紫の刺繡の日傘
珍しく部活が休みになったその日、私は近所にあるハンバーガーを売りにしたファストフード店、ワックで勉強をしていた。
勉強がひと段落し、ふと顔を上げると不思議な光景を目にした。
一人の老婆が綺麗な日傘を差して同じ場所をぐるぐると歩いていたのである。
ワックがある場所は駅前の時計広場だ。幾人もの人がいるにも関わらず、誰もが老婆の不可思議な言動に気付いていない様だった。
何故、誰も老婆に声を掛けないのかが不思議だったが、今のご時世ではそれも仕方が無い事だろう。SNSが普及してからはトラブルが増え、迷子の子供にすら声を掛けられないと言う人が沢山いる。
私もトラブルに自分から関わろうとは思えなかった。
再び勉強に戻ろうとしたが、それからも何度も視界に写る老婆が気になり、気が付けば店から出て老婆に声を掛けていた。
「何かお困りですか?」
「あら、あら。そうなのよ、少し道に迷ってしまって……」
遠くからでは分からなかったが、老婆は庶民とは違った気品を纏っていた。服も白を基調にしたレースのブラウスや、陽射し対策であろう白い手袋は肌触りの良さそうな高級品に見えた。
けれど、それらの服はどれも新品なのに、白を基調として紫の花の刺繍が施された日傘だけは使い古されて歴史を感じさせた。
私の視線に気付いたであろう老婆は、日傘をくるりと回す。
「ああ、これねえ……」
老婆はゆったりとした口調で、まるで小雨が降り出すかの様に語ってくれた。
「実はね、私のお母さんの物なのよ」
私が「綺麗ですね」と言えば、老婆は嬉しそうに微笑んだ。
「そうでしょう? まだ私が小学校にも入っていない時に、泣いてねだって、お母さんが渋々譲ってくれたの」
老婆の年齢は明らかに七十から八十を跨いでいるだろう。その老婆の母となれば、恐らく相当昔の代物だ。だと言うのに日傘に痛んでいる様子は無く、むしろ最近に作られている日傘などよりも美しかった。
大切な思い出をなぞる様に、老婆は日傘をくるくると回した。
その仕草の一つ一つが気品を感じさせた。
「あっ、そう言えばどこに行こうとしていたんですか? 案内しますよ」
「ああ、そうだったわ。親戚の家に行こうと思ったのだけれど、この辺りの様子もすっかり変わってしまって迷ってしまったのよ」
聞けば、老婆がその親戚の家に行ったのはもう二十年以上も前の事らしい。この辺りは十年前に都市開発が行われて風景がすっかり変わってしまったため、老婆が道に迷うのも仕方が無い事だろう。
住所を見せて貰うと、友人の家の近所だったため案内出来そうである。
「少し歩きますけど、大丈夫ですか?」
「ええ。散歩が趣味だから、少しくらいの坂でもへっちゃらよ」
老婆が自慢げに言うのだから、私もくすりと笑ってしまった。
それから私は老婆を連れて、その住所の方にまで歩いて行った。
「あら。この辺りに婦人服屋さんは無かったかしら?」
「ああ、それなら……。十年ほど前にもう無くなって……」
「あら……、そうなのね」
都市開発が進められる過程で必然的に古くからあった店は淘汰され、ほとんどが閉店してしまった。
老婆が言った店は見た覚えがあったが、その店も都市開発の波に呑み込まれ、その跡地はコンビニになっていた。
「その婦人服屋さんはね、この日傘を母が買った場所だったらしいのよ」
「へえ、そうなんですか? そんなに長い事あったお店だったんですね」
記憶にある店の建物は何十年もあった事を感じさせなかった。もしかしたら、何度か建て替えていたのかもしれない。
「この傘は、そこのお店の店主の趣味で作られていたものでね、お母さんが我儘を言って売って貰ったそうよ」
「……似た者親子だったんですね」
その話を聞いて私は老婆も母に泣いてねだって譲ってもらったと言っていた話を思い出した。親子で同じことをするなんて、きっと仲が良かったのだろう。その思いで言ったのだが老婆は薄い瞼をぱちくりと瞬かせると「そうね、そうだったのね」と笑いながら言った。
「ふふ。そんなことを言ってくれたのは貴女が初めて」
傘をくるりと回す。
「でも、そう言われてみるとそうなのかもね。ラベンダーの花言葉は知ってるかしら?」
私は首を横に振る。
「私の家ではね、花の贈り物をしたら花言葉の願いをする文化があったの。ラベンダーの花言葉は沈黙、期待、不信感、疑惑、そして私に答えてください。……その通りだったのかもね」
