第16話 天使のらくがき
クータルは、シグルーンが釘付けになっていた床の落書き――『竜の紋章』とかいうヤバい代物――を、木の枝でつんつんと突つきながら、何やらご機嫌に鼻歌を歌っている。
「ふんふふーん♪」
その無邪気な姿を見ていると、微笑ましい気持ちになるが……。
その落書きの危険性を教えなきゃならねえ。
こいつ自身を守るために。
俺は床に膝をつくと、クータルを正面から抱きかかえ、自分の膝の上に乗せた。
「クータル」
いつもより、少し真面目な声が出た。
俺の真剣な顔に、クータルはきょとんとした顔で小首をかしげる。
「なあに、ぱぱ?」
「さっきの、あの絵な」
俺は床に描かれた複雑な紋様を指さす。
「あれは、この家の外で描いちゃダメだぞ。誰にも見せちゃいけねえ。パパとの約束だ」
俺の言葉に、クータルのルビーみたいな瞳が、みるみるうちに曇っていく。
「……なんでー?」
小さな唇が、ぷうっと不満げに膨らんだ。
「きれいなのにー。くー、これ、すきなのにー」
しょんぼり、と。
あからさまに肩を落とし、俯いてしまう。
その姿を見ていると、俺の胸が、罪悪感でちくりと痛んだ。
分かってる。
こいつに悪気なんて欠片もねえことは。
ただ、大好きな「お絵描き」を、理由も分からず禁止されて、悲しいだけなんだ。
くそ、親ってのはつらいもんだ。
だが、ここで甘やかすわけにはいかねえ。
俺は心を鬼にして……いや、無理だ。
このしょげ返った顔を見て、これ以上厳しいことは言えねえよ。
俺はガシガシと頭を掻くと、一つ、妥協案を捻り出した。
「……分かった。じゃあ、こうしよう」
俺の言葉に、クータルが僅かに顔を上げる。
「家の裏の庭なら、パパと一緒の時だけ、特別に描いていいことにする。それならいいだろう?」
「……うん」
まだ少し不満そうだが、こくりと頷いてくれた。
よし、まずは一歩前進だ。
俺は彼女の機嫌を完全に直してやろうと、わざと明るい声を出した。
「よし、決まりだな! ちょうどいい、明日は裏庭を耕して、畑でも作るか! パパのそばで好きなだけ絵を描いてていいぞ」
「ぱぱと、いっしょ?」
「ああ、一緒だ」
「うん!」
ようやく、クータルの顔に笑顔が戻った。
俺の首にぎゅっと抱きついてくる。
「ぱぱ大好き! いっしょに、はたけ!」
◇◇◇
翌日。
朝飯を腹いっぱい食った後、俺とクータルは家の裏手にある荒れ地へと向かった。
そこは、人の頭ほどもある岩がゴロゴロ転がり、太い木の根が地表を走る、正真正銘の未開拓地だ。
クータルが遊びで耕してくれた場所から、少し離れている。
「よし、やるか!」
俺はシャツの袖をまくり、年季の入ったクワを両手で固く握りしめる。
まずは、この辺りの雑草を刈って、少しでも土をならしてやらないとな。
その横で、クータルは早速、昨日約束したお絵描きを始めた。
ご機嫌で木の枝を拾うと、地面にあの複雑な紋様を描こうとする。
カリッ……ポキッ。
「……あ」
地面が硬すぎて、乾いた木の枝がすぐに折れてしまった。
別の枝を拾って、もう一度。
ガリガリガリッ……。
今度は上手く線が描けない。石に当たって、思うような形にならないのだ。
せっかく笑顔が戻ったクータルの顔が、またしても、しょんぼりと曇っていく。
「ぱぱー、これ、かけない……。かたいの、きらい……」
その、今にも泣き出しそうな顔を見て、俺はクワを地面に突き刺した。
くそっ、俺としたことが。
描いていいとは言ったものの、肝心の描く場所がこれじゃ、どうしようもねえじゃねえか。
「……よし、クータル。ちょっと待ってろ。今からパパが、お前のために、世界一のキャンバスを作ってやる」
俺はクワを捨て、目の前の邪魔な岩に両手をかける。
「ふんっ……ぬぅぅおおお!」
全身の筋肉を軋ませ、元Aランク冒険者の馬鹿力を総動員する。
