PB&J
朝起きたら元の世界に戻っているかと思ったが、ぼんやりとした意識の中嗅ぎ慣れぬ匂いを感じて私は目を覚ました。
私はいやにきれいな布団をギュッと握りしめて、ぼうっと天井の木目を見つめていた。
やはりこれは夢でも幻覚でもないらしい。
「はぁ……」
本当に違う世界に来てしまったという実感が湧いてきて、私は深くため息をついた。
それにしても、どうも他人の部屋というのは落ち着かない。
最後に旅行しに行ってから五年ほど経って、思えば自分のアパート以外の場所で寝泊まりしたのも久しぶりだった。
ごろん、と寝返りを打つと視界の端に玄関から回収したスーツケースがあるのが目に入った。
このスーツケースも買ってから使ったのは今回で二度目だった。そういや、五年前の旅行の初日も朝寝坊して、危うく飛行機に乗り遅れたっけ。
しかしまさか、二度目の旅行がこんなことになるとは夢にも思っていなかった。この異世界旅行にお供してくれる元の世界の知人が彼だけとは、なんとも寂しいものだ。
だが。
朝八時、私は再び居間に行ってみた。ぼさぼさの頭を手ぐしで直しながら襖を開けると、まず畳の上でイビキをかいて寝ているおじさんたちが見えた。おそらく昨日の夜、あのままその場で寝てしまったのだろう。
そして、部屋の隅に置かれた仏壇の前――彼女は座布団に座り、遺影の前で手を合わせていた。
秋実さんは変わらずそこにいた。その事実だけで、私はとても安心した。
そう――今私は見知らぬ土地にいるが、一人ではないのである。
彼女はしばらく目を閉じてじっとしていたが、ほどなくして立ち上がった。そして同時に私の存在に気づき、こちらを振り向いて笑顔で話しかけてきた。
「ああ、まー起きてけ?」
今朝の秋実さんはTシャツにジーパンというラフな格好で、髪も結んでいなかった。秋実さんはジーパンのポケットに手を突っ込んで、下した長い髪を揺らしながらゆっくりとこちらへ歩いてきた。
彼女は私の目の前で立ち止まって、長いまつ毛をパチパチさせながら私の顔を覗き込んだ。ふわり、と波打つ髪からほんのりとシャンプーのようないい香りが漂ってくる。
この圧倒的存在感。
女子という未知の生物を前にして、私はひどく動揺した。
「何ね、面白っし面すて」
私がよほど赤面していたのか、秋実さんはそう言ってフッ、と笑った。
「いや、別に……」
私は彼女の一挙一動に振り回されてしまっている自分に気づいた。
緊張をごまかそうと、私は仏壇の方に目をやって尋ねた。
「……聞いていいか分からないけど、どなた?」
すると彼女は僅かに俯き、静かに微笑んで答えた。
「ばっちゃ。大分前亡ぁなって」
彼女はそう言って遺影の前に置かれた小さな花瓶を指さした。そこには大輪の黄色い菊が溢れんばかりに刺さっていた。
「くん菊、きれいざっぱ? 今日は重陽節ざげん」
そういえば今日、十月七日は奈津崎県民にとっては文化的に大切な日らしい。
私たち二人が台所に来たとき、もうすでに秋実さんのお母さんの能美さんは朝食の支度を始めていた。
「朝、食うけ?」
お母さんはフライパンでベーコンエッグを焼きながら、首だけをこちらに向けて話しかけた。
お母さんは秋実さんと背格好も顔もそっくりだったが、黒髪でパーマをかけていた。年を感じさせない快活な女性、というのが第一印象だった。
「今朝はそんなにお腹減ってないんで、大丈夫です。後で適当に食べますんで」
さすがに二日連続でごちそうになると悪いかと思って、私は遠慮した。すると秋実さんが心配そうに聞いてきた。
「飲みすぎてけ? 薬食う?」
私はここで彼女の日本語に微妙な違和感を覚えた。
「……薬は普通『飲む』ものじゃない?」
すると秋実さんが少し嫌そうな顔をしたので、私は先ほどの質問に戻った。
「いや、そうじゃないよ。昨日結構食べたから――」
あまり食欲がなかったが、このまま遠慮し続けるのもよくないかと思い、私はとりあえず何か適当に口にすることにした。
