第28話 カレー
旅を始めて、数日が過ぎた。
ウィッカーデイルの森を抜け、緩やかな丘陵地帯を越えると。
眼下に、これまでの村とは比べ物にならないほど大きな街並みが広がっていた。
街道が交わる結節点。
活気のある、大きな宿場町だ。
「うわぁ……!」
「おっきい……!」
「人がいっぱいだにゃ!」
馬車の窓から顔を覗かせた娘たちが、一斉に歓声を上げる。
様々な人種が行き交う喧騒、ずらりと並んだ露店の数々。
そして、これまで嗅いだことのないような、異国の香辛料の匂い。
その全てが、初めて本格的な旅に出た娘たちの五感を刺激しているのが分かった。
「よし、今日はここに泊まるぞ。まずは腹ごしらえだ」
俺がそう言って馬車を宿屋の馬小屋に入れると、娘たちは待ってましたとばかりに飛び出していく。
昼食のため、活気のある通りを歩きながら食堂を探す。
肉を焼く香ばしい匂い。
パンが焼ける甘い香り。
その中で、ミーシャがぴたりと足を止めた。
「パパ、なんだか、すごくいい匂いがするにゃ!」
くんくん、と自慢の鼻をひくつかせ、ミーシャが指さす先。
そこには、少し異国風の、赤を基調とした派手な装飾が施された、一軒の食堂があった。
店先には、見たこともないようなスパイスがずらりと並べられている。
中からは陽気な音楽と、食欲をそそる不思議な香りが漂ってくる。
「よし、今日の昼飯はここに決まりだ」
俺たちは、その異国情緒あふれる食堂の扉を、期待に胸を膨らませて開いた。
◇◇◇
店の中は、外観に負けず劣らず活気に満ちていた。
屈強な冒険者たちが豪快に肉にかぶりつき、旅の商人たちが大きな声で談笑している。
俺たちが少し場違いな雰囲気を感じて戸惑っていると、店の奥から人の良さそうな、恰幅のいい男が出てきた。
「へい、いらっしゃい! 空いてる席へどうぞ!」
褐色の肌に、ターバンを巻いた、陽気な店主。
どうやら、東方の国から来た人間のようだ。
俺たちは壁際のテーブル席に腰を下ろし、メニューに目を通す。
そこには、シチューやローストといった見慣れた料理に混じって、『カレー』という、聞き慣れない名前の料理があった。
「おやじさん、この『カレー』ってのは、どんな料理なんだ?」
俺が尋ねると、店主はニカッと白い歯を見せて笑った。
「おお、旦那、それに目をつけたかい! こいつは俺の故郷の料理でね。たくさんのスパイスを煮込んで作る、自慢の煮込み料理さ。少し辛いが、一度食ったら病みつきになること間違いなしだよ!」
スパイスをたくさん使った、煮込み料理。
その言葉に、一番弟子……ピヒラの目が、きらりと輝いたのを俺は見逃さなかった。
「よし、決めた。おやじさん、この『カレー』を五つ。一つは子供用に、辛さを控えめにしてくれるか?」
「あいよ、任せときな!」
やがて、湯気の立つ皿が五つ、俺たちのテーブルに運ばれてきた。
皿の上には、白い飯の山。
そして、その横には、茶色く、とろりとした、今まで見たこともないソースがたっぷりとかかっている。
鼻腔をくすぐる、複雑で、食欲をそそるスパイスの香り。
「うわー……」
「なんだか、すごい色だにゃ……これ、トイレ……」
「こら」それはだめだ。
娘たちが、恐る恐る、といった様子で皿を覗き込んでいる。
俺も、ごくりと喉を鳴らし、スプーンでソースと飯をすくって、一口、口に運んだ。
その、瞬間だった。
「―――っ!?」
なんだ、こりゃ!?