老婆は過去を匂わせる事を言いながら、追及をさせない雰囲気を醸し出していて、私は何も聞く事は出来なかった。
ようやく都市開発で新しくなった駅近くから住宅街に入ると、日傘の刺繍と同じラベンダー畑が目に入った。ちょうど季節の今は満開に咲き誇っていた。
「良かった。ここはまだあったのね」
老婆は少し安心した様に、それでいて懐かしそうに言葉と零した。
何か思い出があったのだろう、ラベンダー畑よりも遠くを見ている様に見えた。
「ここで、私はお母さんと別れたのよ」
「別れた……、ってどういう……」
「そのままの意味よ。私は、お母さんに置いて行かれたの」
その衝撃の事実に、驚きのあまりに言葉が出せなかった。
「十歳になって間もない時だったからしらね。私はここで、お母さんに置いて行かれた。走って追いかけ様としたけれど、転んでしまって……。ただ去って行くお母さんの背中を見ている事しか出来なかったわ」
開いた口が塞がらなかった。
老婆の言葉に波は無く、ただ静かに事実になぞって淡々と語っていた。
けれど静けさの裏で、微かに声が震えていたのを私は聞き逃さなかった。
どうして? どうしてなの、お母さん? 声にならない声が聞こえる様だった。
「お父さんのことは嫌いじゃなかったわ。でも、やっぱりお母さんと一緒に居たかったなあって今でも思ってしまうのよ。……ふふっ、我儘でしょう?」
そんな事無いですよ。そう言いたかったのに、この何十年もの間、老婆がどんな想いで生きて来たのかを考えれば、その一言が中々言い出せなかった。
「さあ、行きましょう。これ以上、貴女の時間を使わせるわけにいかないわ」
そう言って、老婆は歩みを進めた。
先ほどまではぴんと立っていた背筋が少し曲がっていた。
なんて声を掛ければいいのだろうか。
いや、今声を掛ける資格も、かける言葉も私は持ち合わせていなかった。
口惜しさを残し、老婆の跡を追おうとしたその時だった。
「あら、綺麗なルピナスの刺繍ね」
恐らく、農作業をしていたであろう麦わら帽子を被った御婆さんが声を掛けて来た。けれど、不思議だったのが老婆のラベンダーの刺繍を別の花の名で呼んだ事だ。
「ルピ、ナス……?」
老婆も動揺し、首を傾げた。
「ええ。六十年前のルピナス畑を思い出すわ」
御婆さんは、今咲いているラベンダー畑を見渡しながら、それでいて昔を思い出す様にと奥を見定めて語り出した。
「綺麗に咲いていたのよ、本当に。けれど山火事が起きてしまってね、ルピナスは全滅してしまったの。またルピナスを育てようとしたのだけれど、この畑の持ち主がラベンダーとルピナスを間違えてしまってね。笑っちゃうでしょう? せっかく植えたラベンダーを抜いてしまうのも可哀そうだから、そのままラベンダー畑になってしまったのだけれど、その日傘の刺繍は当時の畑にそっくりなのよ」
「ラベンダーじゃ……、無かった……」
今まで、ラベンダーの花言葉通りに「沈黙」や「私に答えて下さい」だと思っていなのに、そうじゃなかったと分かった老婆の肩は微かに震えていた。
「ルピナスの花言葉はーーーー!?」
私が食い気味に聞くと、御婆さんが優しく微笑んだ。
「想像力、貪欲、そしてーーーー」
「――――いつも幸せ、あなたは私の安らぎーーーー」
「ふぐぅ…!」
老婆は耐えられない様子で、地面に膝を突いた。
その頬にはいくつもの涙が流れ、傘を閉じて、抱き締めた。
私も感極まって、止めどない涙が頬を伝う。
何の事か分からない御婆さんは右往左往していたが、しばらくの間、私達は涙を流し続けた。
数日後、私の家に一つの荷物が届いた。
送り主は老婆だった。
開けてみればいくつかのお礼の品と一緒に、ルピナスの絵を挟んだ栞が同封された手紙が入っていた。
老婆は余生でルピナス畑を作る事にしたらしい。
もう老婆の母は生きていないだろうが、それでも天国に向けて「私も幸せだったよ」と伝えられる様に、それは大きなルピナス畑を作りたいと手紙に書いてあった。
そして手紙にはいつか私にも来て欲しいとも書かれていて、私は「是非行かせて下さい」と返事の手紙を書いた。
それから十数年後、美しいルピナス畑がとある県で観光名所として雑誌に載る程になったのだが、それはまた別の話だーーーー。