「じゃあ、まあ……、納豆とかありますか?」
特に好きではないが、あまりヘビーでないものにしよう。そう思った私は納豆を所望してみた。
だが二人は私の言葉を聞くなり異口同音に聞き返してきた。
「ナットー? 何すれ?」
秋実さんは冷蔵庫の扉を開けたまま、眉間に皺を寄せて私の方を振り返った。念のため、私は確認してみた。
「……もしかして『納豆』って何か知りませんか?」
お母さんはフライパンの柄を握りしめたまま首を傾げた。
「知らん。外国ん食い物け?」
そんな奇妙な食べ物まるで見たことも聞いたこともないという口ぶりだった。そして秋実さんも、アメリカ人のように大げさに両腕を広げて「知りません」と言わんばかりのジェスチャーをした。
私はできる限り詳細に納豆を描写した。
「ほら、大豆を発酵させた食べ物ですよ。粘り気があって、なんかこう、腐ってるみたいなすごく臭い匂いがする……」
すると二人は大層不思議そうな表情でお互いの顔を見合わせ、口々に、
「すなんが、見て時ねー」
「なぜすったんネ臭っせ物食うんざ?」
と言った。
「そんな……、納豆がないなんて……。いや、待て。これはこれでいいことなのかも」
この時私はなぜか、少しうれしいような、それでいて寂しいような複雑な気持ちになった。
突然だが一つ、昔話をする。
小学生の頃、私は納豆が大嫌いだった。幼少期、歯医者に次いで私の人生最大の敵といっても過言ではなかったあの粘つく茶色い塊――両親が買ってきて食卓に出しても、私は頑として箸をつけることはなかった。
しかし、あれは忘れもしない小学校五年生の時。給食を残すことを絶対に許してくれなかった担任の高橋先生により何度も無理やり納豆を食べさせられた結果、私はめでたく納豆が食べられるようになったのだった。
あの洗礼から二十年。私はいつの間にか自ら積極的に納豆を食べるようになり、今では無意識に手に取る朝食おかずはと言えば納豆という状態にまでなってしまっていた。
「知らず知らずの内に、私は日本社会の同調圧力に屈してしまっていた……。でも、もうこれからは納豆を食べなくていいんだ。私は自由なんだ!」
私が拳を宙に振り上げて一人高らかに納豆解放宣言をしていると、秋実さんが冷めた視線を向けてきた。
「……何すちゅんざ、きっちゃん」
皆の分の朝食の準備をしているのか、秋実さんは大量のパンを切って調理台の上にせっせと並べていた。すると隣にいたお母さんが皿に盛った朝食を私に差し出してきた。
「うい、くれがうめえさん分け」
話聞いてなかったよね、と思いながらも、私はしぶしぶお皿を受け取って座敷の席に移動した。
「いけー食い。今日は気張ってくれにゃんね」
お母さんはそう言って台所に戻ると、秋実さんが並べたパンにピーナッツバターとイチゴジャムを塗りたくる作業に戻った。その手さばきはまるで工場のライン工で、瞬く間に何十個ものサンドイッチが量産されていった。
しかし、こんなにたくさんサンドイッチを作るなんて、今日は皆で遠足にでも行くのだろうか。
私がカリカリのベーコンを噛みしめながらそんなことを疑問に思っていると、寝ぼけ眼のおじさんたちがゾンビのように起き上がってきた。
「ん? はー仕事け?」
レモンの木が生い茂る小高い丘の上で、作業着を着たおじさん方が整列して並んでいた。
この日はよく晴れて太陽が燦々と輝いていたが、十月ともなって気温はそこまで高くなかった。
ともすれば絶好のピクニック日和、のはずだった。
「えー、今日はわざわざ木中レムンファームん為集まっていただき、誠ありがたーありゃす。何分、全員が集まれる日が祝日しか無さすげん……」
私は欠伸をしながら、志明お父さんが木中家一同の前で朝礼の挨拶をするのを聞いていた。この日木中家のレモン畑に集結していたのは、大体は昨日酒盛りに参加していた面々だった。
秋の心地よい風を感じながら、私はどんよりした気分でその場に立ち尽くしていた。
「祝日まで働くとか、ブラック企業かよ……」
