第18話 覚悟
ある日の昼下がり。
俺はのんびりと日向ぼっこを決め込んでいた。
隣では、ミーシャが気持ちよさそうに丸くなり、すーすーと寝息を立てている。
クータルは、畑の隅で泥だらけになりながら、何か新しい『おままごと』に夢中だ。
台所からは、ト、ト、ト……と、心地よい包丁の音が聞こえてくる。
ピヒラが、夕食の仕込みをしているんだ。
あの日、「パパに料理を教えてほしい」と言ってから、彼女の料理への情熱は凄まじいものがあった。
「パパ! この人参の切り方、見てください!」
時々、ぴょこりと顔を出しては、自分の仕事ぶりを報告してくる。
その姿が、健気でどうしようもなく愛おしい。
そんな、ありふれた、かけがえのない日常。
俺はふと、ずっと気になっていたことを、ピヒラに尋ねてみることにした。
「ピヒラ」
「はい、パパ。なんでしょう?」
「嫌なら言わなくてもいい。……お前の故郷の森のこと、聞いてもいいか?」
俺の言葉に、ピヒラの包丁を動かす手が、ぴたりと止まった。
まずったか、と思ったが、もう遅い。
「……どうして、急に?」
「いや、なんとなくだ。お前がよければでいいんだ」
しばらくの沈黙。
やがて、ピヒラは包丁を置くと、ゆっくりと語り始めた。
「私の森は……とても、静かで、綺麗な場所でした。でも、ある日突然、悪い人たちが……森を襲ったんです」
声が、震えている。
「父様と母様が、私を庇って……。私は、抵抗するのをやめました。私が捕まれば、父様たちは助かるかもしれないって……。でも、二人は倒れたまま動かなくて……その後どうなったか、私には……」
ぽろり、と大粒の涙が、まな板の上に落ちた。
彼女が肌身離さず持っていたあの種の袋だけが、両親との最後の繋がりだったんだ。
「故郷の森に、帰りたいとは思わないのか?」
「……帰りたい。でも、もう、きっと……。それに、あの森にはもう、私の家族はいないから」
ピヒラは涙を拭うと、俺の方を振り向いて、ふわりと微笑んだ。
「いつか、一緒に探してもらえますか?」
「ああ。当たり前だ」
胸が、締め付けられる。
こいつらの過去も、涙も、全部背負って生きていく。
それが、俺の覚悟だ。
そう、改めて心に誓った、まさにその時だった。
カポ、カポ、カポ……。
家の前の道から、不釣り合いな蹄の音が聞こえてきた。
やがて、その音は、俺たちの家の前で、ぴたりと止まった。
◇◇◇
俺は咄嗟に、ミーシャを起こさないように、音もなく立ち上がった。
台所から出てきたピヒラと、庭で遊んでいたクータルが、不安そうに俺の背中に隠れる。
嫌な予感。
シグルーンの忠告が、脳裏をよぎった。
俺は娘たちを背中にかばいながら、ゆっくりと扉を開ける。
そこに停まっていたのは、これまで見たこともないような、巨大で豪華な馬車だった。
磨き上げられた漆黒の車体に、金で縁取られた、猪の頭をかたどった紋章。
その馬車の前には、絹の上等な服に身を包んだ、中年男が立っていた。
――ブルーム男爵。
「これはこれは! 君が、あの『森の恵み』を育てているという、ダンスタン君かね?」
男爵は、芝居がかった仕草で、俺たちの家や、その奥に見える畑を眺め回した。
「素晴らしい! 実に素晴らしい! 君のような有能な男が、こんな辺境に埋もれているのは、まさに王国の損失だ!」
耳触りのいい言葉を並べ立てながら、男爵はずかずかと家の中へと上がり込んできた。
おい、人の許可も取らずに……。
「まあ、そう警戒したものではない。今日は君に、素晴らしい提案があってね。ぜひ、聞いてもらいたい」
そう言うと、男爵は俺たちの粗末な椅子に、勝手にどっかりと腰を下ろした。
「どうだろう、ダンスタン君。私の庇護下に入り、その類稀なる才能を、私のために使ってみる気はないかね?」
甘い、蜜のような言葉。
