第26話 ずうっといっしょ
いよいよ明日、俺たちはこのウィッカーデイルを離れ、王都へと旅立つ。
全ての準備は整った。
後は、この家で過ごす最後の一日を、いつも通りに、いや、いつも以上に温かく過ごすだけだ。
……と思っていたんだが。
「いやああああっ! ぱぱーっ!」
静かな朝の空気を、甲高い、悲鳴が引き裂く。
声の主は、クータルだ。
俺はベッドから転がり落ちるように飛び起きると、娘たちが眠る部屋へと駆け込んだ。
ドアを勢いよく開けると、クータルがベッドの上で体を起こし、わんわんと大声を上げて泣きじゃくっていた。
「どうした、クータル!」
俺が駆け寄ってその小さな体を抱きしめる。
クータルは俺の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら叫んだ。
「ぱぱが、いなくなっちゃうー!」
その悲痛な叫びに、俺は言葉を失う。
……どうやら夢を見たらしい。
環境が変わることに対する不安から、悪い夢を見たのかもしれない。
ただの悪夢。
そう言ってやりたい。
だが、この子にとって『夢』という概念は、まだ曖意模糊としたものなのだろう。
「ぱぱ、死んじゃいやー! どこにもいかないでー!」
俺の服をぎゅうっと掴み、俺が本当に消えてしまわないように、必死にしがみついてくる。
その小さな体の震えが、俺にまで伝わってきた。
「大丈夫だ、クータル。俺はここにいる。どこにも行かない」
俺は彼女の背中を優しく、何度も何度も撫でてやる。
◇◇◇
ピヒラとミーシャ、それに騒ぎを聞きつけたシグルーンも心配そうにしていた。
「……すまん、みんな。少し、二人で散歩してくる」
俺はそう言うと、泣きじゃくるクータルを抱きかかえたまま、家を出た。
ひんやりとした早朝の空気が、火照った俺の頬を撫でる。
どこへ行く、なんて決めていたわけじゃない。
だが、俺の足は、まるで何かに引き寄せられるように、自然と森の方角へと向いていた。
向かう先は、ウィッカーデイル南の森。
かつて薬草採取の依頼で訪れた、何の変哲もない森。
そして、俺の止まっていた人生が、再び動き始めた場所。
俺が、この腕の中の宝物と出会った、俺たちの『始まりの場所』だ。
俺はクータルの背中を優しく叩きながら、語りかける。
「大丈夫だ、クータル。パパは、お前を置いてどこにも行かない。絶対にだ」
俺の腕の中で、クータルのしゃくり上げる声が、少しだけ小さくなった気がした。
「本当? ずうっといっしょ?」
「ああ」
俺は、いつか訪れるであろう別れを、ぼんやりと想像した。
クータルの種族は、人間とどれくらい寿命が違うのだろう。
年齢的なことを考えても、おそらくは俺のほうが早く亡くなるだろう。
俺は、この子の成長する姿を、いつまで見ていられるだろうか……。
そんなことを考えると、切なくなる。
やがて、俺たちは森の奥深く、ぽっかりと開けた小さな広場にたどり着く。
苔の絨毯に覆われた、神聖さすら感じる、静かな場所。
俺が、あの日、クータルの卵を拾った場所だ。
◇◇◇
俺は切り株に腰を下ろし、クータルを自分の膝の上に、向かい合うように座らせた。
そのルビーみたいな瞳は、まだ涙で濡れている。
「クータル」
俺は、ずっと心の奥底にあった、答えの出ない問いを、静かに口にした。
「お前は、どこから来たんだ?」
俺の問いかけに、クータルは不思議そうに、ぱちくりと瞬きをした。
そして、濡れた瞳でじっと俺の顔を見つめ返すと、ふるふると、小さく首を横に振る。
「わかんない」
その、あまりにも純粋な一言。
「でもね、ぱぱ」
彼女は、その小さな両手で、俺のごつごつした頬を、優しく包み込んだ。
「くーのぱぱは、ぱぱだけ」
ああ、そうか。
こいつにとって、そんなことはどうでもいいことなんだ。
どこから来たとか、本当の親が誰かなんて、関係ない。
俺が、こいつの『パパ』で、こいつが、俺の『娘』。
ただ、それだけが、こいつにとっての世界であり、真実なんだ。
「……そうだな。俺が、お前のパパだ」
込み上げてくる熱いものをこらえ、俺は彼女を力いっぱい抱きしめた。
しばらくして、腕の中で落ち着きを取り戻したクータルが、ふと顔を上げた。
その顔にはもう、涙の跡はない。
いつもの、天真爛漫な笑顔が戻っていた。
「ねー、ぱぱ!」
「ん?」
「おうとで、くーがおひめさまになったらね、」
