レモン味のラムネ(終)
秋実さんは玄関でニャー助の喉を撫でて「行ってくるねー」と極めて略式のお別れを告げた。
「どこに行くの?」
スーツケースをトランクに積み込んだ後、私は一応聞いてみた。彼女は唇に人差し指をあてて、いたずらっ子のように笑った。
「海ん方」
「そんな大ざっぱな」
秋実さんという女は。
私は諦めて彼女の出方を窺うことにした。
秋実さんの車に揺られ、ドライブを続けること三十分。
車窓から見える景色がレモン畑から住宅地、商店街と目まぐるしく変わっていく中、秋実さんはカーオーディオから流れる歌に合わせてさっきから鼻歌を歌っていた。彼女の再生リストにあった曲はどれも「恋はラムネ色」や「First Kiss」、「American Man in London」など何かが違う曲ばかりだった。
やがて「道道 175 南海道」という標識を通り過ぎると、いよいよ海沿いの道に入った。
ガードレールの向こう側にはすぐ津州灘が広がっていて、水平線の彼方まで青い海と青い空が続いていた。私はしばし車窓からの大パノラマを一望した。
「まーすぐ着くげん」
私が海に気をとられていると、目的地周辺に着いたのか不意に秋実さんが私に声を掛けた。
彼女の声を聞いて海とは反対側の方を見やると、道路沿いに「辰巳宮」と書かれた建物が見えてきた。
次第に近づいてきたそれは小さな首里城のような見た目で、派手な装飾が施された柱に破風のそり上がった赤い屋根が乗っていた。
道教のお寺だろうか。
「五神送り」というお祭りもあるぐらいだし、奈津崎県には何か土着の信仰があるのかもしれない。
駆け落ちと聞いてついてきたが、到着したのがお寺とはいかに。
「ここが目的地?」
私が尋ねると、秋実さんは無言で頷いた。しかし彼女はお寺の前のスペースに車を駐車すると、私に車の中で待っているように言って一人でお寺の中に入っていってしまった。おかげで私はこの後車中で暇を持て余した。
三十分ほど経ってようやく出てきた彼女に私は尋ねた。
「……何してたの?」
すると彼女は自分の腰を軽く叩いて、情けなく笑った。
「何か憑いちゅんざ、たぶん」
何でも、最近腰痛がひどいらしい。
腰痛改善祈願が終わり、帰り道に私たちは波が浜港に寄った。フェリーや漁船が停泊する港の周りには、時代の変化から取り残されたような鄙びた雰囲気の漁村があった。私たちは車を降り、しばらくその町を散策した。
コンクリート製の堤防沿いに古民家や個人経営の商店が立ち並ぶ道を歩きながら、私は秋実さんに尋ねた。
「ここは?」
「波が浜。最近ぜぁ観光地になっちゅる」
そう言えば、ここからは奈津ヶ島に行く船が出てるんだっけ。
私が一昨日の会話を思い出しているぼうっとしていると、前を歩いていた秋実さんが「来っ、来っ!」と言ってとある店の方へ手招きした。
彼女に導かれ、私はその昭和の駄菓子屋さんのようなレトロな雰囲気のお店に足を踏み入れた。
店内には色とりどりの駄菓子が所狭しと陳列されていた。
「見てみ、可愛せっぱ?」
彼女は子供のように大はしゃぎで、プラスチック製のボトルに小分けされた可愛らしいキャンディーやドライフルーツを指さした。
どれどれ。
しかしよく見てみると、マンゴーだの甘草だのあまり馴染みのない味のものが多い。一見気づかないが、売っているものが私の知っている日本のものとは微妙に違っている。
私は陳列棚に並んだお菓子を一つ一つ手に取ってよく見てみた。
「『チョコテック』って……。これ、ポッキーだよな……?」
どう見てもポッキーのチョコスティックや風船ガム、裂きイカ、そして絵の具のチューブ型のチョコレート――
それらはパッケージデザインこそ似ているものの、私が幼い頃目にしたものとは製造元が異なっていた。
「何か買う?」
パクり商品のような駄菓子の山を前に頭を悩ませていると、秋実さんが後ろから声を掛けてきた。
振り向くと、秋実さんはまだ店内にいるというのに手に持っていた商品の包装を破っていた。
「きっちゃんむパプシクル食うけ?」
アイスをベロベロなめながら平然と聞いてくる彼女に私は慌てた。
「……そのアイス、もう会計済んだの?」
「『アイス』は氷ん意味ざっぱ?」
「英語できるアピールはいいよ。そうじゃなくて、店の外に出てからにしようよ?」
