胸ポケットのレシート
【前話までのあらすじ】
月人は盲目の少女を自分から遠ざけようとするあまりに、「厄介」という言葉を使ってしまった。それは月人自身が何度も傷つけられた言葉だった。望み通り姿を見せなくなった盲目の少女。しかし、月人は彼女を探す。彼女に謝りたかった。そして、月人と少女は緑道のベンチで再会を果たす。
◇◇◇
彼女の身なりは清潔とは言えなかった。
襟や袖口は赤茶け、髪もブラシを通していないようだ。
初夏という季節もあり、汗が発酵したような酸っぱい匂いが、特に良くない。
手に持つ白杖は自然と人の目を引いてしまうこともある。その上で、この身なりでこの地域をうろついていたんだ。彼女に心無いことを言う人もいたかもしれない。
それはこの女の子にとって絶対に良いことではない。
―仕方がない..
幸い俺の住む高級マンションは、ご丁寧にお忍び用の出入り口が完備されている。ある程度、来客のプライベートが保たれる構造になっているのだ。
そんな作りのため、訳アリの独身者が多く住んでいる。
若い女の子を連れ込んだところで、このマンション内では日常茶飯事、怪しむ輩などいないのだ。
―彼女には取り敢えず、身だし並みを整えてもらおう。
彼女の手を引き、俺は部屋に招き入れた。
「ふぅ、できれば恋人でこういうことしたかったもんだ」
「あの.. 何か言いましたか?」
「いや、別に何でもないよ」
閉ざされた空間だと、より彼女の匂いが際立った。
「え、えっと.. 疲れてないかな。シャワーとか浴びて、まずさっぱりしたら..どうかな」
「え? ..ごめんなさい。私、やっぱり匂いますよね」
俺なりに年頃の女の子に配慮したつもりだったが、部屋に入って直ぐに『シャワーを浴びて』と言われたら、そりゃ、不自然だ。相手が如何わしいことを考えているか、..その他だ。彼女は自分でも気にしていたんだ。
俺は聞こえなかった振りをして彼女の問いかけには答えなかった。言えば言うだけ自分の配慮のない言葉で彼女を傷つけてしまいかねない。
「あっちにシャワールームがあるから。脱衣ルームにバスタオルも置いておくから」
「あの.. すいません。 『あっち』って、どこですか?」
―そうか.. 彼女にはこの部屋が見えていないんだ。指をさす動作何て何の意味もなかったんだ..
罪悪感を覚えながら、俺は彼女の手をとってシャワールームに連れて行った。そして、シャワーヘッドからハンドルまで、ひとつひとつ手に触れさせて使い方を説明した。
彼女の手はやたら冷たく、俺の手の平から熱を奪っていく。それは、まるで彼女の孤独が俺に何かを求めているようでもあった。
彼女の手は冷たかったけど、こんなにも他人の手の温もりを感じるなんて何年ぶりの事だろうか。
「使い方わかったかな?」
「うん、ありがとう」
そう言うと彼女は突然ブラウスのボタンをはずし始めた。
「ち、ちょっと待った! 頼むから、俺がいなくなってから脱いでくれ」
「あ、ごめんなさい..」
「いや.. あのさ、後でここの棚にタオルと衣類を置いておくから。ここだよ」
棚を確認した彼女は『ありがとう』のお礼の言葉と笑顔を見せてくれた。
その笑顔は、初夏を巡る風のようにやわらかく優しかった。
その優しさに心が動揺した。
俺は慌てて脱衣ルームをでてしまった。
彼女からは俺がどんな顔をしているかなど見えやしなかったのに。
ドアに寄りかかり落ち着きを取り戻すと、―もう少し彼女の笑顔を見ていればよかったのに―というわずかな後悔が俺をその場に引き留めていた。
「 ..あの 他に何か用がありますか?」
俺の気配を感じて、彼女が中から声をかけてきた。
「いやいや、何でもない。ごゆっくり」
ドアから離れて、ため息をついた。
「ふぅ.. こりゃ、きついな」
冷蔵庫の冷たいレモンスカッシュを一気に飲むと、こみ上げるゲップに胸を叩いた。
・・・・・・
・・
彼女がシャワーを浴びている間に、バスタオルと俺のTシャツとスウェットパンツを脱衣ルームの棚に置いておいた。
勝手にすまないが、彼女の衣服は洗濯させてもらうことにした。
洗濯機に入れる前に衣類のポケットはチェックする。これは家事をする上での基本中の基本だ。
ブラウスのポケットに折られたコンビニのレシートが1枚あった。
**LAWSMART 牛久五暁寺店**
「牛久か.. 確か茨城県だったよな」
そのパンと飲み物を購入したレシートには―2042-6-29-4:38―と印字してあった。
「―6月29日― 今から20日も前だ」
―彼女のポシェットの中も調べてみようか..
そんな思いがよぎったが、彼女には俺が見た映像を見通してしまう力がある。
―今は、万が一でも信用を無くすような行為は、避けておこう。
洗濯機に衣類と下着を放り込むとスタートスイッチを入れた。
「あのぉ.. 出たいのですが、大丈夫ですか?」
曇りガラスに彼女の裸体のシルエットが見える。
咄嗟に目をそらし、『あっ、ちょっと待って、すぐに出ていくから』と返事をすると慌てて脱衣ルームから脱出した。
しばらくして、リビングルームに現れた彼女は、16歳というキラキラした様相を取り戻していた。
濡れた髪とその香りを武器に俺の胸の鼓動を突き動かした。
―この少しぶかぶかなTシャツ姿が男心をくすぐるんだよなぁ.. ダメだ、ダメだ! 何考えてるんだ。
「あの.. 服、ありがとうございます」
彼女は顔を真っ赤にしていた。
―まさか今、彼女を見ながら考えていたことを知られてしまったのか!?
「あの、月人さん、ブラシを貸していただけますか?」
「え!? な、何?」
焦った心のせいで聞き逃してしまった。
「あの、ブラシなんですけど..」
「あ、ああ、ブラシね。ブラシなら洗面台の横のカゴに―」
言いかけの言葉をしまいこみ、彼女の手を引いて洗面台へ連れて行った。そしてコンセントにつないだドライヤーとブラシを手渡した。
鏡にある耳を真っ赤にした自分に気が付くと、余計にさっきのことが恥ずかしかった。
・・・・・
・・
そして、身なりを整えた彼女をソファーに座らせると、いよいよ本題にうつる時が来た。
正直、質問するのが少し怖かった..
それは彼女が俺の前に現れた理由だ。
もしも俺の平和な日常を脅かすものなら、当然、彼女を遠ざけなければならない。
―そうすれば、俺はもう彼女に会うことはないんだろうな..
少し寂しさを覚えた俺の心は、すでに彼女の小さな手に包まれていた。
◇◇◇
次回
1章 夢の中の声
『LINK06 その目は分析する』
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