彼女は、とんでもなく素晴らしいことを思いついた、という顔で、目をキラキラと輝かせる。
「ぱぱが、おうじさまになって、くーとけっこんするの!」
その、あまりにも無邪気な願い。
「悪いな、クータル。パパは、王子様にはなれないんだ」
父親だからな。
いつか、クータルが大きくなって、自分で王子様を見つけなければならない。
できれば、心の底から愛せる人間を見つけてほしいものだ。
……まあ、そいつがどんな奴か知らんが、俺が認めなきゃ、絶対に結婚なんてさせねえけどな。
◇◇◇
帰り道。
すっかり元気を取り戻したクータルは、俺の手をぎゅっと握りしめ、ご機嫌に鼻歌を歌っている。
その姿を見ていたら、俺も自然と笑みがこぼれた。
「なあ、クータル」
「なあに?」
「今夜は、このウィッカーデイルで過ごす、最後の晩餐だ。何か、食べたいものはあるか? パパが、何でも作ってやるぞ」
俺の言葉に、クータルはぴたりと足を止め、俺の顔をキラキラした瞳で見上げた。
そして、一秒も迷うことなく、満面の笑みで即答した。
「ぱぱの、かるぼなーら!」
そのリクエストに、俺は思わず吹き出しそうになる。
もっと、肉だとか、豪華な料理を言うかと思ったんだが。
こいつにとっての最高のご馳走は、俺が作る、あの素朴なパスタらしい。
「よし、分かった」
家に帰り着くと、心配そうに待っていたピヒラ、ミーシャ、そしてシグルーンに、俺は高らかに宣言した。
「よし、お前ら、今夜はパーティーだ! 王都への旅立ちを祝して、俺が腕によりをかけて、最高のカルボナーラを作ってやる!」
俺の言葉に、ピヒラとミーシャが「わーい!」と歓声を上げる。
シグルーンも、その口元には確かな笑みが浮かんでいた。
俺はシャツの袖をまくり、台所に立つ。
まずは厚切りの塩漬け豚肉をフライパンでじっくりと炒める。
ジュウッ、と脂が溶け出す心地よい音。
すぐに、スライスしたニンニクの香ばしい匂いが加わり、台所が幸せな香りで満たされていく。
ボウルの中では、卵黄と、削ったチーズ、粗挽きの黒胡椒が出番を待っている。
茹でたてのパスタを、湯切りもそこそこにフライパンへ。
豚の旨味が染み出たオイルと手早く和え、火から下ろす。
間髪入れずに、ボウルのソースを回してかけた。
パスタの余熱が、卵とチーズを絶妙なクリーム状へと変えていく。
艶やかなソースが、パスタの一本一本にねっとりと絡みついたら、完成の合図だ。
俺は出来立てのカルボナーラを、五つの皿に手早く盛り付ける。
「よし、できたぞ! ウィッカーデイル最後の晩餐だ! 冷めないうちに食え!」
湯気の立つ皿がテーブルに並ぶと、娘たちの目が、一斉にキラキラと輝いた。
「「「いただきまーす!」」」
元気な声が、家に響く。
「んんー! おいしーい! ぱぱのぱすた、せかいいちー!」
クータルが、口の周りをソースだらけにしながら、満面の笑みで叫んだ。
「にゃっふん! この、かりかりお肉と、くりーみぃなのが、たまらないにゃ!」
ミーシャも、目を細めて夢中で頬張っている。
そして、ピヒラは。
一口、また一口と、味わうようにゆっくりとパスタを口に運ぶと、尊敬の眼差しで、じっと俺の手元を見つめてきた。
「パパ……すごいです。火の通し方が完璧で、卵が少しも固まっていないのに、ソースは濃厚で……。私も、いつかこんなふうに……」
目を輝かせる一番弟子に、俺は「まだまだ修行が足りねえな」と、照れ隠しにぶっきらぼうに返した。
ふと見ると、シグルーンも、普段の澄ました顔はどこへやら、無言で、だが明らかに満足そうな顔でフォークを進めている。
やがて、全員の皿が綺麗に空になる。
クータルが、こてん、と俺の肩に頭を乗せてきた。
「ぱぱ、ありがとう。こわい夢みたけど、ぱぱのかるぼなーらたべたら、ぜんぶへいきになった!」
「私も……最高の晩餐でした。ごちそうさまです、パパ」
「ピヒラのごはんも美味しいけど、パパのごはん、やっぱり最高だにゃ!」
娘たちの、真っ直ぐな感謝の言葉。
その一言一言が、俺の心の、一番温かい場所にじんわりと染み渡っていく。
「……おう。たくさん食ったな」
込み上げてくる熱いものを誤魔化すように、俺は娘たちの頭を、順番に、優しく撫でてやった。
どうか、この笑顔が、この先もずっと続きますように。
どうか、俺たちの未来が、温かくて優しいものでありますように。
俺は、心からそう願った。




