敗北とアリバイに
「そうだな……まずは分かりやすくするために全体の流れを説明しようか。これなら確実に生きていた時間を絞り込める」
僕は頷いた。
「パーティがお開きになったのは九時半を過ぎたころだった。実業家の妻があくびをしたのを皮切りに、そろそろ終わろうかという雰囲気が流れ出して寝室に戻るものがちらほらと出始めたんだ」
「場の空気で全員がバラバラに寝室に戻って行ったわけですね?」
教授は頷く。
「十時になるころに画家先生は妻と共に部屋へ戻り、息子も続いて戻って行った」
……なんだか最初に聞いた話と矛盾する。
「ああ、息子は夜中にもう一度ロビーに戻ってきてから飲み始めたんだ。十一時頃に出てきて、探偵が君もどうだと勧めるのを受けて飲み始めたらしい」
なるほど。そういう事か。
「最初に言った通り、探偵とその友人、それに実業家の三人は一度も部屋に戻っていない。実業家の妻は十一時頃に、小説家夫妻は十二時前……十一時四十五分頃に上へ行った」
かなりバラバラのようだ。
しかしこの情報はあまり重要じゃないように思える。
あのメモに書かれていた十二時という時間より後に姿を消した人物が存在しない以上、誰でもあり得るのだ。
アリバイという意味では事件当時ロビーにいた人間以外に証明できないのは変わらない。
「もう一つ伝える必要があるのは、画家の妻の証言だ。これが時系列的に最後の目撃証言となる。いつもより早く床についた画家に、彼女が寝酒は良いのかと尋ねに行ったという。いつも習慣にしているものなのだが、今日は宴会の席で尋ねそびれたそうだ」
「その時間って言うのは……」
「十一時頃に画家の部屋へ行き、今夜は良いと断られたそうだよ」
十一時頃か。死亡推定時刻をさらに絞れそうだ。
「十二時頃に来客があるようですから、そのために……」
先輩は呟く。
宴会の席だというのに早めに床に就いたのも、メモのせいなのだろうか?
とりあえず分かったのは十一時にはまだ亡くなっていない事だ。
これはかなり大事な情報かもしれない。
「これ以上の情報が得られるのは……二人で行動していた小説家夫妻でしょうか。ここについて何か情報は?」
先輩の質問に、教授は目を輝かせる。
「まさに。小説家に不利な証言というのがあるのだよ。これは妻の証言に限らず裏が取れているのだが、小説家は十二時少し過ぎに一度、煙草を一服しに階下に降りてきているのだ」
例の時間か……
しかし部屋で吸わず、煙草のためにわざわざ階下に降りてきたのか。なかなか律義な人だ。
「煙草はどこでお吸いになったんですか?」
「正確には分からないが……ロビーを通って廊下の方へと向かっているところを見るに、換気扇のあるキッチンへ向かったのではないかな:
「誰もその姿を確認していないわけですか」
教授は頷く。
ロビーにいる人からは廊下が見えないらしい。
「でもどうしてわざわざ一階へ降りてきて吸ったんですかね。二階の適当な窓を開けて吸えばそれでいいんじゃないですか?」
先輩が怪訝な表情をする。また何か変なことを言ってしまったか。
「二階には人が寝ています。そんな中で窓を開けたら大きな雨音で迷惑になるでしょう」
先輩の言葉を補足するように教授は言葉を引き取る。
「その通りだ。ちなみに、小説家は一度二階の窓を開けている。しかし音がうるさいのに気が付き、すぐに閉めて下に向かっているんだな。実際、妻はその音で目を覚ましている。妻の証言というのはそのことだ」
部屋の中で寝ている人間にも聞こえるほどの音だったのか。
相当な土砂降りだったみたいだ。
「彼はその後お手洗いにも行ったと証言しており、妻によると部屋へ戻ってきたのは十二時半を過ぎたころだという。行きはロビーの階段を使って降りてきたのだが、帰りは裏の階段を使って帰ったらしい」
「……つまり、帰ってきたところを証言できるのは妻だけという事ですか」
急に怪しくなってきたな。
