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仲間を全員失った元英雄のおっさん(42)、辺境で子育てを始めたら娘たちが最強すぎてスローライフが崩壊する件  作者: 河東むく


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第29話 天使のような寝顔と青い花

 王都まで、あと数日。

 旅もいよいよ終盤に差し掛かり、俺たちの馬車は緑豊かな山道を進んでいた。

 荷台からは、娘たちの楽しげな声が絶え間なく聞こえてくる。

 隣で手綱を握るシグルーンとの、軽口の応酬もすっかり日常になった。


 だが、そんな穏やかな時間は、唐突に終わりを告げる。


 ザアァァァ……。


 突然、空が暗転し、猛烈な雨が降り始めた。

 視界が一気に白く染まり、馬が不安げに嘶く。


「ちっ、なんて雨だ……。少しペースを落とすか」


 俺がシグルーンにそう言った、まさにその時だった。


 ゴゴゴゴゴゴ……ッ!


 地鳴りだ。


 山が、泣いている。

 腹の底に響く、嫌な振動。

 長年の冒険者としての勘が、俺に最大級の警報を鳴らしていた。


「まずい! 全員、衝撃に備えろ!」


 俺が叫び終えるのと、前方のカーブの先で、山肌が巨大な口のように開くのは、ほぼ同時だった。

 木々が、赤黒い土砂と共に飲み込まれていく。

 道が、消える。

 俺たちの目の前で、世界が崩れ落ちていく。


 崖崩れだ。


◇◇◇


 俺は咄嗟に手綱を引き、馬車を急停車させた。

 土砂の奔流が、俺たちの数十メートル先で止まる。


 だが、安堵したのも束の間。

 カーブの先に広がっていたのは、まさに地獄絵図だった。

 街道は巨大な土砂で完全に寸断され、複数の馬車が土砂に埋もれ、あるいは谷底へと転落しかけていた。


「うわああああっ!」

「助けてくれぇ!」


 降りしきる雨の中、怪我人の呻き声と、助けを求める人々の悲鳴が、渾然一体となって響き渡る。


 俺は、そのあまりに絶望的な光景を前に、立ち尽くしていた。

 雨が体を叩き、体温を奪っていく。

 だが、それ以上に、心の芯が急速に冷えていくのを感じた。


 ――やめろ。

 ――思い出すな。


 脳が拒絶しているのに、記憶の蓋は無慈悲にこじ開けられる。

 目の前の光景が、あの日の悪夢と重なっていく。


 薄暗い古代遺跡。

 仲間たちの笑い声。

 そして、すべてを飲み込んだ、奈落の闇。


 リーダーだったオーウェンの最後の顔。

 助けを求めるように俺へと伸ばされた、魔法使いウーナの震える手。


 また、俺は、何もできずに、ただ見ているだけなのか?

 今の俺は、Cランクのしがない中年冒険者だ。

 あの頃のような力はない。


 この絶望的な状況を、どうにかできるはずが……。


「ぱぱ……?」


 背後から聞こえた、か細い声。

 クータルの不安に揺れる声だった。


 その一言が、俺を縛り付けていた過去の呪いを、打ち砕いた。


 違う……!

 あの頃とは違う!

 今の俺には……守るべき家族がいる!


 そうだ。

 俺はもう、独りじゃない。

 ピヒラがいる。ミーシャがいる。シグルーンがいる。

 そして、俺を「パパ」と呼んでくれる、クータルがいる。


 オーウェン……見ててくれ。

 今度こそ……俺が、この手で、全員守り抜いてみせる!


