離合注意
午後になって、私は貝久保さんの運転する軽トラックに乗り込み、農園のあちこちを回った。
ともすれば、貝久保さんは人懐っこくておしゃべりなおじいさんだった。彼は部外者の私に興味津々という感じで、車内で私と二人きりになるとベラベラと話しかけてきた。
「佐藤くん、秋実っちゃつ同じぐれぇざっぱ? 普段ぬゎ何ガ仕事すつる?」
トラックのエンジンをかけるなり、彼は開口一番にそんなことを尋ねた。
答えに困る質問だったが、さすがに住所不定無職だとは言えないので元いた世界での職業を答えた。
「プログラマーですけど……」
そして二番目の質問がこれ。
「稼ぎは?」
いきなり収入を聞くか、普通。
奈津崎風の初対面の挨拶にカルチャーショックを受けてしまい、私は本気で怒らない程度に彼を窘めた。
「ちょっと、ちょっと……、なんでいきなりそんなプライベートなこと聞くんですか?」
しかし貝久保さんは全く怯まない。
「良せっぱ、別に。うめえ、身ィ固めるんぜぁらんけ?」
話が早すぎだろ。
展開が早すぎると思って、私は全力で否定した。
「ちっ、違いますよっ! まだそこまで――」
「ざが、秋実っちゃった好きざっぱ?」
貝久保さんは眉を上下に動かしてニヤリ、と笑った。
「いや、その、なんていうか……」
正直、まだ会ってから二日目なのでそういう感情を抱く段階に至っていないというのが本音である。が、それを言ってしまうと今晩宿無しになってしまいそうなのでそうも言えない。
「ま、まぁ、まだ出会ったばかりなんで……、これからお互いのことをもっとよく知って、関係を発展させられたらいいかなー、なんて……」
私がモゴモゴしていると、カンの鋭い貝久保さんは全てを見抜いたようだった。
「すったん、大学生みてーな口聞いて……。今まで女な子つ付き合ぁて時ねーけ?」
答えたくなかったので黙秘権を行使。
だが、貝久保さんは口を閉ざす私の微表情を非常に正確に読み取ってきた。
「ハ! やっぱしさーけ。分かりやっせ面すつる」
彼はさらに追い打ちをかけた。
「うめえ、若しかすて処男け?」
「す、砂??」
「バーヂン、て意味ざい。バーヂンけ?」
不意に急所を突かれ、私は発狂した。
「どどど……、バージンちゃうわ」
「空言うな。佐藤くんむ分かりやっせね」
決めつけはよくないと思うんだ。図星だが。
目に見えて狼狽える私を見て、貝久保さんは失望したように額に手を当てた。
「三十ゼ処男なんて、みったーなせな……。俺が二十歳ん時なんて、三峪ん女な子全部掻っ攫ぁてからね……。『レデーズマン挑』て呼ばれつっけ」
貝久保さんは謎のマウントをとりつつ、未来ある三十歳の処男にアドバイスをしてきた。
「男はハッキシすにゃんね。まづは、ビシィ、て自分ガ思い伝えるガ重要ざ。津州一ん色男ん言う事信ず?」
「……なんかさっきよりも規模が拡大してませんか?」
急に前方から車が接近してきて、貝久保さんは「やいやい、離合出来んぱ、くったん道」と呟いた。
その後、私は農園のあちこちに残されたレモンの入ったコンテナを荷台に積み込む作業をすることになった。が、これがまた相当きつかった。
直射日光がもろに照り付ける農道の上で、私はコンテナを一旦道路に下ろしてその場にへたり込んだ。
「腰が……、腰の骨が砕けそう……」
私は地面に直接膝をつき、激しく脈打つ鼓動と荒くなった呼吸を抑えていた。しかし貝久保さんはそんな私にも容赦ない。
「早ぁ歩き、くんダラ助! 暫時やらにゃ日が暮れるち! くれぜぁ、いつまゼん用ガ足さん」
貝久保さんは先ほどから自分はトラックの運転席に座ったまま一歩も動かずに「あん山ん上!」とか、「すくん坂道ガ入って!」などと大声で指示を出し、私を奴隷のようにこき使った。
