第29話 天使のような寝顔と青い花
王都まで、あと数日。
旅もいよいよ終盤に差し掛かり、俺たちの馬車は緑豊かな山道を進んでいた。
荷台からは、娘たちの楽しげな声が絶え間なく聞こえてくる。
隣で手綱を握るシグルーンとの、軽口の応酬もすっかり日常になった。
だが、そんな穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。
ザアァァァ……。
突然、空が暗転し、猛烈な雨が降り始めた。
視界が一気に白く染まり、馬が不安げに嘶く。
「ちっ、なんて雨だ……。少しペースを落とすか」
俺がシグルーンにそう言った、まさにその時だった。
ゴゴゴゴゴゴ……ッ!
地鳴りだ。
山が、泣いている。
腹の底に響く、嫌な振動。
長年の冒険者としての勘が、俺に最大級の警報を鳴らしていた。
「まずい! 全員、衝撃に備えろ!」
俺が叫び終えるのと、前方のカーブの先で、山肌が巨大な口のように開くのは、ほぼ同時だった。
木々が、赤黒い土砂と共に飲み込まれていく。
道が、消える。
俺たちの目の前で、世界が崩れ落ちていく。
崖崩れだ。
◇◇◇
俺は咄嗟に手綱を引き、馬車を急停車させた。
土砂の奔流が、俺たちの数十メートル先で止まる。
だが、安堵したのも束の間。
カーブの先に広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。
街道は巨大な土砂で完全に寸断され、複数の馬車が土砂に埋もれ、あるいは谷底へと転落しかけていた。
「うわああああっ!」
「助けてくれぇ!」
降りしきる雨の中、怪我人の呻き声と、助けを求める人々の悲鳴が、渾然一体となって響き渡る。
俺は、そのあまりに絶望的な光景を前に、立ち尽くしていた。
雨が体を叩き、体温を奪っていく。
だが、それ以上に、心の芯が急速に冷えていくのを感じた。
――やめろ。
――思い出すな。
脳が拒絶しているのに、記憶の蓋は無慈悲にこじ開けられる。
目の前の光景が、あの日の悪夢と重なっていく。
薄暗い古代遺跡。
仲間たちの笑い声。
そして、すべてを飲み込んだ、奈落の闇。
リーダーだったオーウェンの最後の顔。
助けを求めるように俺へと伸ばされた、魔法使いウーナの震える手。
また、俺は、何もできずに、ただ見ているだけなのか?
今の俺は、Cランクのしがない中年冒険者だ。
あの頃のような力はない。
この絶望的な状況を、どうにかできるはずが……。
「ぱぱ……?」
背後から聞こえた、か細い声。
クータルの不安に揺れる声だった。
その一言が、俺を縛り付けていた過去の呪いを、打ち砕いた。
違う……!
あの頃とは違う!
今の俺には……守るべき家族がいる!
そうだ。
俺はもう、独りじゃない。
ピヒラがいる。ミーシャがいる。シグルーンがいる。
そして、俺を「パパ」と呼んでくれる、クータルがいる。
オーウェン……見ててくれ。
今度こそ……俺が、この手で、全員守り抜いてみせる!
脳内のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。
感傷も恐怖も、今は必要ない。
俺の頭は、Aランクパーティ『太陽の槍』で培われた、冷徹な指揮官のものへと完全に変貌していた。
俺は馬車から飛び降りると、腹の底から、ありったけの声で叫んだ。
「全員、俺の指示を聞け!」
悲鳴と混乱に満ちていた現場が、一瞬だけ、しんと静まり返った。
誰もが雨に濡れた俺の姿を、呆然と見つめている。
俺はその一瞬の隙を逃さず、矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「ピヒラ! 薬草の準備だ! 動ける者は負傷者を安全な場所へ! ミーシャ! 子供と女性を優先で探し出せ!」
娘たちが「はいっ!」「にゃっ!」と即座に応じる。
「シグルーン! 魔法で、これ以上崩れないように崖の固定と、俺の援護を頼む!」
「心得た!」
俺たちは視線を交わし、同時に頷いた。
長年連れ添った戦友のように、互いの役割を完全に理解していた。
◇◇◇
救助活動は困難を極めた。
シグルーンの魔法ですら、断続的に続く崩落を完全に抑えることはできず、俺たちは常に二次災害の危険と隣り合わせだった。
とはいえ、ほとんどの避難が完了し、誰もが安堵の息をつきかけた、その時だった。
「あそこ! 女の子が一人、取り残されてるにゃ!」
ミーシャの鋭い声が、雨音を切り裂いた。
全員の視線が、今にも崩れそうな崖の突端に集まる。
そこには、親とはぐれ、恐怖で動けなくなった小さな少女が、一人で立ち尽くしていた。
少女の足元の地面が、大きな音を立てて亀裂を走らせた。もう、もたない。
「ダメだ、あそこまで魔法は届かん! 結界を解いたら、こっちも危ない!」
シグルーンが叫ぶ。
間に合わない。
選択肢は、一つしかねえ……!