 脳内のスイッチが、カチリと音を立てて切り替わった。

 感傷も恐怖も、今は必要ない。

 俺の頭は、Aランクパーティ『太陽の槍』で培われた、冷徹な指揮官のものへと完全に変貌していた。


 俺は馬車から飛び降りると、腹の底から、ありったけの声で叫んだ。


「全員、俺の指示を聞け!」


 悲鳴と混乱に満ちていた現場が、一瞬だけ、しんと静まり返った。

 誰もが雨に濡れた俺の姿を、呆然と見つめている。


 俺はその一瞬の隙を逃さず、矢継ぎ早に指示を飛ばす。


「ピヒラ! 薬草の準備だ! 動ける者は負傷者を安全な場所へ! ミーシャ! 子供と女性を優先で探し出せ!」


 娘たちが「はいっ!」「にゃっ!」と即座に応じる。


「シグルーン! 魔法で、これ以上崩れないように崖の固定と、俺の援護を頼む!」


「心得た!」


 俺たちは視線を交わし、同時に頷いた。

 長年連れ添った戦友のように、互いの役割を完全に理解していた。


◇◇◇


 救助活動は困難を極めた。

 シグルーンの魔法ですら、断続的に続く崩落を完全に抑えることはできず、俺たちは常に二次災害の危険と隣り合わせだった。


 とはいえ、ほとんどの避難が完了し、誰もが安堵の息をつきかけた、その時だった。


「あそこ! 女の子が一人、取り残されてるにゃ!」


 ミーシャの鋭い声が、雨音を切り裂いた。

 全員の視線が、今にも崩れそうな崖の突端に集まる。

 そこには、親とはぐれ、恐怖で動けなくなった小さな少女が、一人で立ち尽くしていた。


 少女の足元の地面が、大きな音を立てて亀裂を走らせた。もう、もたない。


「ダメだ、あそこまで魔法は届かん! 結界を解いたら、こっちも危ない!」


 シグルーンが叫ぶ。


 間に合わない。


 選択肢は、一つしかねえ……!


