第1話 おっさん、卵を拾う。
辺境都市ウィッカーデイルの朝は、いつも静かだ。
俺、ダンスタン(42歳)の一日もまた、音もなく始まる。
ベッドから起き上がり、無精髭のざらついた顎を無意識に撫でる。
古びた木造家屋の隙間風が、初秋の冷気を運んでくる。
まったく、寒くなってきたもんだ。
硬くなったパンと、昨日の残りの冷たいスープをテーブルに置く。
一人分の食器が立てる音だけが、がらんとした室内に虚しく響く。
これがもう、何年も続いている俺の日常だ。
さて、仕事へ行くか。
短い食事を終え、壁に立てかけてあった年季の入った剣を腰に差す。
防具と呼ぶには心許ない革の胸当てを身に着け、俺は重い足取りで冒険者ギルドへと向かった。
俺のランクはC。
日々の糧を得るのがやっとの中堅身分だ。
ギルドの扉を開けても、誰と視線を合わせるでもなく、まっすぐに依頼掲示板へ。
騒がしい酒場エリアには背を向けたまま、手頃な依頼書を一枚、引き剥がす。
『薬草採取依頼:鎮静効果のあるムーンリーフを10株。場所:ウィッカーデイル南の森。報酬:銀貨5枚』
淡々と依頼をこなし、日銭を稼ぐ。
ただそれだけ。
かつて仲間と共に高みを目指した情熱なんて、とうの昔に消え失せちまった。
夜、安酒を呷ってベッドに潜り込むと、決まってあの日の光景が夢に出る。
仲間たちの笑い声。
リーダーが掲げた松明の炎。
そして、すべてを飲み込んだ絶望の闇。
『太陽の槍』。
若き日の俺が所属していたAランクパーティだ。
将来を嘱望された英雄たちの集まりだった、なんて今じゃ笑い話にもなりゃしない。
――全滅したのは、俺一人のミスが原因だったんだ。
「……っ!」
俺は意識して考えないようにして、薬草採取へと向かった。
◇◇◇
薬草採取は、昼過ぎにはあっさりと終わった。
指定されたムーンリーフは、月の光を浴びて淡く光る性質を持つ薬草だ。
日中はただの地味な葉っぱにしか見えない。
だが、長年の経験がその在り処を俺に教えてくれる。
よし、これで終わりだ。
革袋に10株の薬草を詰め、帰り支度を始める。
ギルドに納品すれば、銀貨5枚。
数日分の生活費には十分だ。
明日はまた、別の依頼を探す。
そんな繰り返しの毎日。
ふと、森の奥へと続く、細い獣道が目に入った。
普段なら決して足を踏み入れない道だ。
危険が増すだけで、何の得もない。
だがその日は、何故だろう。
まるで何かに引き寄せられるように、俺の足は自然とそちらへ向いていた。
……何やってんだか、俺は。
自分でも馬鹿げているとは思う。
だが、気だるい、何も起こらない日常への、ほんのささやかな反抗だったのかもしれない。
獣道を進むにつれて、森は深くなる。
鳥の声も虫の音も遠のき、支配するのは深い静寂。
木々の隙間から差し込む光が、まるで舞台のスポットライトのように地面を照らしていた。
やがて、俺は開けた場所に出た。
森の中にぽっかりと空いた、小さな広場。
そこは、苔の絨毯に覆われ、神聖さすら感じさせる空気に満ちていた。
そして、広場の中央に。
ぽつんと、それが鎮座していた。
「……は?」
思わず、間抜けな声が漏れる。
卵だ。
明らかに、卵だった。
だが、そのサイズが異常だ。
俺の背丈ほどもある、巨大な卵。
表面は磨き上げられた白磁のように滑らかで、銀色の蔦のような紋様が、まるで呼吸しているかのように、ゆっくりと明滅を繰り返している。
こんなもの、見たことも聞いたこともない。
辺境の森に、これほど巨大で、美しい卵が、なぜ転がってるんだ?