「ダンスタン! 無茶だ、よせ!」
シグルーンの制止を振り切り、俺は崩れゆく足場へと、迷わず飛び込んだ。
崩れる地面を駆け抜け、少女の腕を掴む。
「大丈夫だ、しっかり掴まってろ!」
俺は渾身の力で少女の体を抱え上げると、シグルーンたちがいる安全な方へ、力いっぱい放り投げた。
「シグルーン、受け取れェッ!」
少女の体は宙を舞い、シグルーンが風の魔法で優しく受け止める。
だが、俺は。
少女を投げた反動と、足場そのものの完全な崩壊で、もはや踏みとどまることはできなかった。
「ぐっ……!」
俺の体は、なすすべもなく、土砂と共に谷底へと落下していく。
◇◇◇
風を切る音。
急速に遠ざかっていく、娘たちの悲鳴。
スローモーションのように、娘たちの顔が、シグルーンの顔が、脳裏を駆け巡る。
すまねえ……ピヒラ、ミーシャ、シグルーン……そして、クータル……。
だが、不思議と後悔はなかった。
今度こそ、守れたんだ。
パパは、ここまでだ……。
出発前にクータルが見たのは、正夢だったんだな。
俺が、静かに目を瞑った、その瞬間だった。
「―――ぱぱあああああああああっ!!」
クータルの、魂を引き裂くような絶叫が、谷底まで響き渡った。
直後、俺の体を、温かい黄金の光が包み込む。
落下が、ぴたり、と止まった。
俺の背中に、まるで翼が生えたかのような浮遊感。
見えない何かに支えられ、ゆっくりと、崖の上へと引き上げられていく。
呆然と崖の上を見上げると、そこには。
小さな体から、神々しいほどの黄金の光を放ち、そのルビーのような瞳を、涙を流しながらも爛々と輝かせている、俺の娘――クータルの姿があった。
◇◇◇
なんとか崖の上に戻った時には、俺もシグルーンも、そして力を使い果たしたクータルも、泥だらけでその場にへたり込んでいた。
「ぱぱーっ!」
「パパ! よかった……生きてる、にゃ……!」
俺が地面に膝をつくと同時、ピヒラとミーシャが泣きじゃくりながら駆け寄ってきて、俺の体に力いっぱいしがみついてきた。
「無茶だよ、パパ! 本当に、死んじゃうかと思った……!」
「もう、あんなことしないで、にゃ……!」
二人の小さな体の震えが、俺にまで伝わってくる。
ああ、こいつらをこんなに心配させちまったのか。
「……悪かった。もうしねえよ」
俺は二人の頭を優しく撫でてやった。
ふと視線を上げると、シグルーンが腕を組んで立っていた。
その顔は呆れているようにも、怒っているようにも見えたが、俺の目を見て、ふっと息を吐いた。
「本当に……世話の焼ける、馬鹿な男だ……」
その声に、隠しきれない安堵の色が滲んでいる。
俺は娘たちをそっと離すと、ぐったりと地面に座り込んでいる、一番小さな背中へと向かった。
「クータル」
俺の声に、娘は力なく顔を上げた。
そのルビーの瞳には、もう光はない。
俺はその小さな体の前に膝をつくと、真正面から、その瞳を見つめた。
「お前が、パパを助けてくれたんだ。いつもいつも、助けられてばかりだ。本当に……ありがとうな」
俺は、泥も、雨も、何もかも構わずに、その小さな体を、力いっぱい抱きしめた。
温かい。
確かに、この腕の中に、俺の娘がいる。
「俺の、自慢の娘だ」
俺の腕の中で、クータルはこくんと頷いたのが分かった。
そして、安心しきったように、小さな声で呟く。
「うん……ぱぱ、だいすき……」
それを最後に、彼女はすーすーと穏やかな寝息を立て始めた。
やがて到着した衛兵隊と、救助された人々が見たのは、英雄などではない。
ただ、互いを労わるように寄り添う、ボロボロの一家の姿だった。
俺たちが互いの無事を確かめ合っていると、いつの間にか、周りを救助された人々が遠巻きに、だが、畏敬の念のこもった眼差しで取り囲んでいた。
やがて、一人の恰幅のいい商人が、おずおずと俺に近づいてきた。
「あ、あの……。わしは、もうダメかと思った。財産も、この命も、なにもかも……。それを、あんたたちは……。なんとお礼を言ったらいいか……」
その言葉を皮切りに、堰を切ったように、感謝の声が溢れ出す。
「俺もだ! 妻が瓦礫の下敷きになって……それを、あのお嬢ちゃんが必死に手当てしてくれて……!」
「うちの息子は、あの猫のお嬢ちゃんに助けられたんだ! あの速さがなけりゃ、今頃……!」
口々に語られる、感謝の言葉。
俺達は、照れくさいやらなにやらで、ただ頭を下げるしかなかった。
母親に手を引かれた、あの少女がおずおずと近づいてきた。
その小さな手には一輪の青い花が握られている。
少女は、俺の腕の中で眠るクータルの前で立ち止まると、消え入りそうな声で言った。
「あ、あの……ありがとう、ございました……」
そう言って、彼女は持っていた花を、眠っているクータルの胸の上に、そっと置いた。
「この子が、どうしてもお礼を言いたいと……」と母親が涙ながらに続ける。「すみません、この度の事故で荷物が巻き込まれてしまい、大したお礼はできませんが、この花を見つけて……」
クータルは、天使のような寝顔で眠っている。
俺は、その青い花を、そっとクータルに握らせた。
◇◇◇
再び馬車に乗り、山道を抜ける。
雨は、いつの間にか上がっていた。
雲の切れ間から差し込む光の向こうに、俺たちは、それを見た。
地平線の彼方まで続く、巨大な白い城壁。
その内側にひしめく、無数の建物。
そして、夜の帳が下り始めた空に、星のように瞬き始める、温かい灯り。
王都だ。