すると隣に立っていた秋実さんが答えた。
「収穫はえらいげん、みんなで手伝うんざ」
彼女は全身の肌という肌を布で覆った上で、「あー、暑せ」と言いながら水筒のお茶を飲んでいた。
朝食の後、お弁当の準備が終わった秋実さんは日除けの布で覆われた麦わら帽子を被り、手の甲に日焼け止めクリームを塗り始めた。さながら防護服のようないで立ちに私は苦笑して、
「徹底した日焼け対策ですね。今日はどちらへ?」
と聞いた。そうしたら「うめえむ来るんざい」と言われて無理やりここまで引っ張ってこられてしまったのだった。
聞けば、木中家は代々レモン農家をしており、毎年十月になると親戚総出で早生レモンの収穫をするらしい。
そして私はとうとう真実に気づいた。
「……まさかとは思うけど、ここまで俺を連れてきたのってコレのため?」
私は低い声で毒づいた。しかし秋実さんは悪びれもせず正直に答えた。
「うん。人数は多うぇ方がええっぱ?」
彼女はニコッと笑って私を励ました。その瞬間、私の頭の中で今まで起きた様々な出来事がまるでパズルのピースがはまっていくように一つの意味をなした。
生まれて初めてナンパされたと思ったら、実は繁忙期の農家でボランティアをさせられただけだったとは。
都市で子供が人さらいに遭って田舎の農村に売り飛ばされ強制労働させられる図が思い浮び、私は背筋が寒くなった。
「そんな……、年に一度の秋祭りの日に小学校の幼馴染と運命の再会を果たしたんじゃ……」
何か言ってやろうと思ったが、彼女はたった一言で私の動きを封じた。
「ウチん飯食うてんざげん、良う働き。な?」
彼女の天使のような笑顔の裏に、私は底知れぬ悪意を見た。
せっかくバカンスに来たというのにまた働く羽目になってしまうなんて、これではあちらにいた時とやっていることが大差ない。
社畜としての運命を自覚し悲嘆に暮れていると、話が終わった志明お父さんが地面に置いてあった大きなラジカセのスイッチを入れた。
するとスピーカーからファンファーレが流れ、大勢の人が拍手する音が聞こえた。
「『津州弁準備体操、第一ぃーっ!』」
号令の声と同時にラジオ体操のような陽気な音楽が流れだし、整列していた木中家親戚一同は間隔を開けて散らばった。スピーカーが古いのかCDが傷ついているのか、その曲は時折音が飛んだり音割れしたりしていた。
「さぁ、皆さん大好き、津州弁準備体操ん時間がやって参りゃすて!」
お父さんは騒がしい音楽に負けないように声を張り上げ、その場にいた全員に呼びかけた。
「『津州弁準備体操』? なんじゃそりゃ?」
私が一人だけ状況が分からず固まっていると、秋実さんが一旦私の所に戻って来てわざわざ説明してくれた。
「きっちゃぬゎ知らんぱ? くりゃ『国民準備体操』ん津州弁版ざい。小学校ん体育ん授業で習わんでけ?」
また知らない固有名詞が出てきて私は反応に困った。
「いや、だから『国民準備体操』って何ですか?」
この日本でいうラジオ体操だろうか。
私がますます困惑していると、秋実さんは「きっちゃぬゎ何ん知らんな」と大げさにため息を漏らした。
「まぁ、一んむ二んむ、作業する前にみんなで準備体操するんざ。はい、しんめんにやり!」
彼女はそう言って私の背中をポン、と軽く叩き、軽快に走り去った。
そうこうしている内に、ラジカセから号令が鳴り響いた。
「『一、二、三、四! 五、六、七、八!』」
しかし。
開始三十秒も経たない内に私は難題に直面した。
「訛りすぎてるせいで数字以外聞き取れないぞ……」
「津州弁準備体操」は音質が悪いのに加え、指示がことごとく奈津崎弁なので私には理解不能だった。
「『はい、膝っちゃ横けいぐかし!』」
よしよし、これぐらいなら分かる。
「『ひざっちゃ』は『膝』のことだよね……」
私は独り言を言いながら動きを確かめていた。
「『四体、前ぃ!』」
ギリギリ「前に」だけは聞き取れたが、肝心の動かすべき体の部位がどこなのか分からない。