「ムリですよ……。こんなに大量にあるんじゃ」
貝久保さんに全ての作業を押しつけられて私はヘトヘトだった。
おじいさん方が腰を痛めてしまうということで、私が代わりにやっているのだが、それにしても量が多い。その上、コンテナの一つ一つが鉄くずでも入っているのではないかというぐらいとてつもなく重い。
へこたれる私を見て、貝久保さんはハン、と鼻を鳴らしてバカにしたように笑った。
「若っけんに、効が無せな! 俺が若っけ時なんて、水泳部んカプテンざってからね……。『ビッキん挑』て呼ばれつってげん」
過去の栄光を自慢することに余念がない貝久保さんにウンザリしながら、私はもう一度コンテナを抱えてトラックに向かって叫んだ。
「っていうか、『だらすけ』って何の意味なんですかー?」
すると貝久保さんはすぐさまこう答えた。
「『脳留守』て意味ざい。頭カンプスて事!」
方言がきつすぎてとりあえず罵られているということしか分からない。「バカ」とか「頭が空っぽ」とかそういうことだろうか。
「さー言や、うめえマニュアル車ん運転む出来んざっぱ? 最近ガ若っけ衆は効無しざ。俺なんてツラックん免許むあるち」
貝久保さんはスカスカの歯をむき出しにして得意げに笑った。
奈津崎県民のマニュアル車に対するこのこだわりは何なんだろう。
さっきからずっと言われっぱなしで腹が立ってきたので少し言い返してみた。
「でも、このトラックって、貝久保さんのじゃないですよね?」
私は彼の乗っている軽トラックのドアを指さした。そこには「木中レモンファーム」の文字があった。
「仕方無せ。はーヂヂイざげん、最近ぜぁ運転やめて B車ガ乗っつる」
貝久保さんは少し残念そうにぼやいた。
「ビーサン?? 何ですか、それ」
すると貝久保さんはここぞとばかりにまたバカにしてきた。
「脳留守ざな、『バス』が『B車』ゼ、『タクシー』が『T車』ざ。常識ざっぱ?」
なんとも妙な略し方である。この言い方では『タクシー』と『停車』を区別できまい。
「『ナールス』って、新種のウイルスの名前か何かですか?」
私は必死でボケてみた。
しかし。
「『脳留守』て言うガは、うめえみてえなあっぷたれったざ!」
また意味の分からない罵倒語が飛び出して、私は理解するのをあきらめた。
だがとうとう何か怪しいと思い始めたのか、貝久保さんは核心を突く質問をしてきた。
「うめえ、実際づっから来てんざ? 高野県出身ぜぁらんぱ?」
おっと、それは機密事項だ。
説明に困ることを聞かれ、私は答えに窮した。
「私は……、北東道のどこかですよ」
まさか異世界人だとバレるわけにはいかないので、ここは適当に無難なことを言ってごまかすことにした。
しかし、こんなあいまいな答えに貝久保さんが満足するはずもなく、彼はさらに詮索してきた。
「ハッキシ言い、武陽け?」
知らないので答えられない。
「森長け?」
同上。
「広岡?」
めんどくさくなってきたので、とりあえずそこにすることにした。
「……はい」
返事をしながら、私は冷や汗をかいていた。しかし貝久保さんは私の咄嗟の出まかせになんとか騙されてくれた。
「やっぱしさーけ、道理ゼ変な語り方なんざ!」
その言い方は刺さるな。
私はイライラして、ついまた言い返してしまった。
「貝久保さんこそ、さっきから助詞の使い方がおかしいじゃないですか?」
「何ガ話ざ?」
貝久保さんのキャラクター以上に彼の方言が強烈すぎて突っ込むのを諦めていたが、私はとうとう指摘してしまった。
「『道に入る』、『用を足す』、『車に乗る』でしょ?」
しかし貝久保さんは別段間違いを恥ずかしがる様子もなく、先ほどと同じ言葉を繰り返した。
「『道ガ入る』、『用ガ足す』、『車ガ乗る』。何ん可笑しなせ」
なんで何でもかんでも「ガ」なんだ。