「もちろん、相応の待遇は約束しよう。金か? 地位か? 女か? あるいは男か? 望むものは何でも与える。なに、難しい話ではない。君はただ、その素晴らしい畑で、私のために野菜を作ってくれればいい。簡単なことだろう? そして、私の店に食材を下ろせばいいんだ」
男爵は、言葉を続ける。
その、ねっとりとした視線が、俺の背中に隠れるピヒラとクータルに向けられた。
「おお、これはこれは……。噂には聞いていたが、なんとも可愛らしい亜人の娘たちだ。そうだ、君が私の下に来るというのなら、この子たちの将来も、私が保証してやろう。辺境で燻っているよりも、よほど良い暮らしができるぞ? 器量も良いようだ。望むなら、縁談を結んでやることもできる」
その目が、二人の娘を値踏みするように、いやらしく細められる。
◇◇◇
俺の服の裾を、小さな手が、ぎゅっと掴んでいるのを感じる。
ピヒラとクータルの、震える手だ。
日向ぼっこをしていたミーシャも俺のもとへと近寄ってくる。
もう、迷いはなかった。
「……男爵様」
俺は、一切の感情を声から消し去り、静かに口を開いた。
「大変、ありがたいお話にございます。あなた様のような貴族に、この俺のようなしがない男が才能を認められるなど、望外の喜び。身に余る光栄です」
というか、俺の才能というより娘たちの才能なんだが。
俺は、できる限り丁寧な言葉を選んで、ゆっくりと頭を下げる。
男爵は「うむ」と満足そうに頷いた。
だが、俺は顔を上げないまま、言葉を続けた。
「ですが、男爵様。俺たち家族は、このままここで静かに暮らすのが、一番の幸せなんでございますよ」
ピクリ、と男爵の眉が動く。
「この畑も、俺の腕も、そして……ここにいる俺の娘たちも。何一つ、あなた様にお譲りするつもりはございません」
俺はゆっくりと顔を上げた。
そして、男爵の目を、まっすぐに見据えて、きっぱりと言い放った。
「お話は、それだけでしょうか。お引き取りを」
◇◇◇
俺の拒絶。
男爵の人の良さそうだった笑顔が、まるで仮面が剥がれ落ちるように、消え失せた。
その顔が、みるみるうちに憎悪と屈辱の色に歪んでいく。
「……そうか」
地を這うような、低い声。
「一介の冒険者崩れが……このブルーム男爵の、温情を、無にするというか」
男爵は椅子から立ち上がった。
その目は、もはや何の感情も隠そうとせず、俺への剥き出しの殺意をたたえている。
「よかろう。実に、愚かな選択だ」
彼は俺を見下し、吐き捨てるように言った。
「後悔するなよ。お前たちは、その手で掴んだちっぽけな幸せごと、全てを失うことになるだろう」
その、呪いのような捨て台詞。
それを最後に、ブルーム男爵は踵を返し、豪華な馬車へ向かって歩き出した。
その背中に向かって、ぽつりと、俺の足元から小さな声が響いた。
「ぱぱ、あのひと、いやー」
声の主は、クータルだった。
ずっと黙って俺の足にしがみついていた娘が、じっと男爵を睨みつけ、ぷうっと頬を膨らませている。
俺が「こら、クータル」と声をかけるよりも、早かった。
ドタンッ! ズベシャッ!
「ぐべっ!?」
なんの前触れもなかった。
男爵が、何もないはずの地面で派手にすっ転んだのだ。
しかも、昨日の雨でできた小さな水たまりに、顔から綺麗に突っ込む形で。
「だ、男爵様!?」
従者が慌てて駆け寄る。
泥だらけの顔を上げた男爵が、鬼の形相でこちらを睨みつけてきた。
その視線は、まるで俺が何かをしたとでも言いたげだったが、生憎、俺はピクリとも動いちゃいねえ。
俺は自分の足元で「ふんっ」とそっぽを向いている娘の頭を、そっと撫でた。
男爵は従者に抱え起こされると、屈辱に震えながら、何か悪態をつき、今度こそ馬車に転がり込んで去っていった。
俺は振り返り、不安そうに俺を見上げるピヒラとミーシャ、そして何食わぬ顔のクータルの頭を、順番に、優しく撫でてやった。
「大丈夫だ。パパが、全部守ってやるからな」
上等だ。
やってやろうじゃねえか。
ここは、俺たちの城だ。
指一本、触れさせてたまるか。
……一応、シグルーンに報告しておこうか。