「してー、って何だ?」
仕方なく、少し離れたところで前屈運動をしていた秋実さんに臨時の通訳をお願いした。
「『四体』ざい、全身。見りゃ分かるっぱ?」
彼女はそう叫び返して、周りを指さした。
それもそうだった。
私は改めて周囲を見回した。何度もやっているのか彼らは皆振付を暗記しているようで、号令に合わせて老いも若きも器用に体を動かしていた。
私はなんとか見様見真似で彼らの動きを真似しようとした。が、今度は体が硬くて上手く腰が曲がらない。
すると、遠くの方から昨日の崎池さんが大きく手を振ってきた。
「佐藤さーん、俺見て参考にし! 気張って!」
崎池さんは溢れる爽やかスマイルでサムズアップすると、軽やかに体を動かし始めた。もう秋だというのに彼はタンクトップで短パンという、いかにも高校時代陸上部でした、というような服装だった。
崎池さん元気だなあ。
年齢的には彼と私は大差ないはずだが、私は絶望的な体力差を感じた。これが普段の心がけの違い、か。
その後結局、私は奈津崎弁に苦しめられながら無事に奇妙な踊りを続け、木中家の皆さんの前で無様な姿をさらした。
もう少し外地っ人に優しい言葉で喋ってくれ。
とにかく通訳がいる体操なんて、私はもう二度とやりたくない。
●
レモンの収穫作業が始まり、木中家の人々は傾斜地の上に段々畑になったレモン農園のあちこちに散らばっていった。
準備体操の後、秋実さんは私を崎池さんのところに連れて行くと、「全部彼に聞いて。すれぜぁ、また」とだけ言い残しどこかへ姿をくらましてしまった。
そんな訳で私は一旦彼女とは別れ、始め崎池さんに連れられて色々な場所を回っていた。崎池さんはとても気さくな方で、新規就農者の私にも実の切り取り方やハサミの使い方など細かい作業内容を丁寧に説明してくれた。
農園内のとある一角に差し掛かった時、崎池さんは木に実っていた一際黄色いレモンをもぎ取ると、ナイフで半分に切って中身を確認した。
すると、果肉の部分の水分が抜けてスカスカになってしまっているのが分かった。そしてそれを見た彼が放った一言がこれである。
「あいあい、カプカプざね……」
宮沢賢治か。
脳内で思わず突っ込みを入れてしまった。すると、近くで作業していた秋実さんの叔父さんの志成さんがこちらへやってきて、その実を覗き込んだ。こんな詩人のようなオノマトペを使うのは崎池さんだけかと思ったら志成さんも、
「くったんカプカプぜぁ、出荷出来んぱ」
などと言い出した。
奈津崎弁のオノマトペ独特すぎだろ。
そんなことを考えていると、崎池さんは私にまた微笑みかけた。
「ああ、カプッちゅるヤツは捨って。黄色っれ実は店頭に並ぶ頃にゃあめてまうげん、取らんで良せ」
彼はそう言って、まだ少し緑色の実の方を収穫して採集コンテナに入れて行った。
方言のせいではっきり分からないが、要するに「もう黄色くなった実は店頭に並ぶ頃にはダメになってしまう」ということだろうか。
私は崎池さんの指示に従い、完全に黄色く熟してしまった実は無視するようにした。崎池さんは私の仕事がなんとか様になってきたのを見届けると、「手袋履いてやりな」と言って私に軍手を手渡し、風のように去っていった。
よーし、がんばろう。
私は彼からもらった軍手をして今一度気合を入れ、本格的に取り組むことにした。
「秋実さんたら、こんなに可愛いアタシを置いてどこに行ってしまったのかしら? まったく、いつもこんな悪い男ばっかり引き当てて、アタシってば本当にかわいそう……。きっと男運がないのね」
あれから一時間。私はブツブツとそんな独り言を言いつつも収穫を続けていた。あまりにも作業が単調過ぎて、恋する乙女になり切って悲劇のヒロインを演じるぐらいしかすることがなかった。しかしたった一時間では当然終わりは見えない。
「俺、なんで生まれてきたんだろうな……」
並行世界に飛ばされたと思ったら、ひたすらレモン狩りをさせられていた。