いくら田舎のお爺さんとは言え、ここまで文法が崩壊していると意思疎通に問題が生じるはずだ。
業を煮やした私はなんとかして貝久保さんをやり込めようとした。
「じゃあ、『私が窓を開ける』は何て言うんですか?」
「『俺ガ窓ガ開ける』」
「それじゃどっちが主語か分からないじゃないですか?」
「すなんが、『俺がレムンが好き』つ同じざっぱ? 文脈がありゃ分かる」
「それはそうですけど……」
やはりこれは並行世界ではなく、この宇宙に生じたただのバグに違いない。
貝久保さんに言いくるめられてしまって悔しかった私はそう思うことにした。
作業を続けること二時間。
当初は貝久保さんの悪辣な人間性に面食らったが、無事一通りコンテナを荷台に積み終わり、私はトラックの助手席に腰かけて休憩していた。
車内は西日が差していたが、気温が落ちてきたので日中と比べそこまで暑くはなかった。近くを流れる農業用水のせせらぎを聞きながら、私は運転席側の窓を開けて煙草を吸っていた貝久保さんに尋ねた。
「貝久保さんもレモン農家なんですか?」
貝久保さんは苗字からして木中家の人ではないのだろうが、なぜ今日は来たのだろう。
「いや、違違。俺ゃ海っ人ざ。木中さん家たー長っげ付き合いざげん」
貝久保さんは煙草をふかしながら、この丘から遥か向こうに広がるオレンジ色に染まった海を指さした。
「俺ゃ元来鯛内ん出ゼ、志明っちゃつ同じ高校ざってが、学校出てからすぐ働いて、何十年む船ガ乗って津州灘ゼ魚捕っつっけ」
貝久保さんはもともと三峪町の近くにある鯛内村というところの出身で、以前は神鹿半島近辺の海で漁をしていたそうだ。しかし現在はこちらに移り住んで別の仕事をしているらしい。
こんな彼も、かつては魚を追って船一つで果敢に荒波に挑む海の男だったわけだ。
「海は良せづ。ピキニん女な子がいけー居って」
貝久保さんは海の方を見つめながら鼻の下を伸ばした。
いや、そこしか見てないんかい。
貝久保さんが女を追ってビーチをうろつくただの助平親父だったと判明したところで、今度は彼が私に質問してきた。
「広岡は海があるけ?」
その質問は困る。
実際にその場所に海があるかどうか知らないので、私はとりあえず自分の故郷の話をした。
「……ないですよ。まあ、海に行ったことはありますけど」
実際、埼玉生まれ埼玉育ちの私は幼い頃海に行った記憶がなかった。だからこうしてすぐ行ける場所に海がある、というのが単純に羨ましかった。
「奈津崎県はいい場所ですね。海もきれいだし、レモンの木もいっぱいあって」
なんとなく言ったつもりだった。
すると貝久保さんはまた見下したように笑って、意味深なことを言った。
「うめえら外地っ人は本物ん苦労知らんげんな」
本物の苦労、という言葉が引っかかった。
どういう意味だろうと悩んでいると、貝久保さんは遠い目をして語り出した。
「日本が戦争ガ負けてからアメリカん衆が来て、伊波ガアメリカ基地が作られてなぁ……。南海道む一時は全部アメリカ領ガなって……。あん時ゃえらさっけ」
「伊波県」というのは南海道の南側にある県の一つで、現在もアメリカ軍基地があるらしい。どうやらこの日本の歴史はこちらの歴史と少し違うようだ。
貝久保さんは昔話を続けた。
「うめえらは知らんつ思うが、はー何十年む前、伊波ん辺りゼ地上戦があって時、アメリカ軍が奈津崎まで来て、三峪ん若っけ衆むみんな出兵させられてなぁ……。田新さん家なんて、男ん衆が戦い行って皆死んざーて……」
私はここでもう一度確認した。
「田新さん家、っていうのは確か、秋実さんのいとこのサカシくんのお家ですよね? 木中家と田新家はかなり親戚づきあいが濃いみたいですけど……」
すると貝久保さんは興味深いことを言った。