すると彼女は腑に落ちないというように首を傾げた。
「まぁ、後で金払うし良せっぱ」
まだ買ってなかったのか。
こちらに来てから文化の違いに何度も驚かされている。
「金くれるげん、早ぁ選び」
彼女はそう言って私にお金を渡し、自分は店の外に出ていった。
この場合、金を「あげる」じゃないか。
彼女の独特な日本語に今度は私が首を傾げた。
その後、私は駄菓子屋の冷蔵庫に入っていたラムネを購入し、急いで彼女を追いかけた。
その後、私たち二人は海辺の道端のベンチに腰掛けた。
煌めく太陽の光と寄せては返す波の音。奈津ヶ島へと向かって飛ぶ鳥たちの群れが青い空に溶けていくように小さくなっていく。
冷えたラムネを片手に、私は彼女の隣で目の前の海を鑑賞した。
そういえば、久しぶりに海に来た。
「ありがとね、奢ってくれて」
秋実さんにたかってばかりで悪かったので、私はちゃんと感謝してからラムネの瓶を開けた。
「支障無せ」
日の光に照らされて、秋実さんはこれまたいつものように微笑んだ。私は一見何の変哲もないそのラムネを飲んでからある異変に気づいた。
この柑橘系の爽やかな酸味はひょっとして。
「へー、このラムネ、レモン味なんだな!」
私はやっと気づいた。瓶にはただ「ラムネ」としか書いていなかったので、買った時点では私は全く気づいていなかった。
「さすが奈津崎県、レモン味のラムネとは洒落てるね」
すると秋実さんは私の言ったことに苦笑した。
「『レモン味んラムネ』て……。何言うちゅんざ、きっちゃん」
何かがツボに入ったのか、彼女はそのままケラケラと笑っていた。
意味が分からず、私はとりあえずレモン農家の機嫌を損ねないようにとりあえずラムネを褒めた。
「いや、ちょっと酸っぱいけど、これはこれでおいしいと思うよ?」
すると秋実さんは食べてしまったアイスの棒をこちら向けて、聞き分けのない子供を諭すようにこんなことを言った。
「さーぜぁらん。ラムネはレムン味に決まっちゅるっぱ?」
「え?」
彼女はここで簡単な奈津崎弁講座をしてくれた。
「ラムネは英語ん『ラムネイヅ』ん略ざっぱ? ラムネがレムン味なんて当然ざ」
「らむねーず」という言葉を頭の中で何度も口にしてみて、私はある単語に思い至った。
「……ひょっとしてそれって『レモネード』のこと?」
彼女はブッ、と吹きだした。
「さーざ。レムン使ぁちゅらんラムネイヅなんて可笑しなせ?」
そこまで考えて、私はやっと理解した。確かに「レモン味のレモネード」では冗語になってしまう。
「きっちゃん、本に変な発音ざね」
「いや、アナタが変な発音なんでしょ……。って、あっ」
そこまで言って、私はまた彼女がおかしいと言ってしまっている自分に気づいた。
田中さんに言葉の間違いを指摘されて憤っていた癖に、奈津崎県に来てからというものの私はずっと秋実さんや貝久保さんの日本語を直そうとしている。あれだけ社会からずっと普通であることを求められ辟易していたのは自分だったはずなのに。
そう考えたとき、私が今まであれほど追い求めこだわってきた普通がなんだかとてもつまらないことに思えてきた。
レモンが入っているわけでもない甘酸っぱい炭酸水をラムネと呼んでいる私たちの方が実はよっぽどおかしいのではないか。
そんなことを思いながら私はレモン味のラムネ、もといただのラムネを飲んだ。
ボー、という汽笛の音が港町に響き渡った。
「あれ見、外国行く船ざ」
彼女が指し示す先を見やると、岬から遠く離れた海上にちょこんと小さな船が浮かんでいるのが見えた。行き先がどこなのかは分からないが、フェリーは南へ向かっていた。
「あれで本に駆け落ちする?」
秋実さんは甘えたような声を出して、私の肩に首を乗せてきた。
私が反応に困ったように黙っていると彼女はブッ、と吹きだしてバンバン、と肩を叩いた。
「ざれてだけざて!」
彼女は大笑いした。
しかし彼女のこの態度に、私は少しカチンと来てしまった。
「もう、そういう冗談はそれぐらいにしてよ」
「?」
私はちょっと秋実さんを困らせてみることにした。
「急に泊めてくれて秋実さんにはすごく感謝してるんだけど、今まで秋実さんが俺に言ってきたことを総合するとさ」
「うん」