右手にハサミ、左手でレモンの実をつかみながら、私は神が与えたこの試練の意味を自分なりに必死に考えた。
人生の意義。今まで数多くの哲学者や文学者が結論を出せなかった命題に、私はついに一つの答えを出そうとしていた。
「そうか、分かったぞ……。私は奈津崎県でレモン狩りをするために生まれてきたんだ!」
私が宇宙の真理に到達しかけている一方で、休日だというのに親戚の農園を手伝いに来る立派な崎池さんは、その後も農園内を行ったり来たりして精力的に応援に駆け付けていた。
そんな彼の様子を遠目に眺めて、私は心からの賞賛を漏らした。
「崎池さん体力半端ないよな……。さっきの準備体操もキレキレだったし……」
すると、近くで一緒に作業していた志成さんがこんなことを教えてくれた。
「宴会ん時ゃ、偉俊くんが大体レムン頭ん格好すて準備体操踊っつる」
やりそうだな、彼なら。
容易にその図が想像できて、私はクスっと笑った。
「そういえば、あのレモン頭のヒーローって何て名前でしたっけ?」
すると、私がコンテナに入れたレモンを選別していた佐部くんが元気よく返事をした。
「『レモン戦士シュワッチャー』ざす!」
佐部くんは「崎池マーケッツ」で働いているバイトの男の子で、この中で一番若かった。
「ああ、そうそう、『シュワッチャー』。中々ユニークですよね」
よそ者なのでとりあえず褒めておいたのだが、地元民からは不満の声が上がった。
「あんレモン頭、面が怖せっぱ? 初めて出て来て時、あれ見て童がだーら泣いてな」
佐部くんが笑い交じりにそう言うのを聞いて志成さんも苦笑した。
「ありゃ、アメリカん有名なカンデーんカラクターん紛え物ざい」
待て待て、志成さん。
私は彼の独特な英語の発音に突っ込んだ。
「『キャンディー』の『キャラクター』ですか?」
すると隣にいた佐部君が自信満々に発音してみせた。
「『ケンディ』ん『ケラクター』ざすて!」
なんか微妙におかしいので、もう一度とトライ。
「『キャンディ』の『キャラクター』ですよね?」
すると志成さんが頭をひねりながら答えた。
「……『ケァンデー』ん『ケァラクター』ざっぱ?」
なんか一周回って発音がよくなってきたぞ。
私たちが作業の手を止めて雑談に興じていると、木々の間を潜り抜けて眼鏡をかけた背の高い若い男性がこちらの方へ歩いてきた。彼は私や秋実さんと同い年ぐらいと見え、先ほどの崎池さんとは違って痩せていて色白だった。
この人、昨日の飲み会にはいなかったよな。
誰だろうと思って彼の方をじっと見つめていると、彼も私の視線に気づいたようでレモンの入ったコンテナを抱えたまま立ち止まった。
レモンの木々が作り出した迷路にとり囲まれて、私たち二人は対峙していた。
「……」
彼は何も言わず、ただ無表情で私の顔を食い入るように見つめていた。その冷たい視線に射抜かれて、私の体はしばし動く能力を失った。
敵意なのか、憎しみなのか、はたまた悲しみなのか――眼鏡越しに見える二つの茶色い瞳に映るそれが何なのか、あの時の私はまだ分からなかった。
気がつくと、背後からは志成さんと佐部くんがひそひそ話をする声が聞こえ、私は自分が何か悪いことをしでかしてしまったような気分になった。
ほどなくして、コンテナが重たくなってきたのか彼は無言で立ち去った。彼が完全に行ってしまった後で、私は志成さんに聞いてみた。
「……あれ、誰ですか?」
すると志成さんは慌てて私に背を向け、収穫作業を再開した。
「……田新賢くん。麗華んあんちゃざ」
志成さんはボソッとそれだけ言って黙った。
「あんちゃ?」
私が聞き返すと、佐部くんが代わりに答えてくれた。
「『長男』ん意味ざす」
そういえば昨日、麗華おばさんの息子の「サカシくん」は来ていなかったっけ。
名前が少し変わっていたので、彼のことは私も一応覚えていた。気になった私はもう少し詳しく聞いてみた。
「田新麗華さん、って志成さんとはどういう親戚でしたっけ?」
志成さんは私と目も合わせず、作業を続けながら答えた。
