ショートショートⅥ「社畜の末路」
俺は今年45歳になる一人の男性会社員。
就職氷河期であったがなんとか正社員として就職し、以来、転職もせずこの会社で働いている。
この人生は残酷なものだ。
就職できず食っていけない人生は相当辛い。
しかし、就職出来たからと言って、幸せであるということでは無かった。
俺の場合はむしろ不幸と呼べるまであった。
何人の同僚がいなくなったのだろうか。
いなくなったというのは、なにも転職だけでは無い。
昔は今のように転職サービスがあった訳でもないし、むしろ転職なんてできるような雰囲気ではなかった。
同僚は皆、失踪するか自らの命を絶ってしまっていたのだ。
ある者は精神がおかしくなり、今でも病院で生活しているといった始末だ。
生きるって何なのだろう。
幸せって何なのだろう。
結局得をするのは上の者ばかり。
俺ら下っ端はずっと苦しみ続けている。
更には最近の新入社員の方が初任給が高いと来た。
俺はこの会社、いや社会そのものを憎んだ。
だからと言って、今更転職しようにも、この歳だとどこも雇ってくれはしないだろう。
だから俺はこの会社で働き続けると決めたのだ。
だが何のために働いている?
家に帰る暇すら無いのだ。いや帰ることを許されないのだ。会社で数時間仮眠をとってはまたパソコンと向き合う日々。
どれだけ金を稼ごうとも、何にも使えず、ただ数字だけ増えていくのみ。
こんなにも意味の無い数字などあるだろうかと思う。
高級車を買おうにも、車でドライブに行く時間など無い。女の子と遊びたくても、まずそんな時間が無い。友人達はマッチングアプリなどで知り合った女性と結婚までいっている中、俺は出会いすらも許されないのだ。
こんな生活をしていると、もちろん体調は崩してしまう。さすがに高熱が出て咳が出まくると仕事に支障が出るため、その時は病院へ行った。
その時間だけは、体はしんどくても心は至福だった。
待合室で熟睡してしまい、看護師に叩き起されたこともあったっけ。
それが嬉しかった。女の子と関われるからとかそういうのじゃない。
人間として対応されていることに、とてつもない幸せを感じたのだった。
そのくらい、もはや人間としての生活をしていないある日のこと。
「おいおい~、手が止まっちゃってるんじゃないの?そんな悪い手じゃダメだね~。そんな悪い手切り落として、疲れない機械の手でも付けたら?」
思考がうまく巡らないのと、疲労で手が思うようにマウスを操作できなくなってしまったことで手が止まってしまっていた俺に、部長のクソ野郎がそうやって言ってきた。
でも、あぁそうか、もし俺の手がマウスそのものだとしたら、いちいち押すという作業をしなくてもいいのか。
そう思った瞬間のことであった。
キュイィンという機械音と共に、なにか変な違和感を右手に感じた。
見てみると、なんと、俺の手が本当にマウスになってしまっていたのだった。
なんだこれは、と一瞬焦ったが、驚くことにスイスイと滑らかに操作ができるようになっていた。
これはすごいかもしれない。
思うようにマウスが動く。しかしキーボードで文字も打たないといけない。
それなら左手がキーボードになってしまえばいい。そう思うと、次の瞬間には本当に左手がキーボードになっていた。
考えるだけで文字が打てる。すごい、すごいぞ!作業効率が格段に上がった。
しかしながら、人間腹は減るというもので。
腹が減っては戦は出来ぬ。
だからといっていつも良い食事が摂れているわけではない。いつも栄養ドリンクや栄養補助食品などで済ましてしまっていた。
しかも今は両手が機械の一部と化してしまっているので買いに行くこともできない。
いっそのこと、電気を主食にしたらどうだろうか、と思ったその瞬間。
「ゴホォァッ。」
パソコンから一本のコードが出てきて、自分の口の中、喉の奥まで入り込んできたのだった。
初めは相当苦しかったが、次第に、身体が元気になっていくのが感じられた。
空腹という感覚が無くなり、全身に電気が行き渡っていくのが感じられる。
俺はついに電気すらも主食にしてしまった。
様々な感覚が麻痺してしまっており、これがどういう状況なのか整理する気すらも起きない。
長時間椅子に座っていると、腰が痛くなってくるし、臀部の感覚も無くなってくる。体も凝り固まってきてしんどいな。
なんかもう、身体自体、いらなくない?