時間的にあのメモ帳と符合するところがあるし、帰った時間の証言が身内だけというのは気になる。
「でも……画家を殺すために階下に降りたのなら、わざわざ人目につくロビー側の階段を使いますかね?こっそりと降りてきてこっそりと戻りたいのなら行きも帰りも裏の階段を使った方が良いと思うんですけど」
「疑問はもっともだと思います。あえて説明を付けるとしたら……万一廊下を歩いているところを見られた時に怪しまれないための口実でしょうか」
ふむ。一応説明はつくが……少し苦しいか。
「他に何か証言が出来る人はいないんですか?誰かを見たとか足音を聞いたとか……」
教授はまた時計をちらりと見た。
つられてみると、十九時二十五分を示していた。
残り十五分ほどしかない。
が、教授はまだ十五分もあると考えたのだろうか、また一つ提案をしてきた。
「そうだな……無いことは無いが、ここも君達にやってもらおうかな。訊きたいことがあれば訊いてみてくれ」
ここから先は自分で考えないといけない訳か。面倒だな。
束の間の傍観者の時間は終わり、再び頭を働かせる。
「一つ気になった事があるんですが」
ようやく考えがまとまった僕は口を開いた。
教授は頷いて続きを促してくる。
「とりあえず、小説家が犯人であると仮定します。すると、彼が煙草を吸いに行った帰り、もしくは吸わずにそのまま画家先生の部屋へ向かったということになりますよね。そしてそこで画家先生を刺し、自身の痕跡を消すためにガラスを割って外へ凶器を放り投げた。とするのが自然な流れかと思います」
「そうだな。今の所状況証拠的にはそうなる」
「となると、問題はその後の行動です。小説家はガラスを割って外に凶器と手袋を投げ捨てた後、裏の階段を上って部屋に戻る必要があります。一方、ガラスの割れる音を聞いた探偵ら四人は、すぐに二手に分かれて上に行っているはずですから……そこに間に合うようにしなければいけない事になります」
教授は頷いた。心なしか嬉しそうに見える。
「しかも、二階の部屋割りは犯人にとって最悪の間取りです。なんせ彼の部屋は手前の階段から一つ目の部屋、つまり裏の階段から最も遠い部屋になっているわけですからね。現場からすぐに離れ、階段を駆け上って一番奥の部屋まで行くとすれば、そこそこの時間がかかるはずです。しかしまぁ、不可能かと言われるとまた微妙な所です。そこで質問なんですが、探偵の友人が小説家の部屋を訪れた時、小説家は息を切らしていましたか?また、裏の階段に比較的近い部屋に寝ていた事業家の妻は、何か大きな足音らしきものを聞いていますか?」
「答えはどちらもノーだ。小説家に息を切らしている様子は無かったし、事業家の妻は大きな音は何も聞いていないと証言している」
やっぱりそうか。
「もう一つ確かめるべきは探偵の友人が事件発生からどのくらいの時間で二階へ上ったか、でしょうか」
確かに。話を聞いただけではその時間の感覚が掴みにくい。
「探偵は、音を聞いたその瞬間に捜索を始めたわけでは無いんですよね」
「そうだな。少し話をしてから行動を始めている」
ガラスを割って凶器を外へと捨てる。ドアを開けて階段を駆け上がり、自室へと戻って息を整える。これがその時間で可能かどうか。
「まぁ無理があるでしょう。これは不可能と断定して良いと私は思います」
先輩は言い切った。正直同感だ。
急げば不可能ではないが、急げば息が上がってしまうという二律背反になっている。
「となると、この説はあり得ないことになるわけですが……」
ここまで言って一つ気が付く。
同様の理由で、小説家の妻もまた同じことは不可能ということになる。
五十代の小説家に比べれば四十代の細君は多少動けるだろうが、それでも無理がある。
「はっきり白とは言えませんが、少なくとも今の仮定は偽であるということになりそうですね」