「田新家つ木中家は大昔から親戚ざ、嫁ぎ嫁がれ支え合ぁて来て……。今ん田新家む、木中さん家から男子入れちゅらんゼなら無ぁなってっぱ」
貝久保さんの話によると、戦時中アメリカ軍と日本軍は南海道南部で熾烈な戦いを繰り広げ、夥しい数の民間人が命を落としたらしい。そして田新家では跡取りになるはずだった男子が召集されたり空襲に巻き込まれたりして亡くなってしまい、当時から親戚関係にあった木中家から婿養子をとった、とのことだった。
「俺む忘れてが、秋実っちゃガ爺さん、『益良雄さん』ガ親け爺さん婆さんが元来田新家ん人なんざ。すったん理由ゼ、はー亡ぁなっちゃーて益良雄さんガ舎弟、『進雄さん』が田新家ィ婿養子ガ行ってな。くん進雄さんが武雄さん……、麗華さんガ旦那ん父親ざ。つまり、麗華さんガ旦那は麗華さんガ従兄弟なんざ!」
「ちょっと待って」
複雑すぎるだろ。
ハプスブルク家並みに入り組んだ家系図に頭がパンクしそうになったが、私は分かる範囲の情報を整理してみた。
「とにかく要するに、麗華おばさんは田新家にいるご自分のいとこと結婚なさったってことですか?」
いとこ同士で結婚する――日本でも一応合法ではあるのでそういう話を何度か耳にしたことはあったが、実際にその当事者を目の当たりにするとびっくりしてしまう。
それにしても、そんなに近い親戚同士で代々結婚して、血が濃くならないのだろうか。
しかし貝久保さんはそれよりもさらに驚愕の事実を口にした。
「さーさー。秋実っちゃみてーな話ざ」
「……えっ? どういうことですか?」
すると貝久保さんは「何ざ、うめえ知らんざってけ?」と言いながら皺くちゃの目を大きく見開いた。
そして彼が発した次の言葉に、私は耳を疑った。
「賢君ぬゎ、秋実っちゃン婚約者ざってんざい」
私の頭の中に雷鳴が鳴り響いた。
秋実さんには婚約者がいて、しかもそれが自分のいとこだなんて。
「……まあ、田舎ぜぁ良うある話ざい。博志くんガ嫁さんむ博志くんガ再従兄弟ざ」
あまりの青天の霹靂に言葉を失う私に、貝久保さんは慰めるようにそう付け加えた。
奈津崎県では近親婚が推奨されてでもいるのだろうか。
さすがに我慢ならなくなって、私は思い込みでしかないことをついボロッと言ってしまった。
「いやいや……、木中家ではそれが代々伝わる風習なのか何なのか知りませんけどね、いくらなんでもさすがに二代連続いとこ婚はダメでしょう。
大体、いとこ同士だって言ったって必ずしも仲がいいってわけでもないでしょうに、親御さんが勝手に決めた相手と無理やり結婚させられるなんてかわいそうって言うか、時代錯誤って言うか……」
私は自分の倫理観を盾に反撃を試みたつもりだった。しかし、貝久保さんは道端にある小さな溝を指さして寂しげにこんなことを言った。
「あん二人、家む近っけげん、童ん時から始終いっくに居ってなぁ。小学生ん時ゃ、良うすん辺りん川ゼ二人ゼ遊んづって……」
その瞬間、私の脳裏に秋実さんとサカシくんの二人が幼少期から中学、高校、大学、社会人と何十年もの間お互いの両親公認の交際を続け、めでたくゴールインする情景がありありと浮かんできた。
脳内BGMがベートーベンの「運命」に切り替わり、私はいよいよどうやっても勝ち目のない長身の幼馴染への完全敗北を覚悟した。
瀕死の重傷を負いながらも、私は震える唇で次の問いを口にした。
「……お二人は今でも交際されてるんですか?」
貝久保さんは否定するように顔の前で手を横に振った。
「いや、五年前別れてい。ガタグタあって……」
そう言って貝久保さんは口ごもり、視線を逸らした。
またよく分からないオノマトペが出てきて最後の部分が分からなかったが、私はひとまず胸をなでおろした。
さすがに結婚していたらお祭りで知らない男の人に声を掛けないよな。