◇◇◇
……売れるか?
最初に浮かんだのは、Cランク冒険者らしい、実に現実的な思考だった。
これほどの珍品だ。
好事家の貴族にでも持ち込めば、一生遊んで暮らせる金になるかもしれない。
下世話な考えが頭をよぎり、俺は一歩、卵に近づく。
しかし、その神々しいまでの佇まいを前にして、金勘定の思考は霧のように掻き消えていった。
美しい。
ただ、そう思った。
まるで世界から切り離された、完璧な芸術品だ。
……触っても、いいのか?
恐る恐る、俺は手を伸ばす。
剣のタコと切り傷だらけの指先。
こんな手で触れるのが躊躇われるほどに、卵は清らかに見えた。
指先が、その滑らかな表面に触れる。
石のように冷たいだろう、という予想は、完全に裏切られた。
――温かい……?
確かな温もりが、そこにはあった。
岩や木とは違う、生命だけが持つ、じんわりとした熱。
そして、
トクン。
トクン。
微かだが、確かな鼓動が、指先から伝わってくる。
中で何かが生きている。
この巨大な卵は、死んだ化石などではない。
今、この瞬間も、命を育んでいるんだ。
その鼓動に触れた瞬間、俺の脳裏に、忘れていた記憶の扉が、軋みながら開かれた。
――それは、俺がまだ幼く、ウィッカーデイルの孤児院で暮らしていた頃の記憶。
夜、一人ぼっちのベッドの中。
他の子供たちの寝息を聞きながら、寂しさと不安で眠れない時、俺はいつも毛布にくるまって、自分の心臓の音だけを聞いていた。
トクン、トクン。
生きている。
自分は、ここにいる。
その音だけが、俺の唯一の拠り所だった。
目の前の卵の鼓動が、あの夜の自分の鼓動と重なる。
もし、このまま見捨てていったら?
親もいない、誰もいないこの森の中で、この卵はたった独りで、己の鼓動だけを聞きながら、いつか尽きるかもしれない命を待つことになる。
それは、まるで過去の自分を見ているようだった。
こいつも、独りぼっちなのか。
そう思った瞬間、もう他人事とは思えなくなった。
「…………」
俺は天を仰ぎ、深く、長いため息をついた。
諦めと、ほんの少しの呆れが混じった息だった。
「……馬鹿だろ、俺は」
自嘲の言葉が、静かな森に落ちる。
面倒ごとは嫌いだ。
他人と深く関わるのは、もうこりごりのはずだった。
なのに、どうして。
答えは出ない。
ただ、見捨てられない。それだけだった。
「……う、おぉっ……!」
俺は覚悟を決め、その巨大な卵を抱え上げようと試みる。
ずっしりとした重みが腕にかかる。
だが、不思議と不快ではなかった。
むしろ、その重みが、空っぽだった俺の心に何かを満たしていくような、奇妙な感覚があった。
止まっていた俺の人生が、再び動き始めたような。そんな予感がした。
◇◇◇
なんとか家まで運び込んだ卵を、俺は暖炉の前にそっと置いた。
巨大な卵が部屋の真ん中にある光景は、シュールとしか言いようがない。
これから、どうすりゃいいんだ……。
暖炉の火が、卵の銀色の紋様を照らして揺れている。
孵化するのか?
中から何が出てくるんだ?
そもそも、育てられるのか?
面倒事の山が目に浮かび、またため息が出そうになる。
だが、なぜだろう。
孤独だったはずのこの部屋が、少しだけ、温かくなった気がした。
暖炉の温かさだけではない、心の芯がじんわりと温められるような、そんな満たされた気持ちに、俺は気づいていた。
やがて、一日の疲れと安堵感から、俺は椅子に座ったまま、うとうとと眠りに落ちていった。
パチパチと薪がはぜる音だけが響く、静かな部屋。
暖炉の光に照らされた、巨大な卵。
その滑らかな表面に、
ピシッ。
一本の、確かな亀裂が入った。