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第105話 灰の降る日

 朝日が昇るよりも少しだけ早い時間。

 新しくなった我が家の、広々とした厨房には、すでに二つの小さな影があった。


「ミーシャ、火の番、お願いできる?」

「任せるにゃ! 最高の弱火を維持するであります!」


 最高の弱火って、なんだかよくわからん表現だな。

 最高なのに弱いのか……。


 ピヒラが真新しいエプロンをきゅっと結び、朝食のスープをコトコトと煮込んでいる。

 その隣では、ミーシャが薪の燃え具合を真剣な顔つきで調整していた。


 俺が静かに厨房の扉を開けると、二人はびくりと肩を震わせ、振り返った。


「パ、パパ、おはようございます!」

「しーっ! クータルが起きちゃうにゃ!」


 慌てる二人の姿に、俺は思わず笑みをこぼす。

 いつの間にか、俺が起きるよりも早く、この家の朝が始まっている。

 その事実が、どうしようもなく誇らしく、温かかった。


「いい匂いだな。今日の朝飯は、期待できそうだ」


 俺がそう言って頭を撫でてやると、二人ははにかみながらも、最高に嬉しそうな顔で笑うのだった。


 やがて、家族全員がテーブルにつき、ピヒラ特製の温かいスープと、焼きたてのパンが並ぶ。

 ああ、これ以上の幸せなんて、どこにもない。

 完璧な朝だ、と俺は思っていた。


 だが、その時だった。

 カタカタ……と。

 テーブルの上の食器が、ごく僅かに、だが確かに揺れた。


 ピヒラが、不思議そうに小首をかしげる。


「なんだか、地面が少し揺れてる……?」


「えー? わかんなかったー」とクータル。


「揺れた……か?」とシグルーンも言う。


 俺はピヒラの言葉に、窓の外へと視線を向けた。

 雲一つない快晴の空。

 その、遠い、遠い地平線の一角が、まるでインクを滲ませたように、うっすらと灰色がかっている。

 胸の奥が、嫌な感じで、小さくざわついた。


◇◇◇


 その日の昼下がり。

 俺たちは家族総出で、ウィッカーデイルの街へ買い出しに来ていた。


「わーい! みんな一緒でおまつりみたい!」


 クータルが俺の手を引っぱって、はしゃいでいる。


 そんな、平和な喧騒の真っ只中だった。


 俺たちの元へ、一人の女性が、慌てた様子で駆け寄ってきた。

 ギルド支部長のヒルルヤだった。


「ダンスタンさん! シグルーンさん!」


 彼女は俺たちの姿を認めるなり、深刻な顔で早口にまくしたてた。


「聞きましたか? ヤンリケ皇国との国境にそびえる休火山『燻るいぶるあぎと』が、数百年ぶりに活動を再開したそうです!」


 その言葉に、俺は朝に感じた胸騒ぎの正体を悟った。

 あの灰色の空は、火山灰だったのか。


「……問題は、それだけじゃないんです」


 ヒルルヤの声が、一段と低くなる。


「ギルドに入ってきた最新情報によれば、異常な気流が発生して、有毒な火山灰が広範囲に拡散しているとか……。特に、風下にある『ミョルクヴィズ』の森の方角は、被害が深刻だと……」


 『ミョルクヴィズ』。

 その名を聞いた瞬間、ピヒラの顔から、すうっと血の気が引いていくのが分かった。

 彼女の、故郷の名だ。


「そんな……」


 ピヒラの、震える声。

 その翡翠色の瞳が、みるみるうちに潤んでいく。


 俺は、ただ小さな肩を抱きしめてやることしかできなかった。


◇◇◇


 重い空気のまま、俺たちは家路についた。

 リビングの暖炉に火を入れても、いつものような温かさは感じられない。

 誰もが、遠い森で暮らす友人たちの安否を気遣い、押し黙っていた。


 その、張り詰めた沈黙を破ったのは、玄関の扉を叩く、乱暴な音だった。


 俺が慌てて扉を開けると、そこに立っていたのは、一人のエルフだった。

 その身にまとった緑の衣服は泥と煤で汚れ、あちこちが裂けている。

 その顔には、見覚えがあった。

 ピヒラの幼馴染、リアムだ。


「はぁ……はぁ……! ダ、ダンスタン様……!」


 彼女は、ぜえぜえと苦しげに息をしながら絶望的な報告を、俺たちに告げた。


「森が……ピヒラの故郷が……死にかけています……!」


 リアムは、俺の前に、どさりと膝をついた。

 そして、深々と、地面に額をこすりつけるように頭を下げる。

 その声は、涙で震えていた。


「ダンスタン様! ピヒラのお父上、エイリケ様たちが危険です! そして、現地のギルドから聞きました……火山調査に派遣されたAランクを含む複数のパーティが調査中に消息を絶った、と!」


 リアムは顔を上げた。


「この危機を救えるのは、もう、あなた方しかいないのです……! どうか、我々の故郷を……!」


◇◇◇


 リアムの、魂からの懇願。

 俺は、何も言えなかった。


 一度だけ、幸せに満ちた我が家と、そこにいる愛する家族の顔を、ゆっくりと見渡す。


 もう、危険な任務には関わりたくない。

 家族を巻き込みたくない。

 ようやく手に入れたこの幸せを、失いたくない。

 それが、俺の偽らざる本心だった。


 しかし。

 俺の脳裏に浮かぶのは、この家に来て、ようやく本当の笑顔を取り戻した、ピヒラの顔だった。

 あいつの、かけがえのない故郷が、両親が、今、灰と炎に脅かされている。


 家族を守るとは、この壁の内側を守ることだけじゃない。

 この家族が愛する世界、その全てを守り抜くこと。

 それこそが、父親としての、俺の本当の役目なんじゃないのか。


 俺は、リアムに向き直る。


「……分かった。その依頼、引き受ける」


 パパには、英雄にならないといけないときがある。

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