メリメリ、と土が裂ける音を立て、巨大な岩がゆっくりと持ち上がった。
俺はそれを、えい、と畑の脇へと放り投げる。
次に、ツルハシを持ち出し、頑固な木の根っこを、渾身の力で何度も、何度も叩き切っていく。
娘が遊ぶため。
ただそれだけの理由で、俺は汗だくになって地面と格闘した。
やがて、俺の奮闘によって、2メートル四方ほどの、石も根っこもない、平らな土のスペースが生まれた。
「よし、クータル、ここならどうだ?」
「うん!」
クータルは、俺が作った「キャンバス」に駆け寄ると、待ってましたとばかりに、あの複雑な紋様をすいすいと描いていく。
「ぱぱー、みてみてー。かけたよー」
「おう、上手い上手……」
汗を拭いながら、俺は相槌を打った。
その、次の瞬間だった。
「―――ん?」
俺は、自分の目を疑った。
信じられないことが、目の前で起きていた。
クータルが紋様を描き終えた、その場所から。
ふわり。
まるで、土が大きく息を吸い込んだかのように、柔らかく盛り上がったのだ。
俺が必死に耕した土が、みるみるうちに、水分と栄養をたっぷりと含んだ、生命力溢れる深い黒色へと変わっていく。
「……おいおい、マジかよ」
俺は呆然と呟き、恐る恐る、その黒土に手を触れてみた。
ふかふかだ。
さっきまでツルハシを跳ね返していた硬さが嘘のように、驚くほど柔らかく、そして、温かい。
俺は、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「は、はは……はははは! すげえな、お前! よし、クータル! 今から、パパと一緒に、この荒れ地を世界一の畑に変えるぞ! 二人で力を合わせるんだ!」
「うん! わかった!」
俺が汗だくで岩をどかし、根を断ち切り、硬い土を耕す。
その後を、クータルがきゃっきゃと笑いながら追いかけてきて、魔法の紋様で、その土地を瞬く間に開墾していく。
地道で過酷なはずの開拓作業が、こんなにも楽しいなんて、知らなかった。
ピヒラとミーシャも、いつの間にか家から出てきて、俺たちの作業を応援してくれている。
「がんばって、パパ! クータルも!」
「ファイトだにゃー!」
その声援が、俺の疲れた体に、不思議な力を与えてくれる。
そして、太陽が西の空に傾き始める頃。
俺たちの目の前には、信じられない光景が広がっていた。
あれほど荒れ果てていた土地が、見渡す限りの、広大で、美しい黒土の畑へと、完全な変貌を遂げていたのだ。
……もしかして、もっと柔らかい土地を買えば、俺はここまで苦労しなくても良かったのでは?
まあクータルと一緒に働くのは、楽しかったからいいか。
◇◇◇
俺とクータルは、畑の真ん中に並んでへたり込み、その絶景を眺めていた。
「はぁ……はぁ……やったな、クータル」
「うん!」
クータルは、泥だらけの顔で、これまでで一番誇らしげな、満面の笑みを浮かべている。
「ぱぱ、やったね! すごーい、はたけ!」
そう言うと、彼女は俺の胸に、ぽすん、と飛び込んできた。
俺はその小さな体を、力いっぱい抱きしめ返す。
土の匂いと、汗の匂いと、そして、娘の温かい体温が混じり合う。
俺一人じゃ、この硬い土地を耕せたとしても、ただの痩せた畑のままだった。
クータル一人じゃ、そもそもこの岩だらけの荒れ地はどうにもならなかった。
二人だったから、できたんだ。
クータルの力の、途方もなさに。
俺は改めて、背筋が凍るような戦慄を覚えていた。
テラフォーミング。
土地そのものを、意のままに作り変える力。
だが、同時に。
こうして、荒れ地を豊かな大地に変える。
荒れ地の、飢えた人々を救うことだってできるかもしれない。
破壊の力じゃない。
これは、『祝福』の力なんだ。
俺は、このとんでもない力を正しく導き、この子の笑顔を守り続けることこそが、父親としての自分の役目なのだと思った。