しかしそれを聞いて、今度は別の疑問が湧いてきた。
「ガタグタ、って……、何かあったんですか?」
すると貝久保さんは気まずそうに俯き、返事を渋った。
「まぁ……、くん話はなぁ……」
私はただ、純粋に好奇心に駆られていただけだった。
「もっと具体的に教えてほしいんですけど、秋実さんとサカシさんとの間に一体何が――」
私が肝心な質問をしていたところで、思わぬ邪魔が入った。
「――きっちゃん」
不意に右から誰かに声を掛けられ、ふと車窓から外を見るとそこには秋実さんが立っていた。朝と違い、彼女はもうあの完全防備のような帽子は外していた。
「うぉおおっ!!」
突然の出来事に驚きすぎて、私は車の天井に頭をぶつけてしまった。私は痛みに悶えながら、助手席にうずくまって頭を押さえた。
「……大事け?」
秋実さんが心配そうにのぞき込んできたので、私は虚勢を張って笑ってみせた。
「大丈夫、大丈夫……。ちょっとびっくりしただけ」
私は助手席側の窓を開いて体を乗り出した。
「えっと、その……」
私は彼女の顔色を窺っていたが、彼女はただ怪訝な様子だった。
「……何ね?」
彼女はいつになく低い声で話しかけてきた。
ええい、ここまで来たら仕方ない。
私は単刀直入に切り出した。
「さっきの話、聞いてた?」
しかし彼女はきょとんとした表情だった。
「何が話?」
秋実さんはまた例のバグった日本語で返事をした。
よかった、聞かれていなかったようだ。
「一緒に帰らー? まー晩飯ん時間ざに」
秋実さんは私に笑いかけ、車の外から手招きした。そうして私はトラックを降りて彼女と一緒に帰ることにしたのだった。
しかし私が車外へと出ようとしたタイミングで、背後から貝久保さんが小さく独り言を言うのが聞こえた。
「……感情ん問題は難っせ」
「離合注意」と書かれた看板の置かれた畑沿いの坂道を歩きながら、私は秋実さんに話しかけた。
「どこにいたの? 今日一日、ずっと見なかったけど」
彼女は一瞬顔を顰め、そっぽを向いてしまった。
「……別に」
今朝と違って秋実さんはあまりしゃべらず、不機嫌そうだった。私は彼女の様子をちらちら確認しながら、適当に間をもたせようとした。
「貝久保さんって、ホントキョーレツなキャラだよなぁ……。さっきも色々質問攻めにあっちゃって大変だったわ」
すると秋実さんはくるっと顔をこちらへ向け、申し訳なさそうな目で私を見つめた。
「……今日は気ん毒な。悪っれな、仕事やらせてまーて」
彼女は謝ってきた。
確かに勝手だとは思った。
しかし気の毒、というのは言い過ぎじゃないか。
「いいよ。こうして泊めてもらってるわけだし、俺こそ感謝してる」
昨日と同じく私はあくまでも秋実さんにお礼を言って、歩きながら大きく伸びをした。すると腕の関節がボキボキ、という妙な音を立てた。
「まあでも、確かに今日は疲れたわ」
今日一日腕やら腰やらを酷使したせいで、体中の筋肉が悲鳴を上げているようだ。
毎年秋になる度にこんな風にレモン狩りを手伝わされているのだとしたら、確かにうんざりするかもしれない。
レモン畑に吹き渡る秋の涼しい風と、遠くから聞こえる虫の音。田舎の風情あふれる情景を前に、私はこう呟いた。
「『全身の、筋肉痛と、秋の虫』……。あれ? これ、五・七・五になってるな」
意図せず一句詠んでしまって独り笑いするも、私の声が耳に届いていないのか秋実さんはどこか明後日の方を見てぼうっとしていた。
彼女は後ろ手を組んだまま空を見上げていた。彼女の視線の先、私たちの頭上には赤から黒のグラデーションを描き出す美しい秋の夕空があった。瞬く星たちの下で、秋実さんは両腕を空に向かって大きく広げると、思い切り大きく息を吸い込んだ。
「レモンなんて、まーっさ嫌いっ!」
