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コオロギとシャツの裾

【前話までのあらすじ】


 月人と真心は人々の目から隠れるようにある小道から『二百地蔵尊』に向かった。そこは真心の母・真莉愛が好んだ静かな世界だった。ふと真心を見ると、瞼から青白い瞳をのぞかせていた。街に戻ると山岡夫妻と再会する。そこに1台の車が暴走し山岡博と真心を跳ね飛ばしてしまうのだった。

◇◇◇

 真心と山岡博さんは塩尻中央病院に搬送された。


 救急車の中で真心も博さんも一旦は意識を取り戻したという。


 幸い車に弾き飛ばされる直前に真心が博さんを突き飛ばした。その時にお互い頭を強く打ち付けただけで、命に別状はなかった。


 博さんは、以前の事故の後遺症もあったため、ひと晩病院で過ごすこととなった。


 真心も頭部のCT検査をされたが、生態AIには何の影響も及ぼさないことは俺もわかっていた。


 生態AIはCTなどの大きな磁場が発生した時、自己防衛モードに入ることは、俺自身の様々な検査で証明済みだった。


 生態AIの外殻となるアメーバ部分は宿主の細胞と融合し、神経系の細胞と一体化しているのだ.. それは生物が生き延びるための擬態に類似している。


 生態AIよりも最も問題となるのは真心の素性だった。


 彼女は記録上、世界のどこにも存在しない人間だからだ。


 健康保険証どころか国籍がないのだった。


 そんな人間と俺が同行しているとなれば、国土衛星省と厚生環境省に怪しまれ、連行されてしまうのは目に見えていた。


 もしも、真心が斎木博士の娘だということが明るみになれば、それこそ大変な事態になる。なぜなら、彼女こそが生態AIの正当適合者とされているからだ。


 この高度技術を巡り、再び国家間のスパイ活動が活発になり、間違いなく真心は巻き込まれていく。世界を混乱に導く犯罪組織からも狙われる可能性もあるため、おそらく真心は、再び国の施設に幽閉され、この世界から追放されてしまうのだ。


 —そんなの許せないじゃないか。まだ真心は16歳だ。そんなの.. 絶対に正しいことじゃない。


 「月人、大丈夫だ。俺の娘ってことにして何とかやり過ごすから」


 パトカーの中で中尾さんは、誰でも思い浮かぶような嘘で押し通すと言っていた。まったく事の重要性がわかっていないのだ。そんな薄っぺらな嘘が通じるような次元の話じゃないんだ。


 しかし中尾さんは俺の顔を覗き込むと『シンプル・イズ・ベストだ』と気休めにもならない言葉を言うのだ。心配しか残らないはずなのに、なぜか少しだけ安心してしまうのはなぜなのだろうか。


 中尾さんはきっと内閣付特別捜査部長の肩書をごり押しするつもりなのだろう。


 「病院代だが.. 俺はちょっと持ち合わせないからさ、お前、金を払っておいてくれ。よろしく」


 —肩書とは裏腹に安月給なのか.. 世知辛いな。


 世の中何でも金だけで問題が解決するのなら、いいのだけどな..—


 ・・・・・・・

 ・・・・

 ・・


 検査を終えた真心は、か細い声で何度も『ごめんなさい』と繰り返した。うつむいた顔からは、それ以外の言葉を口にしなかった。


 —まるで出会った頃の殻に閉じこもった彼女に戻ってしまったようだ..


 俺は勇気を出して、その小さな肩に軽く手を乗せ言った。


 「何も問題ないよ」


 少しだけ真心の表情がやわらぐのを見たが、よっぽど俺のほうが安堵した。


 ・・・・・・・


 塩尻の病院から奈良井宿に戻ってきた頃には、時間はすでに夜の10時を過ぎていた。宿屋も兼ねる酒蔵『檜林ひばやし』は既に閉まっている。


 「仕方がない。今日は大鳳寺のお世話になろう」


 寺に着くと晴広せいだいさんは快く俺たちを招き入れてくれた。


 夕方の事故の騒ぎを聞いていた晴広さんは、それは真心の容態を心配していた。あまりに心配で具合が悪くなり、法事を変わってもらったくらいだったそうだ。


 —知らない所で、知らないうちに誰かに心配してもらい。迷惑をかけているものだなぁ。


 「月人君、そんな顔しなくていいですよ。私が、まだまだ未熟なだけのことですから。ですが、私にもたくさんの未来が山積みだということです」


 「はい?」


 「ははは、未熟ということは、まだその先があるってことでしょ。未熟の「未」は未来の「未」とおなじなのですから。ははは」


 「なるほど.. そうですね」


 晴広さんの清涼感のある笑いに俺も釣られて笑顔になってしまった。



 「それよりも、真心さんに大事がなくてよかったですね、月人君」


 「はい、ありがとうございます」


 その後、晴広さんは自ら食事の用意や風呂の支度、着替えの準備などを用意してくれた。旅館の仲居さながらの手際よさだ。


 『何かお手伝いいたしましょうか?』と細かに気づかいしてくれるのはよいが、さすがにお風呂に入ろうとする真心にその言葉を投げかけるのはいただけない。お風呂場まで入っていき兼ねないので、俺は入り口を見張ることにした。


 風呂から出た真心は「少しのぼせたので涼みたい」と白杖を片手に境内へ歩いて行った。


 俺は真心がどこに行くかは何となくわかっていた。放っておいたほうが良いとは思ったが、『二百地蔵尊』での青白い瞳を思い出すと、落ち着いて待つことなどできなかった。


 時間を見計らうと、さっそく真心を迎えに行った。


 やはり.. 彼女は境内にあるマリア仏像の前に佇んでいた。


 「お母さん..私、どうなるの? 私は私ではなくなっちゃうの? もう何だかわからない..」


 そう言うと、真心は地面に膝をついた。


 —やはり、あの時、真心は気がついていたんだ。一瞬、自分の中に現れた燐炎りんかの存在に..


 そして真心の問いに明確な答えを持たない俺は、かける言葉すら見つけられないでいた。


 冴えない俺を先に見つけたのは真心だった。


 「月人さん..? ..戻ろう」


 そう言うと真心は手を伸ばした。


 彼女の手をとると、いつものように少し伸びたシャツの裾をつかませた。


 そんなことしか俺にはできなかった..


 数歩進むと、黙っていた鈴虫が一斉に鳴き始めた。その音に混じって小さなつぶやきが聞こえた。


 「 迎えに来てくれて.. ありがとう」




◇◇◇

 次回

 4章 首のない石像

 『弧を描く橋は美しい』


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