第15話 ウィッカーデイルの母
穏やかな午後だった。
ピヒラが、真剣な顔で包丁を握っていた。
「……んっ」
ピヒラが、小さな決意の声を漏らしながら、まな板の上の人参に、そっと刃を入れる。
ト、ト、ト……。
まだぎこちない、おっかなびっくりの音。
見ていて正直、ハラハラする。
今にも自分の指を切っちまいそうだ。
「ピヒラ。手は猫の手だ。指先を丸めたほうがいい」
「は、はいっ!」
俺が台所の隅から声をかけると、ピヒラは慌てて指を丸めた。
その隣では、ミーシャが心配そうに彼女の手元を覗き込んでいる。
「ピヒラ〜ゆっくりやるニャ〜」
「ぴーら、がんばえー!」
ピヒラの真剣な横顔を見ていると、なんだか胸が熱くなる。
「よし、上出来だ。次は千切りだ。できるだけ細く、均一にだ。焦らなくていいからな」
「はい!」
ピヒラはこくりと頷くと、すう、と息を吸い込んだ。
その翡翠色の瞳に宿る、ひたむきな光。
いつか、こいつは本当に、いつか街一番の……いや、世界一のシェフになるのかもしれない。
そんな未来を想像して、俺の口元は自然と緩んでいた。
この、温かくて、騒がしくて、どうしようもなく愛おしい毎日。
これがずっと続けばいい。
心から、そう願っていた。
トントン。
そんな穏やかな空気を破るように、家の扉が、控えめだが芯のある音で叩かれた。
◇◇◇
こんな時間に誰だ?
ギュンターの店の仕入れ担当か?
それならもっと早い時間のはず……。
「……俺が出る。お前たちはここにいろ」
俺は娘たちにそう言い残し、扉に向かった。
ゆっくりと、音を立てずに扉を開ける。
そこに立っていたのは――。
亜麻色の髪をきつく結い上げた、怜悧な顔立ちの女性。
このウィッカーデイルの冒険者ギルド支部長、シグルーンだった。
「……何の用だ、支部長殿」
俺は無意識に、身構えていた。
「邪魔をする。少し、話がある」
シグルーンは俺の内心を見透かすような、氷みたいに冷たい瞳でそう言うと、俺の許可も待たずに家の中へすっと足を踏み入れた。
……おいおい、人の家だぞ。
「あ!」
それまで台所の隅で固まっていたクータルが、ぱあっと顔を輝かせた。
そして、てちてちとシグルーンの足元に駆け寄ると、その服の裾を、きゅっと掴む。
「きれいなおねーちゃん! きたー!」
「お姉ちゃん?」俺は思わず口に出していた。「この人は俺より年上だが……」
「じゃあ……おばあちゃん?」
やめろクータル! と言いたかったが間に合わなかった。
シグルーンの視線が、絶対零度の輝きを放ちながら、ゆっくりと、ぎぎぎ、と音を立てるように俺の方へと向けられた。
◇◇◇
しばらく続いた、重い重い沈黙。
それを破ったのも、またクータルだった。
「おねーちゃん、あそぼ?」
俺に向けられていた殺意の視線などどこ吹く風。
クータルは無邪気に笑いかけると、シグルーンの冷たい手を、その小さな両手でぎゅっと握りしめた。
その瞬間だった。
あれほど硬く、氷のようだったシグルーンの表情が、ほんの一瞬、ふっと揺らいだように見えた。
鉄の仮面に、微かな、本当に微かな亀裂が入ったような。
「……子供は、」
俺に聞こえるか、聞こえないか。
それくらいの、か細い声で、彼女はぽつりと呟いた。
「……かわいいな」
その横顔は、いつものギルド支部長の顔じゃなかった。
どこか遠くを見るような、何かを懐かしむような、そして、ほんの少しだけ、羨むような。
そんな、複雑な色が滲んでいた。
俺はその横顔に、ギルドの連中が酒の肴にしていた噂を、ふと思い出していた。
彼女は昔、王都の貴族と結婚していた。らしい。
