俺は、昨夜のプロポーズの言葉を、そのままピヒラに伝えた。
『娘たちのため』『君の生活の安定のため』『これは契約だ』『愛情なんていらない』……。
「合理的で、完璧な提案だったはずなんだがな……」
弱音だった。
情けないとは思うが、もう、どうしようもなかった。
俺の話を、ピヒラは黙って、真剣な顔で聞いていた。
やがて、俺が全てを話し終えると、彼女は少しだけ考えるように視線を彷徨わせ、そして、俺の目をまっすぐに見つめ返してきた。
「パパ」
「……なんだ」
「パパの『好き』っていう気持ちが、どこにも入ってないから、シグルーンさんは悲しかったんじゃない?」
核心を、突かれた。
あまりにも純粋で、一点の曇りもない、真実の言葉。
ピヒラは続ける。
その翡翠色の瞳は、俺の心の奥底まで見透かしているようだった。
「私は、恋愛のことはよくわからないけど。ご飯も、心がこもってないと、美味しくない。どんなに良い材料を使っても、どんなに上手に作っても、食べる人のことを想う『心』がなければ、それはただの『エサ』だよ。言葉も、きっと、同じ」
ピヒラの、その言葉。
それは、どんな賢者の言葉よりも、深く、強く、俺の胸に突き刺さった。
俺は、ずっと間違っていたのかもしれない。
効率とか、合理性とか、そんなものばかり追い求めて。
一番、大事なものを、見失っていたんじゃ……。
「ふふ。私はパパの料理の一番弟子だけど、パパは、私の恋愛塾の一番弟子だね」
そう言って、ピヒラは微笑んだ。
◇◇◇
「ねえ、私からも相談していい?」
「ああ、もちろんだ。なんでも相談してくれ」
ようやく父親らしいことが言えたな、と俺は内心で安堵する。
俺の言葉に、ピヒラは少しだけ俯くと、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「あのね。学園で仲良くなったお友達がいるんだけど……その子、寮で暮らしてるの」
「ほう」
「最近、その子の元気がないから、どうしたのって聞いたら……寮でご飯を作ってくれる、優しい寮母さんが病気で倒れちゃったんだって。代わりの人のご飯が、すごく味気なくて……寮のみんな、食欲も元気もなくなっちゃって、しょんぼりしてるって……」
悲しそうに語るピヒラの声。
「私、何かしてあげたいんだけど……でも、私なんかが作っても、喜んでくれるか分からないし……」
自分のことよりも、まず他人を想う。
本当に、優しい子に育ったもんだ。
俺は、自分の悩みが、なんだかちっぽけなものに思えてきた。
「ピヒラ」
俺は、まな板の前に戻ると、トントン、とリズミカルに人参を刻みながら、静かに、だが力強く言った。
「お前の気持ちが、一番大事だ。お前が、心からその子たちを助けてやりたいと思うなら、パパは全力で応援する。お前の料理なら、絶対に、みんなを笑顔にできる」
俺の言葉に、ピヒラはぱっと顔を輝かせた。
「でもな」と俺は釘を刺すのも忘れない。「一度やると決めたら、途中で投げ出すなよ。責任を持って、最後までやり遂げるんだ。もし、お前一人で大変になったら……その時は、俺が徹夜してでも手伝ってやるから」
「……うん!」
力強く頷くピヒラ。
その顔にはもう、迷いの色はない。
◇◇◇
俺が学園側に話を通すと、寮生たちもピヒラの申し出を大歓迎してくれ、話は驚くほどスムーズに進んだ。
そして当日。
寮の巨大な厨房は、朝から戦場のような活気に満ちていた。
ミーシャとクータルが手伝いに名乗りをあげてくれた。
シグルーンも手伝いたそうにしていたが、家事が壊滅的なのでやめさせた。
「ピヒラ、人参の皮むき終わったにゃ!」
「ぴーら、おさら、ふきふきするー!」
小さなシェフは、コックコートの袖を懸命にまくり上げ、的確に指示を飛ばしていく。
その姿は、もうただの少女ではない。仲間を率いる、立派な料理人だ。
俺の仕事は、ひたすらジャガイモの皮を剥くこと。
何十個というジャガイモを、ただ黙々と剥き続ける。
娘の晴れ舞台だ。
父親は、黙って裏方に徹するのが粋ってもんだろう。
やがて、昼時。
厨房に、食欲をそそる最高の香りが満ち満ちる。
本日のメニューは、ピヒラが心を込めて煮込んだ『お日様色の野菜と、とろとろお肉の特製ビーフシチュー』だ。
食堂に集まってきた寮生たちが、期待と不安が入り混じった顔で、次々とシチューを口に運んでいく。
その、瞬間。
静かだった食堂が、一斉に、輝くような笑顔で満たされた。
「おいしい……!」
「なんだこれ! お肉が、口の中でとろける……!」
「温かい……味がする……」
あちこちから、堰を切ったような歓声が上がる。
生徒たちの顔に、みるみるうちに血の気が戻り、活気が生まれていく。
食堂は、あっという間に、たくさんの笑顔と、幸福なざわめきで包まれた。
俺は、厨房の片隅で、山のようなジャガイモの皮に囲まれながら、その光景をただ、じっと見ていた。
理屈じゃない。
効率でもない。
ただ、目の前の人を笑顔にしたい。
その純粋な『心』が、この温かい空間を作り出している。
ピヒラの料理が、どんな言葉よりも雄弁に、たくさんの人の心を温めている。
娘が、俺の知らないところで、こんなにもたくさんの人を幸せにできるまでに、成長していた。
その事実が、父親としての、どうしようもない喜びと誇りとなって、胸いっぱいに広がっていく。
(……そうか。『気持ちを伝える』ってのは、こういうことなのかもしれねえな)
俺はまだ、シグルーンに何と言えばいいのか、その答えを見つけたわけじゃない。
だが、一番弟子の心尽くしの一皿が、そのヒントを、確かに教えてくれた気がした。
俺はピヒラの誇らしい後ろ姿を見つめながら、一人、静かに微笑んだ。
俺も、もう少しだけ、頑張ってみるか。
不器用でも、格好悪くても。
俺なりのやり方で。