秋実さんは辺りに山びこが聞こえるぐらい大声で叫んだ。言葉とは裏腹に、秋実さんは曇りのない笑顔を浮かべていた。
「……どうしたの、急に?」
私が尋ねるも、私の声が聞こえているのかいないのか、彼女は何も言わず黙って歩き続けていた。
しょうがない人だ。
私はなんとも言えない気持ちで秋実さんの横顔を見ながら、今までの彼女の不可解な行動や言動を振り返っていた。
秋実さんはなぜ、こんなに遠い場所にある実家に私を連れてきたのか。
新たな情報をもとに一連の出来事を違う視点で見つめなおしてみると、ハチャメチャにしか見えなかったそれには彼女なりの事情があったことが見えてきた。
単にレモンの収穫の仕事をサボりたくて代わりの作業要員が必要だったから、というのも理由の一つではあろう。
そして、もう一つの理由は――
先ほどの貝久保さんとの話で粗方察しがついてしまったので、私はそれ以上そのことについて秋実さんには聞かないことにした。
その後、私たちは帰宅途中の高校生みたく毒にも薬にもならないお喋りに興じた。
「そういや『まーっさ』って何の意味なの?」
「かなり、て意味ざい。『まっさ』、『まーさ』、『まーっさ』ん順にレベルが上がる」
「なんじゃそりゃ」
しばらく話している内、秋実さんは私に釘をさすようにこんなことを言った。
「俺ゃ猫っちゃぜぁらん」
私は猫じゃない、とはどういう意味だろう。
「……どういうこと?」
私は彼女の気持ちなどつゆ知らず、笑い交じりに聞き返した。
この時、水平線に沈みゆく赤い夕陽に照らし出されて、表情の消えた彼女の顔が一層はっきりと浮かび上がった。
「すぐ分かるっぱ」
一日で全てのレモンを収穫できるわけもなく、余ったものはまた後日、ということで今日はお開きということになった。
その日の夜も木中家の親戚たちは居間で酒盛りをしていたが、秋実さんは昨夜のように居間に長居はせず、食事を終えるとすぐに自分の部屋に戻ってしまった。
●
次の日の朝、私が秋実さんに宇宙から撮影した地球の映像を見せられ「何言うちゅんざ、きっちゃん。地球はドゥーナツ型ざ」と説得されるという不安な夢から目を覚ますと、自分がいまだ奈津崎県にいることに気づいた。
この数日キッカイなことばかり続いて何が起こってもおかしくないと身構えていたせいか、夢の中とはいえ秋実さんの言うことを本気で信じかけてしまった。
私は寝ぼけ眼で自分の両手を見たが、そこには虫の足でも獣の肉球でもないちゃんとした人間の手が生えていた。
よかった。
私はひとまず落ち着きを取り戻した。
この世界の普通はおかしい。私は初め、そう信じて疑わなかった。
重陽節が終わり、木中家がいつもの静けさを取り戻したこの日――
秋実さんがいないかと思って居間に行くと、頼んでもいないのに私の分の朝食が用意されていた。私はとりあえずお母さんにお礼を言って席に着き、目玉焼きに醤油をかけようとした。しかしその瞬間、周りの人が一斉に私の皿を凝視した。
「……なぜフライデグに醤油かける?」
志明お父さんが目を丸くしながらそう言った。この日の朝食も目玉焼きが出て、私は平均的日本人の感覚で何も考えずに醤油を手に取っていた。
何かしてはいけないことをしたような気分になって、私は反論した。
「いや、目玉焼きって……、普通は醤油かけません?」
いつも何にでもドバドバと醤油をかけてしまっている私は、「普通」という部分を強調した。
すると隣で食事していた益良雄お爺さんが顔を顰めながら、テーブルの上に置いてあった塩コショウの瓶を持ち上げた。
「まあ、普通はくれざな」
どうやらこの一家は目玉焼きには塩派らしい。
確かにそういう人もいるだろうけど、別にいいじゃないか。