「俺はもともと高野県かどこかの出身なんだけど、なぜか子供の頃数年間だけ奈津崎県に住んでて、一時期秋実さんと同じ小学校に通ってた、ってことになるんだ」
「……うん」
「その後俺は突然どっかに引っ越して、二十年近く音信不通になってたんだけど、三十歳になって『五神送り』の二日目にたまたま奈津崎県に戻ってきて、たまたまその日の夜に山明大社に行ったら、これまた偶然二日目の夜あそこに居合わせた秋実さんと再会したんだよね?」
私はこれから先しばらくそういう設定で過ごさないといけないのである。
すると秋実さんは必死で反論してきた。
「いやっ、山明さんにゃ毎年行っちゅる! 幡宮にゃ、高校時代ん友達が居るげん、あん日む友達つ会ぁちゅってんざ!」
そういうことじゃないだろ。
あくまでもごまかす気でいる秋実さんに私は最後の手段に出た。
「一昨日の夜さ、『佐藤幾多郎くん』って呼んでくれたじゃん?」
秋実さんは視線を逸らしたまま答えた。
「……うん」
「どうして、俺の名前知ってたの?」
秋実さんは私に声を掛ける前から私の名前を知っていたようにも見えた。
「すりゃ……、まぁ……」
秋実さんは言葉を詰まらせた。はじめ、私は奈津崎県が異世界であることを考慮し、あらゆる可能性を検討した。
「秋実さんって、前世の記憶とか信じてるタイプ?」
「あ? いや、別に信ずちゅらん」
「テレパシー使える? 実は超能力者とか?」
「いや、何ちゅうけ……」
「魔法少女だったりは?」
「さすがにすりゃありえんぱ?」
先ほどからの厳しい追及に秋実さんはタジタジになってしまった。
そして私は今までの情報をもとに一番現実的な仮説を出した。
「それとも、単にマサイ族並みに視力がいいの?」
私は車に置いてきたスーツケースのことを思い出していた。今朝ももう一度見たが、スーツケースの取っ手にはちゃんと佐藤幾多郎と書かれた小さな名札がついていた。五年前の旅行では飛行機に乗ったこともあり、紛失を防ぐため名札を付けておいたのだった。
しかしあの距離から私の名札が見えたとも思えず、私は最初その可能性を除外していた。
尤も、私がまだ秋実さんと出会う前、祭り会場でたまたま彼女の近くをすれ違ったときに名札を見られていたとしたら、私としても気づきようがないが。旅行者とはいえスーツケースを持って境内をうろついていたら目立つだろうし、実は後をつけられていた、なんて線もあるかもしれない。
いずれにせよ確たる証拠もないので、全ては推測である。
「い……、いきなし何が話ざ、きっちゃん」
秋実さんは顔こそ笑っていたが、彼女の目には動揺の色が見えた。
この反応がどういう意味なのか、今のところ正確には分からない。
だが、最初に秋実さんが私に呼びかけたときの言葉が「きっちゃん」なのも気になっていた。下の名前が「幾多郎」なので本能的に反応してしまったが、あの言葉はこの世界では「君」とか「お前」ぐらいの意味合いで使われている言葉でしかないのだ。
「あの時、俺の名前を呼んでくれたけど――」
それってスーツケースについてた名札を見ただけでしょ、と言いかけて私はためらった。
育ってきた環境が大幅に異なる私にとって、秋実さんに完全に共感することは難しい。それでも私は彼女の状況がある程度想像できた。
海とレモンしかない田舎町。
どこにも逃げられないという閉塞感。
息苦しいほど近い人間関係。
元婚約者と親戚づきあいを続ける家族。
それらから逃げるように、実家から遠く離れた町で行われるお祭りを一人で見に来た彼女。
そして、全てが行き詰ったところに彗星のように現れた私。
それらの要因が重なった結果――
今ここで、彼女を徹底的に問い詰めることもできる。だがそれをしても、私に本当に得はないのだ。
同じ答えに帰結して、私は自分の意思に反することを口にしてしまった。
「すごくうれしかったんだ。あの時秋実さんに会えて、本当によかった」
明らかな嘘だった。私はただ、これ以上彼女を責められなかったのだった。
私の言葉を聞いて秋実さんは驚いたように目を見開いた。彼女は私の顔をじっと見つめていたかと思うと、はぁ、とゆっくりと息を吐いた。
「……さーけ」
彼女は穏やかな表情で、静かに相槌を打った。
「俺む、また会えて良さっけ」
彼女はそう言って屈託なく笑った。その子供みたく純粋な笑顔を見て、私はひとまず安心した。