だが、なかなか子どもができず……。
やっと妊娠した子は流産し、その後、旦那からは浮気をされ、離縁したとか……。
まあ、他人の人生に、俺が口を挟むことじゃねえ。
「……コホン」
シグルーンは一つ咳払いをすると、我に返ったようにクータルの手をそっと離し、いつもの怜悧な表情に戻る。
そして、本題に戻ろうとした、その時だった。
彼女の視線が、床の一点に、ぴたりと釘付けになった。
クータルが、家の床を削って木の枝で何かを描いていたのだ。
最初はやめさせていたのだが、ピヒラが床を修復してくれるので、好きにお絵描きをさせていた。
俺から見れば、ただの渦巻きとギザギザが組み合わさった、意味の分からない落書き。
だが、シグルーンの目の色は、明らかに変わっていた。
「ダンスタン」
声のトーンが、一段階、低くなる。
「その絵に、見覚えは?」
「うん? いや……なんか、よく家の庭でも、家でも描いているな、とは思うが」
俺が呑気にそう答えると、シグルーンは俺の目をじっと見つめ、静かに、だが重く、言葉を続けた。
「……そうか。だが、」
彼女は俺にだけ聞こえるように、声を潜める。
「その紋様は、古代竜族のものによく似ている。わかる人にはわかるだろう。あまり、外部に出さないほうが良いだろう」
◇◇◇
「……古代竜族、か」
俺は、床に描かれた意味不明な落書きを、改めて見つめた。
ただの子供の遊びだと思っていたものが、とんでもねえ爆弾だったとはな。
俺が言葉を失っていると、シグルーンは一つ咳払いをして、無理やり話を現実に戻した。
「竜の話は一旦忘れろ。それよりも、もっと現実的な脅威の話だ。私が今日ここに来た、本来の用件でもある」
彼女の視線が、俺を射抜く。
「先日の奴隷商の一件。背後関係を探ったところ、この辺りを治めるブルーム男爵という名が浮上した」
ブルーム男爵。
聞いたことがある。
強欲で、自分の意にそぐわない者は力で排除する、悪評の絶えない貴族だ。
「そして、その男爵がお前たちの『奇跡の野菜』に目をつけている、という情報が入った。奴は、お前たちが野菜を卸している『獅子のグリル亭』の商売敵、『金猪の酒亭』の後ろ盾でもある」
なるほど、そういう繋がりか。
「ギュンターの店がお前たちの野菜で評判になれば、男爵は黙っていないだろう。奴は、金になりそうなものには、手段を選ばず手を出す男だ。嫌がらせ程度で済めばいいがな……。あの暴走馬車の一件も、ブルーム男爵の仕業かもしれん」
「……忠告、感謝する」
俺がぶっきらぼうにそう言うと、シグルーンはふいっと顔をそむけた。
「勘違いするな。これはギルド支部長としての職務だ。街の経済が、くだらん貴族の私欲で乱されるのは見過ごせん。……それに、あの料理人の腕は惜しいからな」
素直じゃねえな、まったく。
彼女はそのまま踵を返し、扉に向かう。
そして、去り際に、ぽつりと付け加えた。
「だが、もし手に負えんことになったら相談しろ。ギルドとして、動ける範囲でなら手を貸してやる。子供たちを……泣かせるなよ」
彼女は振り返ることなく、今度こそ本当に家から出ていった。
俺は、やれやれと肩をすくめる。
視線を家の中に戻すと、ピヒラとミーシャが不安そうに俺の顔を覗き込んでいる。
クータルは、もう床の落書きにも飽きたのか、ミーシャの尻尾を捕まえようとじゃれついていた。
守るべき、俺の日常。
「さて、と」
俺は大きく息を吐き出すと、娘たちに向かって、ニヤリと笑ってみせた。
「難しい話は終わりだ。腹、減っただろ? 今日はパパが、とびきり美味いシチューを作ってやる。ピヒラ、手伝ってくれるか?」
「はい!」