教授はにこにことしている。楽しくてたまらないといった顔だ。
だが、現状は一つの仮説が崩されただけ。真実に近づいたかと言われるとそうではない。
他の可能性……例えば……
「ガラスを割った人間と殺人をした人間が違うとか……」
「いえ……それは無いでしょう」
先輩が反証をしてきた。
「ガラスを割った目的が凶器を外に捨てて雨に洗わせるということである以上、それはあり得ないです」
あっさりと論破された。これは普通に自分の考えが至らなかった。
目的が明白である以上、全く別の人たちの行動が上手くかみ合ったということは無さそうだ。
となると、一連の行動は一貫して犯人によるものだと考えられる。
「小説家夫妻はとりあえず犯人候補から外れることになりそうですね。犯人は窓ガラスを割った人間であるということは変わらないわけですから」
窓ガラスを割った後に何食わぬ顔で部屋に戻るのが困難である以上、犯人からは外れる。
そこに何か仕掛けがない限りは。
「例えば……深夜十三時に皆が聞いたガラスの割れる音は窓ガラスの音ではないとか」
不意に思いついたアイデアを口にする。
「そう、あらかじめ窓ガラスは静かに割っておいて、任意のタイミングでガラスの割れる音を鳴らすことでアリバイを成立させたんじゃないですか?」
先輩は考え込む様子を見せたが、すぐに口を開く。
「なら、画家の妻に訊いてみます。自室で寝ていた時に、急に雨の音が大きくなったと感じることはありませんでしたか?」
「そうだな……あえて答えるとしたらガラスの割れた音の後から強く聞こえるようになったと答えるかな」
そうか。隣の部屋の窓ガラスが割れれば、そこから外の雨音が聞こえてくるはずなのか。
この証言からして、あの音が窓ガラスの割れた音というのはほぼ間違いないようだ。
「そもそもガラスを割る音を出すというのはかなり面倒なはずです。事後に、バレないようその処理をしなければいけないわけですからね」
容赦なくとどめを刺された。
いい考えだと思ったんだけどな。
「他には……ガラスの熱割れを用いて、その場にいることなくガラスを割るとか」
部屋の中と外の温度差によってガラスが割れるという現象。これを何とかして意図的に起こすことが出来ればアリバイを示せそうだが……
「熱割れですか。部屋の中には暖炉があったわけですしありえなくは無さそうですが……これは調査をすればはっきりするでしょう。ガラスが割れて空いた穴から放射状にひびが出ていれば、おそらく熱割れではなく外的な衝撃で割れたと考えられます」
「そうだな。それくらいは見分けがつくだろう。ヒビの様子を見るに、熱膨張による割れ方ではないと断定出来る」
これもダメか。
そもそも事件当時暖炉の火は消えていたんだし、温度差という意味ではあまり良い状況じゃなかっただろう。
「今のようなトリックが使われていないとも限りませんからその考えは大切だと思います。ですが、凶器が犯人によって持ち込まれたものでない以上、殺人が計画的に行われた可能性は低いです。そういう考察は、トリックが用いられた証拠が挙がってから考えても遅くないでしょう」
言いながら手元のメモを覗き込む。
おっしゃる通りだ。別に僕だって小説家夫妻をどうしても犯人にしたいわけでは無い。
「今の議論でとりあえずは容疑者の内の二人が除外されました。残る人は実業家の妻、画家先生の妻の二人に絞り込まれる、ということになります」
先輩は続けて言った。
「そして残る二人ですが……これらの犯行が画家の妻によって行われたとはどうしても考えられません」
それに関しては同意したい。僕は先輩の言葉を待つ。
「一つは事件当時の事ですね。探偵が音の出どころを探して廊下を進んでいる時に、画家の妻が廊下へ出てきたとありましたね。その直前まで眠っていた彼女は瞳孔が開き切っていたのでしょう。廊下の明かりがまぶしく、手で目を光から遮るようにしていたそうですが、これを演技で行うというのは考えづらいです。瞳孔の拡大というのは反射ですからね、意識的にできるものではありません」