口の中に、衝撃が走る。
ピリリとした辛さ。
その奥に、野菜の甘み、肉の旨味、そして、何種類ものスパイスが織りなす、複雑で、奥深い香りの層が、波のように押し寄せてくる。
うまい。
うまい、なんて陳腐な言葉じゃ足りねえ。
脳天を、未知の味覚で殴られたような、とんでもない衝撃だった。
◇◇◇
俺の驚愕をよそに、娘たちも、おそるおそるカレーを口に運び始めていた。
「からーい! でも、おいしー!」
クータルは、はふはふと口の中を冷ましながらも、スプーンを止める気配がない。
甘口にしておいたが、それでも辛いらしい。
水をがぶ飲みしては、また一口、と夢中でカレーを頬張っている。
ミーシャも、最初は警戒していたが、一口食べると目を真ん丸くして、あとは無言でかき込んでいた。
猫舌のはずなんだが、そんなことも忘れているらしい。
そして、俺の隣に座るシグルーンも、最初は警戒するように、スプーンでソースの粘度を確かめるようにしていたが、やがて意を決したように一口、口に運んだ。
その瞬間、彼女の怜悧な顔立ちが、わずかに驚きで見開かれる。
「……なるほど。これは……」
彼女は、もう一口、今度はじっくりと味わうように食べると、静かに、だが確かな感嘆の声を漏らした。
「辛さの奥にある、深いコクと香り……。様々な素材が、互いの長所を殺さずに、一つの料理として昇華されている。……見事だな。これは、美味しい」
まるで食事の評論家だ。
普段、感情をあまり表に出さない彼女からの、最大級の賛辞だった。
だが、誰よりも、この未知の料理に衝撃を受けていたのは、ピヒラだった。
彼女は、カレーを一口食べた瞬間、固まっていた。
「こ、これは……!?」
やがて、我に返った彼女は、わなわなと震える手で、もう一度、ゆっくりとカレーを口に運んだ。
そして、目を閉じ、その味を確かめるように、何度も、何度も咀嚼する。
「甘い……辛い……酸っぱい……。それに、ハーブの爽やかな香りと……。色々な味がするのに、全部が喧嘩しないで、一つにまとまってる……」
ぶつぶつと、夢中で分析を始めるピヒラ。
その声は、興奮で上ずっている。
「私が知っている料理と、全然違う……! 私が作っていたスープやシチューは、素材の味を『引き出す』だけのものだった。でも、これは……違う。スパイスとスパイスを『掛け合わせる』ことで、元の素材にはなかった、全く新しい味を生み出してる……! すごい……! こんな料理が、この世にあったなんて……!」
料理人として、自分の世界の狭さを、そして、まだ見ぬ世界の広大さを、彼女は今、この一皿のカレーから痛感しているんだ。
その横顔は、絶望じゃない。
新たな扉を見つけた、探求者の喜びに満ち溢れていた。
興奮で頬を上気させ、目をキラキラと輝かせている。
その姿を見て、俺は、王都に来るという決断が、間違いじゃなかったと、改めて確信した。
旅をした経験だけでも、皆は大きく成長するだろう。
◇◇◇
食後。
俺たちが会計を済ませていると、ピヒラが、意を決したように店主の元へと駆け寄った。
「あ、あの! 店長さん!」
「ん? なんだい、お嬢ちゃん」
「このカレーに使われているスパイスのこと、教えてください! この、鼻に抜けるような爽やかな香りは……? この、後から来る深い辛さの正体は……?」
矢継ぎ早に、だが、真剣な眼差しで質問を浴びせるピヒラ。
その気迫に、陽気な店主も少しだけたじろいでいた。
だが、彼女の瞳に宿る、純粋な料理への探求心を感じ取ったのだろう。
店主は、にやりと笑うと、秘密を教えるように声を潜めた。
「へっへっへ。こいつは企業秘密でね。……まあ、お嬢ちゃんのその熱意に免じて、少しだけな」
店主は、ピヒラを厨房の入り口まで手招きし、棚に並んだスパイスの瓶を指さしながら、一つ一つ丁寧に説明を始めた。
店を出た後。
興奮冷めやらぬといった様子のピヒラが、俺の前に、とん、と立った。
そして、俺の目をまっすぐに見つめ、キラキラした瞳で、力強く宣言した。
「パパ、私、決めました」
その声には、一点の迷いもない。
「私も、いつかこんなふうに、食べたことのない味で、人を笑顔にできる料理を作りたいです! 王都へ行ったら、もっとたくさんの国の料理を、スパイスのことを、勉強します!」
ああ、そうか。
こいつの夢が、また一つ、大きく、具体的になったんだ。
ただ「みんなを笑顔にする料理」から、「まだ誰も知らない味で、世界中の人を笑顔にする料理」へ。
「おう。お前なら、きっとできる」
俺は、そう言って、一番弟子の頭を、わしわしと撫でてやった。




