第19話 亜麻色の髪の戦士
ブルーム男爵の馬車が去った後、俺は家の前で腕を組んだ。
まあ、面倒なことになったのは事実だな。
だが、絶望ってほどでもねえ。
そこらのチンピラが来たところで、返り討ちにできる自信はあった。
貴族が相手ってのが少し厄介だが……まあ、なんとかなるだろ。
俺は娘たちの頭をわしわしと撫でる。
「大丈夫だ。パパに任せとけ」
不安そうな顔をしていたピヒラとミーシャも、俺の呑気な笑顔を見て、少しだけ表情を和らげた。
「……うん」
「パパ、がんばって、にゃ」
よしよし。
とはいえ、一応、筋だけは通しておくか。
後で何か言われるのも面倒だしな。
「すまん、ちょっとギルドまで顔出してくる。用心のために、な」
俺はそう言うと、大して気負うでもなく、冒険者ギルドへと足を向けた。
シグルーンに報告くらいはしておいてやるか、という、そんな軽い気持ちだった。
◇◇◇
「――てなわけで、ブルーム男爵とかいうのが家に来てな。断ったら、なんか脅し文句みたいなのを残して帰って行ったぜ。一応、報告までだ」
ギルド支部長室。
俺はソファにどっかりと腰掛け、足を組みながら、まるで昨日の夕飯の話でもするかのような気楽さで、シグルーンに事の経緯を伝えた。
俺としては、やるべきことはやった、という気分だったんだが。
俺の話を聞き終えたシグルーンは、しばらく黙って俺の顔を睨みつけていた。
そして、その眉間の皺が、じわじわと深くなっていく。
「……貴様」
地を這うような、低い声。
「本気で言っているのか? その、ふざけた態度はなんだ」
「ん? いや、だから面倒事が起きそうだから、事前に報告しに来てやったんだろ。感謝してほしいくらいだぜ」
俺がそう言って肩をすくめた瞬間だった。
「この大馬鹿者がァッ!」
怒声と共に、シグルーンが机をバンッ! と叩いて立ち上がった。
「貴族を舐めるな! あのブルーム男爵がどれだけ強欲で、執念深く、そして残忍な手を使う男か、貴様は何も分かっていない! これは貴様個人の問題じゃない。奴が本気で動き出せば、この街の経済や治安にも影響が出るんだぞ! その程度のことも分からんのか!」
鬼の形相でまくしたてるシグルーン。
その剣幕に、俺は思わずたじろいだ。
うーん、ちょっと考えが甘かったか。
「貴様のその甘い見通しが、いつかお前自身と……その大事な娘たちを、取り返しのつかない状況に追い込むことになるんだぞ! それでもいいのか!」
娘たち、という言葉に、俺の心臓がどきり、と跳ねた。
……確かに、それは、まずい。
◇◇◇
俺がぐうの音も出ずに黙り込むと、シグルーンはふぅ、と大きく息を吐いて、椅子に座り直した。
だが、その目は依然として厳しいままだ。
「……言っておくが、ギルドは表立っては動けん。これは決定事項だ」
「まあ、そうだろうなとは思ってたさ」
俺がやれやれと首を振ると、シグルーンは「分かっているなら、その軽薄な態度を改めろ!」と、もう一度釘を刺してきた。
まったく、口うるさい女だ。
「……だが」
彼女は少しだけ視線を逸らすと、ぼそりと言葉を続けた。
「私個人として、打てる手がないわけでもない。……少し、考えさせてくれ」
「無理するなよ。お前にも立場ってものがあるだろう」
「とにかく、油断だけはするな。いいな、絶対にだ」
そう言って、彼女は俺を部屋から追い出した。
やれやれ、大げさな奴だ。
◇◇◇
家に帰った俺は、シグルーンの剣幕に少しだけ反省しつつも、まあ大丈夫だろう、という楽観的な考えを捨てきれずにいた。
だが、用心するに越したことはない。
俺は念のため、家の周囲に簡単な罠をいくつか仕掛けておくことにした。
その夜。
俺の甘い見通しは、完全に打ち砕かれることになる。
闇に紛れて現れたのは、ただのチンピラじゃない。
統率の取れた動き、無駄のない連携。
ブルーム男爵が送り込んできた、プロの傭兵団だった。
「ちっ、思ったより歯ごたえがあるな!」
俺は仕掛けた罠と地の利を活かし、奮戦した。
さすがに元Aランクだ。
序盤は互角以上に渡り合い、数人を戦闘不能に追い込んでやった。
このまま押し切れるか、と思った矢先だった。
「――魔術支援、入るぞ!」
詠唱の声。
まずい!
地面から突き出した土の槍が、俺の動きを封じる。
その一瞬の隙を、敵のリーダー格である大男は見逃さなかった。
「終わりだ、おっさん!」
大上段から振り下ろされる、巨大な戦斧。
剣で受け止めはしたが、凄まじい衝撃に腕が痺れ、大きく吹き飛ばされる。
壁に叩きつけられ、肺から空気が押し出された。
「ぐっ……はっ……!」
体勢を立て直せない。
傭兵たちが、じりじりと包囲網を狭めてくる。
まずい。
これは、本気でまずい流れだ。
「さあ、お嬢ちゃんたち。お迎えの時間だぜぇ?」
一人の傭兵が、娘たちが隠れる物置の扉に、にやにや笑いながら近づいていく。
――くそったれがァッ!
痺れる腕に無理やり力を込め、立ち上がろうとした、その瞬間だった。
◇◇◇
パリン。
俺の背後にあった窓ガラスが、音もなく砕け散る。
月明かりを背に、一人の剣士が静かに着地した。
顔の上半分を覆う、冷たい輝きを放つ銀の仮面。
風に流れる、亜麻色の髪。
その人物は、何も語らない。
ただ、その手に握られた細身の剣を、すっと構えた。
「な、何者だてめぇ!」
「名乗るほどの者ではない」と女の声がした。
傭兵の一人が、動揺しながら斬りかかる。
だが、その大振りの一撃は、空を切った。
仮面の剣士の姿が、ふっと霞む。
次の瞬間には、傭兵の背後に回り込んでいた。
ひらりと翻ったマントの裾から、閃光が一筋、走る。
「……え?」
傭兵は、何が起きたのかも理解できぬまま、その場に崩れ落ちた。
圧倒的。
戦いじゃない。これは、一方的な蹂躙だ。
流れるような剣技で、屈強な傭兵たちが、まるで枯れ葉のように舞っていく。
「ば、化け物め……!」
リーダー格の大男が、恐怖に顔を引きつらせる。
そのあまりに洗練された、どこか見覚えのある剣の動きに、俺は言葉を失い、ただ目の前の光景を呆然と見つめることしかできなかった。