「ダンスタン! 無茶だ、よせ!」


 シグルーンの制止を振り切り、俺は崩れゆく足場へと、迷わず飛び込んだ。

 崩れる地面を駆け抜け、少女の腕を掴む。


「大丈夫だ、しっかり掴まってろ!」


 俺は渾身の力で少女の体を抱え上げると、シグルーンたちがいる安全な方へ、力いっぱい放り投げた。


「シグルーン、受け取れェッ!」


 少女の体は宙を舞い、シグルーンが風の魔法で優しく受け止める。


 だが、俺は。


 少女を投げた反動と、足場そのものの完全な崩壊で、もはや踏みとどまることはできなかった。


「ぐっ……!」


 俺の体は、なすすべもなく、土砂と共に谷底へと落下していく。


◇◇◇


 風を切る音。

 急速に遠ざかっていく、娘たちの悲鳴。

 スローモーションのように、娘たちの顔が、シグルーンの顔が、脳裏を駆け巡る。


 すまねえ……ピヒラ、ミーシャ、シグルーン……そして、クータル……。


 だが、不思議と後悔はなかった。


 今度こそ、守れたんだ。


 パパは、ここまでだ……。


 出発前にクータルが見たのは、正夢だったんだな。


 俺が、静かに目を瞑った、その瞬間だった。


「―――ぱぱあああああああああっ!!」


 クータルの、魂を引き裂くような絶叫が、谷底まで響き渡った。


 直後、俺の体を、温かい黄金の光が包み込む。

 落下が、ぴたり、と止まった。


 俺の背中に、まるで翼が生えたかのような浮遊感。

 見えない何かに支えられ、ゆっくりと、崖の上へと引き上げられていく。

 呆然と崖の上を見上げると、そこには。


 小さな体から、神々しいほどの黄金の光を放ち、そのルビーのような瞳を、涙を流しながらも爛々と輝かせている、俺の娘――クータルの姿があった。


◇◇◇


 なんとか崖の上に戻った時には、俺もシグルーンも、そして力を使い果たしたクータルも、泥だらけでその場にへたり込んでいた。


「ぱぱーっ!」

「パパ! よかった……生きてる、にゃ……!」


 俺が地面に膝をつくと同時、ピヒラとミーシャが泣きじゃくりながら駆け寄ってきて、俺の体に力いっぱいしがみついてきた。


「無茶だよ、パパ! 本当に、死んじゃうかと思った……!」

「もう、あんなことしないで、にゃ……!」


 二人の小さな体の震えが、俺にまで伝わってくる。

 ああ、こいつらをこんなに心配させちまったのか。


「……悪かった。もうしねえよ」


 俺は二人の頭を優しく撫でてやった。


 ふと視線を上げると、シグルーンが腕を組んで立っていた。

 その顔は呆れているようにも、怒っているようにも見えたが、俺の目を見て、ふっと息を吐いた。


「本当に……世話の焼ける、馬鹿な男だ……」


 その声に、隠しきれない安堵の色が滲んでいる。


 俺は娘たちをそっと離すと、ぐったりと地面に座り込んでいる、一番小さな背中へと向かった。


「クータル」


 俺の声に、娘は力なく顔を上げた。

 そのルビーの瞳には、もう光はない。

 俺はその小さな体の前に膝をつくと、真正面から、その瞳を見つめた。


「お前が、パパを助けてくれたんだ。いつもいつも、助けられてばかりだ。本当に……ありがとうな」


 俺は、泥も、雨も、何もかも構わずに、その小さな体を、力いっぱい抱きしめた。

 温かい。

 確かに、この腕の中に、俺の娘がいる。


「俺の、自慢の娘だ」


 俺の腕の中で、クータルはこくんと頷いたのが分かった。

 そして、安心しきったように、小さな声で呟く。


「うん……ぱぱ、だいすき……」


 それを最後に、彼女はすーすーと穏やかな寝息を立て始めた。


 やがて到着した衛兵隊と、救助された人々が見たのは、英雄などではない。

 ただ、互いを労わるように寄り添う、ボロボロの一家の姿だった。


 俺たちが互いの無事を確かめ合っていると、いつの間にか、周りを救助された人々が遠巻きに、だが、畏敬の念のこもった眼差しで取り囲んでいた。


 やがて、一人の恰幅のいい商人が、おずおずと俺に近づいてきた。


「あ、あの……。わしは、もうダメかと思った。財産も、この命も、なにもかも……。それを、あんたたちは……。なんとお礼を言ったらいいか……」


 その言葉を皮切りに、堰を切ったように、感謝の声が溢れ出す。


「俺もだ! 妻が瓦礫の下敷きになって……それを、あのお嬢ちゃんが必死に手当てしてくれて……!」

「うちの息子は、あの猫のお嬢ちゃんに助けられたんだ! あの速さがなけりゃ、今頃……!」


 口々に語られる、感謝の言葉。


 俺達は、照れくさいやらなにやらで、ただ頭を下げるしかなかった。


 母親に手を引かれた、あの少女がおずおずと近づいてきた。

 その小さな手には一輪の青い花が握られている。

 少女は、俺の腕の中で眠るクータルの前で立ち止まると、消え入りそうな声で言った。


「あ、あの……ありがとう、ございました……」


 そう言って、彼女は持っていた花を、眠っているクータルの胸の上に、そっと置いた。


「この子が、どうしてもお礼を言いたいと……」と母親が涙ながらに続ける。「すみません、この度の事故で荷物が巻き込まれてしまい、大したお礼はできませんが、この花を見つけて……」


 クータルは、天使のような寝顔で眠っている。

 俺は、その青い花を、そっとクータルに握らせた。


◇◇◇


 再び馬車に乗り、山道を抜ける。

 雨は、いつの間にか上がっていた。


 雲の切れ間から差し込む光の向こうに、俺たちは、それを見た。


 地平線の彼方まで続く、巨大な白い城壁。

 その内側にひしめく、無数の建物。

 そして、夜の帳が下り始めた空に、星のように瞬き始める、温かい灯り。


 王都だ。

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