私は彼らの忠告を無視し、そのまま醤油をかけて目玉焼きを食べ始めた。そして食事を続けながら、姿を見せない秋実さんのことについて尋ねた。
「そう言えば、秋実さんはいますか?」
すると今度は秋実さんのご両親が眉を顰めた。
なぜこの人たちは私のやることなすことに一々おかしな反応をするのだろう。
先ほどから変な空気なのだが、いかんせん原因が分からない。居候はさっさと出ていけということなら仕方ないが、どうもそれとも違う気がする。
家族がこんな感じでは、秋実さんもさぞ苦しんできただろう。
私が勝手な決めつけでそんなことを思っていると、秋実さんがあくびをしながら居間に入ってきた。
私は朝食を急いでかき込み、筋肉痛の足を引きずりながら彼女のもとへと走った。昨日の夕方に話したのを境にずっとだんまりだったので、心配だったのだった。
「おはよう、昨日はよく眠れた?」
私が笑顔で挨拶するも、秋実さんは無言で首を縦に振った。彼女は何だか気が抜けたような表情で、冷蔵庫からトマトを取り出した。適当に話題を作ろうと私は話し続けた。
「これ、おいしそうだね」
彼女は眠そうに眼をこすりながら静かに答えた。
「……家ん後ん畑で取れてんざ」
そういえば昨日、畑から戻ってくるときに野菜を入れたビニール袋を持ってたっけ。
「頂いてもいい?」
私が遠慮せずそう言うと秋実さんは、
「うん……、良せ」
と言いながら、さっそくトマトを切ってきれいに皿に盛った。そしてなんとその上に、台所に置いてあった真っ白なグラニュー糖をたっぷりとかけた。
私は思わずたじろいだ。
「ゲッ、トマトに砂糖かけるの? そんなことする、普通?」
今までトマトに砂糖をかける人なんて見たことがなかったので、うっかりそう口走ってしまったのだった。
しかしそれを聞いて、秋実さんは少し怒ったように私を睨んだ。
「昨日からやかまっせな。『普通』て、普通ぜぁらんがは、きっちゃんざい」
彼女はそう言ってひょいと皿を両手で持ち上げると、そのまま素手で食べ始めた。
「いや、それでもトマトに砂糖はヘン――」
そこまで言いかけて、私はあることに気づいた。
私はさっき人に言われて嫌だったこととまさに同じことを、人に対してやってしまったのではないか。
秋実さんはただ、長年の食生活を否定されて感情的になっただけなのかもしれない。だが彼女の何気ないこの一言が、ほんの少しだけ私を客観的にした。
この異常な世界で私だけが正常なのだとばかり思ってきたが、この世界では私こそが異物で、私の方がおかしいのだ、と。
コペルニクス的転回に至って、私は秋実さんに何も言い返せなくなってしまった。
結局あの後、秋実さんとは一言も口を聞かずに客間に戻った私は、ずっと彼女のことについて考えていた。
初めて秋実さんとケンカしてしまった。
世の中には卵焼きの味付けが塩か砂糖で離婚する夫婦もいると聞くが、トマトに砂糖をかけるのを認めない私もまたそんな人たちと同じぐらい狭量だった。思えば、ずっと一緒員暮らしてきた家族の代わりに私が理解者になろうなどただの傲慢だった。
しんとした部屋の中で、私は布団に横になったまま食い入るように木中家の天井を見つめていた。
三十年間、彼女はこの家で何を思い、何を感じて生きてきたのだろう。
昨日色々な人から又聞きした情報から推察するに、今の秋実さんの辛さは察するに余りある。
それでも、全く無関係な俺をそこに巻き込むなんて、随分と勝手だよな。
そう思いながらも、そんな身勝手な彼女によって救われてしまった私は、とりあえずそこには感謝して前に踏み出そうとした。
そのすぐ後、秋実さんにあんなとんでもないことを言われるまでは。
日中人の家でずっとじっとしているのも居心地が悪いし、とりあえず今日は外に出よう。
