第14話 将来の夢
市場での一件は、思った以上の騒ぎになっていた。
拍手と感謝の言葉に包まれながら、俺は壊れた荷車を片付ける街の人々を手伝っていた。
娘たちは、助けられた子供の母親から貰った焼き菓子を、嬉しそうに頬張っている。
さっきまでの、好奇と警戒の視線じゃない。
そこにあるのは、純粋な感謝と、尊敬の眼差し。
ピヒラとミーシャも、もう俯いてはいなかった。
戸惑いながらも、どこか誇らしげに胸を張っている。
その顔を見たら、まあ、目立ったのも悪くねえか、なんて思っちまう。
そんな喧騒の真っ只中だった。
ずかずかと、人波をかき分けるようにして、一人の男が俺たちの前に現れた。
真っ白で、糊の効いたコックコート。
ぴしりと整えられた口髭。
腕を組み、俺を値踏みするような鋭い目つき。
全身から「俺は一流だ」というオーラが溢れ出ている。
「俺は、このウィッカーデイルで『獅子のグリル亭』のシェフを務めている、ギュンターという者だ。それより、気になる噂を聞いてな。あんたが持っている野菜が、とんでもねえ代物だと」
面倒なのが来たな、というのが正直な感想だった。
こういうプライドの高そうな職人ってのは、一番厄介なんだ。
「噂の野菜とやらを、見せてみろ。俺の舌で、その価値、確かめてやる」
ふん、と鼻を鳴らすギュンター。
俺はため息の一つもつかず、荷車から、あのルビーのように輝くトマトを一つ、無言で彼に差し出した。
言葉はいらねえ。
食えば分かる。
「フン……ただのトマトじゃねえか」
ギュンターはそう呟き、疑いの目を向けながらも、そのトマトを一口、がぶりと噛み砕いた。
その、瞬間だった。
「……こ、これは……!? なんだ、この濃厚な甘みと、それを引き締める気品高い酸味の調和は……! 俺が……俺が何十年も追い求めてきた『完璧な食材』が、こんな、辺境の……!」
さっきまでの尊大な態度はどこへやら。
彼はトマトを握りしめたまま、わなわなと震え、天を仰いだ。
そして、俺の目を真っ直ぐに見据えると、態度を百八十度変えて、こう言った。
「口で言うより、この食材の本当の価値を教えてやる。……ついてこい。俺の店で、最高の料理を食わせてやる」
◇◇◇
『獅子のグリル亭』。
それは、俺のようなCランク冒険者には縁のない、街で一番の高級レストランだった。
重厚な木の扉、磨き上げられた床、テーブルには清潔な白いクロス。
初めて見るその光景に、娘たちは完全に気圧されていた。
「ひゃあ……きらきらしてるにゃ……」とミーシャ。
「…………」ピヒラはそわそわしている。
「おしろみたい!」
……クータルだけは物怖じせず、はしゃいでいる。
俺はそんな娘たちの手を引き、店の奥にある厨房へと案内された。
そこは、戦場だった。
ジュウ、と肉の焼ける音。
小気味よく響く包丁の音。
飛び交う料理人たちの怒号にも似た指示。
その全てが、一つのハーモニーを奏でている。
特にピヒラは、その活気と熱気に目を奪われ、食い入るように厨房を見つめていた。
「今から、俺が最高のまかないを作ってやる!」
ギュンターは俺の手からトマトを数個受け取ると、手際よく湯むきし、オリーブオイルとニンニクでさっとソースを作る。
茹で上がったパスタを絡め、皿に盛り付け、最後にハーブを散らした。
無駄のない、流れるような動き。
「さあ、食え。本物の食材は、多くを語る必要がない」
厨房の片隅にある小さなテーブルに、ギュンターは皿を置いた。
俺たちの前に、四皿のパスタが並べられる。
ただのトマトパスタだ。
だが、その香りが、もう尋常じゃない。
フォークで一口、口に運ぶ。
その瞬間、俺は言葉を失った。
……うまい。
うまい、なんて陳腐な言葉じゃ足りねえ。
トマトの甘みと酸味が、ニンニクの香りと絡み合い、俺の舌の上で爆発する。
俺がかじった時とは、次元が違う。
これが、プロの腕か……!