なるほど。全然気にも留めていなかったが確かにそうだ。
「できればその時の瞳孔が本当に開いていたかどうかを聞きたいところですが、流石に細かすぎて覚えていないでしょう」
そりゃあね。
「それを補強する二つ目……状況証拠にはなりますが、メモがそれを示していると考えられます。ただ夫と話す機会を得るために、あのようなメモを使うでしょうか?先ほどの証言にもあったように、彼女は寝酒を持っていくかというお伺いを立てています。何かしたいのであればその時でも良さそうなものです」
夫と会うために約束を取り付けるというのはあまりに不自然だ。
メモを渡して約束を取り付けなくとも、家族ならば扉を叩くだけで喜んで部屋に入れてもらえるだろう。
もちろんそれが偽装だという線はあるけれど、メモが燃やされているということは、そのメモは犯人にとって不利な証拠であるはずだ。
つまり、偽装の線は薄い。
「最後に残った実業家の妻の犯行の可能性を検討してみましょう」
先輩は続ける。
「位置関係としては、十分可能だったでしょう。彼女の部屋は空き部屋を除いて最も裏の階段から近い位置にあります。もし急いで階段を駆け上がって息を切らしていても、探偵の友人らが来る頃には息を整えるのはそう難しいことではありません」
そうなのだ。
彼女はこの館にいる人間の中で唯一、犯人ではないという根拠を持たない。
論理的に考えれば、彼女こそが犯人だと言える。
しかしまた……犯人であるという証拠がないというのもまた事実。
「犯人は実業家の妻、というのがわたしの結論です」
先輩は教授の目を見つめて言った。
「事件当時アリバイのない四人の中で二人は実行が物理的に不可能。そして犯人を妻だと仮定すると説明のつかないことがあるため除外。残った実業家の妻に犯人では無いという否定材料が一つもない事から、犯人であると考えます」
「君の結論は、それでいいのだね?」
教授の念押しに先輩は頷いた。
君は?と言う風に僕の方にも視線が向けられる。
確かに先輩の理論は正しい。
一つ一つの根拠が覆すことのできないしっかりしたもので固められている。
一つだけ訊いておく。
「あの……この問題ってハウダニット(How done it.どうやったのか)でいいんですよね。動機なんかは全然わからないんですが……」
「ああ、もちろん。私はここまで、彼らの人間関係については何も説明していないからね。ホワイダニット(Why done it.なぜやったのか)に関してまで当てられたらそれはもう超能力者だ。万が一それを示すことが出来たらなんでも言うことを聞いてやってもいいぞ」
おちゃらけた様子で教授は言う。
そう……か。
確か実業家の妻は今回初めてこのパーティに出席していて、場の空気になじめずに早めに寝室へと戻っているはずだ。
当然被害者との関係は薄く、動機という面では考えにくいと思っていたのだが……
それを考慮しないのなら、現状の情報からして彼女を犯人だと考えるのは合理的だと言える。
「もしかしたらこのゲームが終わった後に動機が分かるかもしれないが……とにかく、ゲーム上では全く必要のない事だ。先入観にとらわれないという意味では、そちらの方がやりやすいだろう」
それはそうかもしれないが。しかし何か少しでも反論の材料が欲しい今、動機という面で事件が見られないことがもどかしい。
このまま先輩の意見を認めると、ゲームには負けたことになりサイドメニューが食べられなくなる。
しかし、そんな理由でこれを認めたくないのではない。
言いようのない違和感が、何かを訴えかけている。
その違和感の正体が分からないながらも、あがくしかない。
しばらく考えた末に、僕は口を開く。
「実業家の妻は、このパーティに今年初めて来たんでしたよね」