と思った瞬間、俺の背中に白く美しい翼がバサッと生えた。
何が起きているのか考える間も無く、俺の身体は勝手に動き、パソコンの画面の中へとダイブしたのだった。
…………。
俺は自由に飛んでいる。
大きな白い翼を広げ、このネットワークという空間の中を、自由自在に飛ぶことが出来ていた。
この空間はおそらく俺のパソコンの中だろう。俺は身体を使わずとも考えるだけで文字も打てるし様々な資料を読むことも編集することもできる。
しかし、待てよ?
ここなら誰に見られることもない。自由なんだ。なら仕事なんてしなくても良いんじゃないか?
見たかった動画が見放題だ!こんなに幸せなことがあるだろうか!!
俺はひとしきり欲を解放させた。
遊んでいても誰にも怒られない。最高だった。
もう元の世界など戻りたくない。俺はここで一生自由に暮らすんだ!
しばらくして、俺はこのパソコン内に異常が発生している部分があることに気がついた。
その部分へ行ってみる。
データの数字や文字でできた扉を、ゆっくりと開けた。すると。
「な、なんだこりゃぁ…。」
たくさんの人間が、皆ぐったりと重なり合って倒れていた。
それはまるで、使用済みのクタクタボロボロになった雑巾が無造作に積み上げられているような様だった。
よく見ると、見覚えのある顔ばかりだ。なんと、失踪したと思っていた同僚達がここにいた。
「一体…どういうことなんだ。」
俺はそのあまりにも異様な光景に、思わず吐き気をもよおした。
「あららぁ、いけないねぇ。仕事をサボってこんなところで油売ってるなんて。」
突然背後から声が聞こえたのだが、その声に反射的に身震いをした。全身が拒絶反応を起こしている。
「ぶ、部長…?なぜ、ここに…。」
その声の主は、あのクソ野郎だった。
「なぜって、俺はこの空間の管理もしているからねぇ。君、さっきいろんな動画見てたでしょ。あれやこれや。性欲まで発散させちゃってさ。あれ、全部俺に見られてたよ。」
背筋が凍りついた。
待てよ、どういうことだよ。というかなんだよこの空間は。俺はどうなっちまってるんだ。これは現実なのか?わからなくなってきた。全てがグニャリと歪む感覚。
先程までは自由への喜びに溢れて、この現状や空間についてさほど深くは考えていなかったのだが。
部長の目を見て、俺はハッキリと悟った。
ここは自由の空間などでは全く無いと。
「さ、休憩は終わりだ。君にはこれからここで絶え間無く働いてもらうよ?この空間では病気になんてならないんだ。電気のエネルギーで君は食べなくても生きていけるし。」
「あの…なら、あの同僚達は……。」
俺は雑巾のように重なり合っている同僚達を指さした。
「ん?あぁあれかい。ここでは人間の身体と魂を無理やりデータ化してこの空間で生きられるようにしてるからね、精神が途中でそれに耐えきれず崩壊してしまうみたいなんだ。」
部長は無惨な姿になった同僚達を見て嘲笑していた。
「ま、俺はこの空間と現実世界を行き来できるからあぁはならないけど、君はそのうち彼らのようになるだろうね。」
なんだって……?
「だからこうして次々と代わりの者をこの空間へ送ってるんだ。まぁこんなことを言ったところで逃げ場なんて無いし、諦めてその精神朽ち果てるまで働くことだな。」
わっはっはと大声で笑いながら部長は立ち去って行った。
俺は後悔した。仕事を辞めて何もせず生活出来るくらい貯金は貯まっていたはずだ。ならもっと早く退職代行など使えるものを使って辞めればよかったんだ。
意味の無い数字を、意味のあるものにできたはずなんだ。
そして俺は幸せになれたはずだ。
しかし今更後悔しても遅かった。
本当の地獄は、ここから始まったのだった。
誰かがパソコンを操作している。
俺はその者に向かって必死に叫んでいた。
今すぐこの会社を辞めるんだ。手遅れになる前に。
お願いだから、もうこれ以上俺のようになる人が増えないでくれ。
しかし当然、どれだけここで叫んでも外の世界には聞こえない。
やがて、その者の右手がマウスへと変化し、そして左手はキーボードに………。