第43話 パパ、シグルーンさんとは、結婚しないの?
昨日の、学園中を巻き込んだ「世紀のカップル誕生」とかいう、とんでもない勘違い騒動。
その熱狂が嘘のような、静かな朝が来た。
いや、静かすぎる。
がらんどうだった頃の、あの孤独な静けさとは違う。
息苦しくて、重たい沈黙が、俺たちの新しい家の食卓を支配していた。
カチャ、と食器が立てる音だけが、やけに大きく響く。
特に、ミーシャの落ち込みようは酷かった。
自慢の猫耳はぺたんと力なく垂れ下がり、元気の象徴である尻尾も、だらりと床に投げ出されている。
時折、俺とシグルーンの顔を交互に、何か言いたげな、潤んだ瞳で窺っては、すぐにぷいっと顔をそむけてしまう。
「……ミーシャ、どうした? 元気ねえな」
俺が声をかけても、返ってきたのは、消え入りそうなか細い声だけだった。
「…………なんでもない、にゃ」
なんでもなくねえだろ、その顔は。
俺がさらに何か言おうとすると、隣に座るシグルーンが、俺の足をテーブルの下でこっそりと蹴ってきた。
やめとけ、という合図らしい。
俺たちは、ただ顔を見合わせて、重いため息をつくしかない。
そんな、まるで葬式のような重苦しい空気を、遠慮なく、真正面からぶち破ったのは、やはりこの家の最終兵器だった。
「みーしゃ、まだきめてないの?」
クータルが、一人だけいつもと変わらない様子で、パンをもしゃもしゃと頬張りながら、慰めるように言った。
「もし、ぱぱと、しぐるーんままが、『りこん?』するなら、くーは、ぱぱについていくよ!」
ぶっふぉぉぉぉっ!!
俺と、俺の正面に座っていたシグルーンが、飲んでいたお茶を、見事なシンクロ率で同時に噴き出した。
「げほっ、ごほっ! く、クータル!? お、お前、今なんて……!」
「りこん? って、きのう、おはなししてたの! ぱぱが、そるゔぁおねーちゃんと、らぶらぶだから、しぐるーんままは、すてられちゃうんだって!」
シグルーンは、顔を真っ赤にして固まっていた。
離婚、とか、捨てられる、とかいう単語よりも、『ママ』と呼ばれたことへの衝撃の方がでかいらしい。
その、クータルのあまりにも無邪気で、残酷な爆弾発言が、引き金になった。
それまで俯いて、必死に何かをこらえていたピヒラの肩が、小さく、ぷるぷると震え始めた。
「……う、っ」
ぽろり。
彼女の大きな翡翠色の瞳から、大粒の涙が、一粒、また一粒と、スープ皿の中に吸い込まれていく。
「ピヒラ!?」
俺が慌てて駆け寄ると、彼女はしゃくり上げながら言った。
「ご、ごめんなさい、パパ……! 私……昨日、見ちゃったの……!」
ピヒラは、涙ながらに語り始めた。
昨日、彼女はミーシャと一緒に、俺の決闘の噂を聞きつけて、こっそりと旧校舎裏まで様子を見に来ていたらしい。
そして、物陰から、一部始終を見てしまっていたのだ。
俺が、泣きじゃくるソルヴァを、優しく抱きしめる、あの瞬間を。
「パパと、シグルーンさんは……夫婦なのに……」
……夫婦!?
俺とこいつが!?
「それなのに、パパが、ソルヴァさんっていう、別の人と……。だから、もう、私たちの家族は、バラバラになっちゃうんだって……! ミーシャも、私も、そう思ったら、怖くて、悲しくて……っ!」
ああ、そうか。
そうだったのか。
こいつらは、俺とシグルーンのことを、本当の夫婦だと思い込んでいたんだ。
そして、俺が、その妻(?)であるシグルーンを捨てて、別の女に走った、と。
だから、この温かい家も、家族も、全部なくなってしまうんじゃないかと、一晩中、不安で眠れなかったんだ。
なんてこった。
俺は、なんて、とんでもない勘違いを、この小さな心にさせていたんだ。
俺は、泣きじゃくるピヒラの隣で、同じように瞳を潤ませているミーシャ、そして、なぜか笑顔のクータルの顔を、順番に見つめた。
「馬鹿野郎」
俺は、不器用な、だが、ありったけの愛情を込めて、言った。
「絶対に、俺たちの家族は、バラバラになんかなったりしねえよ。ソルヴァとも、別にそういう関係じゃねえ。あいつとは、色々あってな。……まあ、仲直りしただけだ」
「ほんと……?」とピヒラ。
「ああ、本当だ。だから、何も心配するな。この家がなくなることも、俺たちがお前たちを置いていくことも、絶対にない。俺がこの家族を守り抜く。約束だ」
俺の、偽らざる本心だった。
ピヒラもミーシャも、安堵の表情を浮かべていた。
嵐は、過ぎ去った。
誤解が解け、家の中にようやく、いつもの温かい空気が戻ってくる。
◇◇◇
ピヒラは、濡れた瞳で俺の顔をじっと見上げると、純粋な、一点の曇りもない声で、尋ねた。
「でも……」
「ん?」
「パパ、シグルーンさんとは、結婚しないの?」
その、あまりにも純粋で、究極の質問。
しん、と。
さっきまでとは比べ物にならない、もっと気まずくて、もっと重たい沈黙が、リビングを支配した。
俺は、言葉に詰まる。
ちらりと、助けを求めるように視線を送るが、視線の先の彼女――シグルーンも、耳まで真っ赤にして、完全に固まっていた。
俺たちの、時が止まったかのような、盛大な動揺。
それを、娘たちが、きょとんとした顔で、ただ、じっと見つめていた。