私は急いでスーツケースに服やら何やらを全て詰めなおした。やがて荷物の支度を終え部屋を出た私は、廊下を歩きながらこれからのことを考えた。
いつまでも木中家に住み続けるわけにはいかない。まずは仕事を探して、アパートを借りて、しばらく働いてお金を貯めよう。
常識的な状況下では完璧なプランだった。しかし、金は働けば得られるとして、まずそれら全てを実行するために必要な身分証明書が何もないことに気づいた。
免許証はおろか、学歴も、職歴も、今まで取得した資格も無効だとしたら、これから先かなりの困難が予想される。そもそも自分が日本人であることも証明できない状態で奈津崎県に「転入」できるのだろうか。
犯罪者でも就労しているぐらいだし、それぐらい力技でなんとかするか。そう変に意気込んで玄関に向かったところを私は秋実さんに捕まった。
「きっちゃーん」
背後から声が聞こえて振り返ると、そこには秋実さんが立っていた。彼女もちょうどどこかへ出かけようとしていたのか、今日はきちんと化粧もしてスカートを履いていた。
彼女は持ってきた大きなゴミ袋を一旦玄関に置くと、まるで先ほどの出来事が嘘のように普通に笑顔で話しかけてきた。
「うわぁ、準備万端ね。づけ行くんざ?」
秋実さんは私が担いで持ってきたスーツケースをしげしげと見つめて、楽しそうにそんなことを聞いてきた。
この家から出て行こうとしている、とは言えず私は無言で俯いた。
「……何ね、出かけるんぜぁらんけ?」
彼女は焦ったように腕時計で時刻を確認しながら、私の返事を急かした。
「うん、そうだけど……」
「なら車出すげん、停車場まで行かー」
彼女は半ば強引に自分の車に乗せて行こうとした。
「ちっくし待ってな、今からクヅステイションに行くげん」
彼女はそう言ってその場に座り、大急ぎで黒い靴を履き始めた。
秋実さんが出かける前に謝っておこう。
私は一度咳払いをしてから、彼女に切り出した。
「……さっきはごめん」
「あ?」
唐突に謝られて驚いたのか、秋実さんは一瞬手を止めて、鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこちらを振り向いた。
「今まで秋実さんのこと、『変だ』とか『おかしい』とかいっぱい言っちゃってごめん! そもそも他人の家に居座っておこぼれをもらっている身の癖に、その家の食事のことについてとやかく言う資格なんてないよね」
私は今までの自分を恥じた。今まで奈津崎県がおかしいとばかり考えてきたが、自分が彼らにどう映っているか、という視点が完全に欠けていた。
しかし秋実さんはと言えば。
「何ね、別に謝らんで良せて! 何ん支障なせ」
私の大真面目な表情がおかしかったのか、彼女は破顔して私の肩をポンポン、と叩いた。
気にしていたのは私だけだったのだろうか。
全く気にしていない様子の秋実さんに、私は少しほっとした。秋実さんは笑いながら先ほどの質問に戻った。
「で、実際づけ行くんざ?」
「……決まってないです。ちょっと外の空気を吸おうかと」
すると彼女は膨れっ面で私を小突いた。
「さっきはたまげっけ。いきなし出て行かーてすて、何ざて思うて心配すっけ」
すみませんでした。
私は再び反省した。
「そういや、秋実さんこそ今日はどこに行くの? 仕事?」
「違違、別ん用」
「別の用?」
すると秋実さんは少し考えていたが、何かを閃いたようにポンと手を叩いた。そして彼女は「ちょっとスーパーにでも行かない?」というぐらいの軽いノリでこんなことを口にしたのである。
「なんなら、今から駆け落ちする?」
真っ赤なリップから飛び出した突然のキラー・ワード。
あっけにとられる私をよそに、秋実さんはキーホルダーについた車の鍵をジャラジャラと鳴らして意味深に微笑んだ。