第11話 いまのところは
「――『太陽の槍』。お前は、あのパーティの生き残りだな?」
シグルーンの静かな、だが鋭い言葉。
瞬間、世界から色が消えた。
ギルド支部長室の重厚な調度品も、窓から差し込む午後の光も、全てが色褪せたモノクロームの景色に変わる。
耳の奥で、キィン、と不快な音が鳴り響き、遠い日の記憶が、濁流のように意識を飲み込んでいく。
やめろ。
思い出すな。
もう、何年も鍵をかけて、心の奥底に沈めたはずの悪夢だ。
――薄暗い古代遺跡の通路。松明の炎が、仲間たちの信頼に満ちた顔を照らしている。
――「よし、先行する。ダンスタン、お前の索敵が頼りだ」。リーダーだったオーウェンの、いつもと変わらない、力強い声。
――「任せろ。この先、罠の反応はない。安全だ」。俺は、自信満々にそう告げた。俺の索敵スキルは、パーティの生命線だったからな。
その、直後だった。
ゴゴゴゴゴ……!
足元の床が、巨大な口のように開いた。
俺の索敵では感知できなかった魔法罠。
悲鳴を上げる間もなく、仲間たちが奈落へと吸い込まれていく。
「生きろ、ダンスタンッ!」
リーダー・オーウェンが、落下しながら俺に向かって叫んだ、最期の言葉。
魔法使いのウーナが、助けを求めるように俺へと伸ばした、震える手。
その手が、闇に消えていく瞬間が、スローモーションのように脳裏に焼き付いている。
俺一人の、慢心が招いた全滅。
俺だけが、生き残った。
「……う、っ」
激しいめまいと吐き気に襲われ、俺はみっともなくも、目の前の重厚な机に手をついた。
ガタ、と机が音を立てる。
呼吸が浅くなり、冷たい汗が背中を滝のように流れていく。
目の前のシグルーンの顔が、ぐにゃりと歪んで見えた。
「……人違い、だ」
絞り出す。
かろうじて、それだけを言うのが精一杯だった。
情けないほどに、声が震えている。
俺は、今、どんな顔をしているんだろうか。
◇◇◇
俺の無様な反応を、シグルーンは氷のような瞳で静かに見つめていた。
追撃の言葉が来るか、と俺は歯を食いしばる。
だが、彼女の口から出たのは、予想とはまったく違うものだった。
「……そう固くなるな」
ふっ、と彼女は短く息を吐き、張り詰めていた空気をわずかに緩ませる。
そして、ゆっくりと椅子から立ち上がると、俺に背を向けて窓辺へと歩いていった。
窓の外に広がる、ウィッカーデイルの街並みを眺めながら、静かに口を開く。
「私が問いたいのは、お前の過去ではない。お前の『未来』だ」
「……なに?」
「お前が匿っている子供。……あの子の力は、尋常ではない。先日の奴隷商ごときでは済まん、より大きな悪意を引き寄せるだろう」
彼女の声は、淡々としていた。
「その力を欲しがる連中は、どこにでもいる。金に目の眩んだ貴族、異端の力を求める邪教、あるいは……国家そのものが、研究対象として、あるいは兵器として、あの子たちを狙うやもしれん。その時、この辺境の街は、否応なく戦火に巻き込まれることになる」
支部長としての、冷徹な視点。
俺個人の問題ではなく、この街全体の危機として捉えているのか。
「お前は、本当に守り切れるのか? お前一人で、国家規模の敵と渡り合えるとでも?」
彼女は、ゆっくりとこちらに振り返る。
その瞳が、俺の心の最も柔らかい場所を、容赦なく抉ってきた。
「『太陽の槍』だったお前が、守れなかったもののようにな」
オーウェンの最期の顔が、脳裏をよぎる。
「――また、全てを失うかもしれない。その覚悟はあるのか?」
◇◇◇
『また、全てを失うかもしれない』
その言葉が俺の胸に突き刺さった。
そうだ。
俺は一度、全てを失った。
仲間も、夢も、生きる意味さえも。
もう二度と、あんな思いは……。
その時だった。
俺の脳裏に、凍てついた過去の記憶とはまったく違う、温かい光景がふわりと浮かび上がった。
――「おー!」と拳を突き上げ、めちゃくちゃになった家を、みんなで笑いながら直した、あの日。
――四人で囲んだ、木のテーブル。俺が作ったシチューを、口の周りをべとべとにしながら頬張るクータルの、満面の笑み。
――「……おいしい」とはにかんだミーシャの顔。
――黙々と、だが嬉しそうにおかわりをするピヒラの、少しだけ緩んだ頬。
空っぽだった俺の人生を、再び満たしてくれた、騒がしくて、手がかかって、どうしようもなく愛おしい、俺の宝物。
がらんどうだったあの家に、温かい音と、匂いと、光をくれた、かけがえのない日常。
そうだ。
俺はもう、独りじゃない。
◇◇◇
俺は、机についていた手を離し、ゆっくりと顔を上げた。
もう、めまいはしない。
吐き気もない。
俺は、シグルーンの怜悧な瞳を、まっすぐに見据える。
「理屈じゃねえ」
俺の口から出たのは、自分でも驚くほど、落ち着いていて、力強い声だった。
「あいつらがどんな力を持っていようと関係ねえ。貴族が来ようが、国家が来ようが、俺が守る」
言葉が、溢れてくる。
腹の底から、魂の叫びが。
「どんな敵が来ようとも、この命に代えても、俺が必ずあいつらの居場所を守り抜く」
そうだ。
もう迷いはない。
「……二度と、失ってたまるか」
俺は、一度、強く拳を握りしめる。
そして、はっきりと宣言した。
「俺は、あいつらの父親だからな」
沈黙が、部屋を支配する。
俺の言葉を聞いたシグルーンは、しばらくの間、ただじっと俺の顔を見つめていた。
やがて、その常に氷のように張り詰められていた彼女の唇が、ふっと、ほんのわずかに綻んだ。
それは、満足げな、どこか安堵したような、微かな笑みだった。
「……その言葉、忘れるなよ、ダンスタン。私は『いまのところは』君の味方だ。できるだけ味方でありたいとは思う。ただ、私にも立場がある。守らねばならぬ者たちを選択しなければならないときが来れば、私情を排し、多くの人間にとって正しいことを為すだろう。だから、きみは、きみにとっての正しいことを為せ」
彼女はそれだけ言うと、再び窓の外に視線を戻した。
もう、俺への追及は終わった、ということらしかった。
俺は黙って一礼すると、支部長室を後にした。
今はただ、早く家に帰りたかった。
腹を空かせた娘たちが待つ、俺たちの城へ。
温かいシチューの匂いが待つ、俺の居場所へ。