娘たちも同じだった。
目を真ん丸くして、夢中でパスタを頬張っている。
「んまい! んまい!」
「おいしい……にゃ……!」
そして、ピヒラ。
彼女は、一口食べるごとに、感動で瞳を潤ませていた。
「すごい……ただのトマトが、こんな……。これが、料理……。魔法、みたい……」
一つの料理が、人をこんなにも幸せな顔にする。
その事実が、彼女の心を強く、強く揺さぶっているのが分かった。
食後、ギュンターは俺に向き直り、深々と頭を下げた。
「頼む、ダンスタン殿! この奇跡の野菜を、どうか我が店に卸してはいただけんだろうか!」
こうして、俺たちは安定した収入源を確保した。
まとまった契約金を受け取った俺の心は、これで娘たちを養っていける、という安堵で満たされていた。
◇◇◇
レストランからの帰り道。
俺たちは、賑わう市場の雑貨屋に立ち寄っていた。
「さあ、好きなもんを選べ。パパからのプレゼントだ」
俺がそう言うと、三人の娘たちは目を輝かせた。
ミーシャには、彼女の元気なイメージにぴったりの、金の鈴がついた青いリボンを。
クータルは特大の渦巻きキャンディを買ってやった。
ピヒラは、店の隅で、あるものから目を離せずにいた。
調理道具が並ぶ棚だ。
彼女は、一本の調理用ナイフをじっと見つめている。
白木の柄に、繊細な花の模様が彫り込まれた、美しいナイフだった。
……まあまあの値段がする。
「……ほしいのか?」
俺が声をかけると、ピヒラの肩がびくりと跳ねる。
「う、ううん! そんな、私なんかが、こんな綺麗で高いもの……」
彼女は慌てて首を振るが、その瞳は調理用ナイフに釘付けのままだ。
その様子を見て、俺はレストランでの彼女の言葉を思い出していた。
「さっきのシェフ、すごかったもんな」
「……うん」
ピヒラは、こくりと頷く。
「私も……あの人みたいに、なりたい。パパが育てた野菜で……みんなを、笑顔にする料理が、作りたい」
その、はにかみながらも、ひたむきな夢の告白。
俺は何も言わず、そのナイフを手に取ると、彼女の小さな手にそっと握らせてやった。
「これは、未来のシェフへの、先行投資だ。しっかり修行しろよ」
「うん……!」
ピヒラは力強く頷いた。
家に帰り、俺が夕食の準備をしていると、ピヒラがその新しいナイフを手に、俺の隣に立った。
そして、すう、と息を吸い込むと、俺の前に、まっすぐに立つ。
その翡翠色の瞳には、もう迷いの色はない。
「パパ」
凛とした、澄んだ声だった。
「私を、弟子にしてください」
彼女は、俺の目の前で、深々と頭を下げた。
弟子?
俺が、師匠?
照れくささと、戸惑いで、何て返していいか分からなくなる。
だが、頭を下げたままの彼女の、固く握りしめられた小さな拳を見た時、そんな迷いは一瞬で吹き飛んだ。
「……さっきのシェフのほうがいいんじゃないか」
「さっきのご飯は美味しかったけど、でも、パパのご飯のほうが好きだから。だめ?」
あまりにも嬉しいその言葉に、一瞬、言葉が詰まる。
「……おう。俺でよければな」
ピヒラが、ぱっと顔を上げる。
その瞳は、驚きと、込み上げてくる喜びに、潤んでいた。
俺はニヤリと笑って、言葉を続ける。
「ただし、俺の修行は厳しいぞ。覚悟しとけよ。……よろしく頼むぜ、一番弟子」
その言葉を聞いた瞬間。
ピヒラの顔に、これまで見たこともないような、満開の花が咲くような、最高の笑顔が広がった。
「はいっ、師匠!」
元気いっぱいの返事。
そして、はにかみながらも、キラキラと瞳を輝かせて、彼女は続けた。
「いつか、パパと一緒にお店をやるのが、私の夢です!」
店、か。
俺と、この娘で。
そんな未来、考えたこともなかった。
だが……悪くない。
そう、思った。