「麗華は俺つ志明ん妹ざ。昔、田新さん家ぇ嫁行ってな」
私は話を整理してみた。
「秋実さんのお父さんが志明さんで、志明さんと志成さんの妹さん、つまり秋実さんの叔母さんに当たる麗華さんの息子さんがサカシさん、っていうことだから……、サカシさんは秋実さんにとって……」
すると一瞬、志成さんはハサミを動かす手を止めた。そしてなぜか佐部くんがいきなり割って入った。
「賢君ぬゎ秋実ちゃんが『いとこ』ざす」
なるほど。
私はようやくこの複雑な家系図を理解した。
「へえ、そうだったんですね」
私はもう一度志成さんの方を見たが、彼は沈黙したまま目の前の仕事に集中するだけだった
田舎だし親戚関係が密なのだろう。
その時の私は、それ以上サカシくんについて特に深く考えることもなかった。
木中レモンファームに昼が来た。
遠くに海を臨む見晴らしのいい高台の上にレジャーシートを敷いて、私は木中家の人たちとワイワイ仲良く昼食をとっていた。
きつい肉体労働の後の飯は美味く、秋の涼しい気候も相まって気分はとても爽快なのだが、話しかけてくる年配の方々の訛りが強すぎて言っている内容の半分ぐらいしか理解できない。何分彼らは皆フレンドリーで、突如彗星のごとく現れた部外者の私にもとてもよくしてくれたのだが、それが仇となってしまった。
私がおかずをつついていると、秋実さんのお母さんが持ってきたサンドイッチを差し出した。
「はい、ピー・ビー・アンヅ・ゼイ」
お母さんは笑顔で話しかけてきたが、私は思わず聞き返した。
「ピー・ビー・アンド・ジェー、ですか? っていうか、このサンドイッチってそういう名前なんですか?」
この時、私は「PB&J」という言葉を初めて聞いた。
すると、隣で昨日の残りもののぶらら揚げを食べていた秋実さんがこちらを振り向いた。
「ピーナツバター・エンヅ・ヂェリー・センウィッチ。アメリカんセンウィッチざ。知らんなん?」
彼女は口元についた食べカスを親指で拭きながら、怪訝な顔で私を見つめた。
「いや、知ってるけど、いわゆるアメリカンなピーナツバターって日本じゃあんまり一般的じゃないような……」
私は頑張って記憶を掘り起こしたが、少なくとも私の知っている日本では一般的な食べ物ではない気がした。
すると食べかけのPB&Jを片手に、さっきまで一緒に作業していた志成さんが解説してくれた。
「昔、工場労働者なづ肉体労働すちゅる衆は、カルリーが高っけ物食う必要があってな。くれなら簡単にエナヂー補給出来るっぱ?」
志成さんは物知りで色々と説明してくれるのはいいのだが、残念ながら何を言っているのかチンプンカンプンだ。ちなみに、いきなり抜き打ちリスニングテストをさせられた私の解答がこちら。
「グジャラート州など肉体ラードシチュー臭は、カロリーが高い物を食べる必要があって……? 簡単にエナジードリンクを普及できる……?」
私がまたもや頓珍漢なことを言うと、親戚一同は笑いの渦に巻き込まれた。
なんだかちょっとバカにされている気分だ。
お母さんからもらったPB&Jにかぶりつきながら、私はよくよく考えてみた。そしてさっきの一連の会話をもう一度思い出している内、とある法則に気づいた。
「そういや、昨日『ズース』って言ってましたけど、あれって『ジュース』の意味ですか?」
するとお母さんはうんうん、と頷いた。
「さーざ、ウレンヂヅース」
奥さんと一緒にお弁当を食べていた崎池さんがこんなことを言って笑った。
「ぢっちゃん衆は『J』ん事『ゼイ』て発音するげん、良う『ゼイアール』なづ言うちゅる」
これを聞いて、私は少し考えてみた。
「『ジャ行』が『ザ行』になるのかな……。さっきのは、『オレンジジュース』ですよね?」
「さーゆー事」
志成さんの相槌を聞いて、私はさらに別のことが気になった。
「そういえば、『お』と『う』も同じ発音になりますよね。でも、それだと『事』と『靴』ってどうやって区別するんですか?」
すると、食後の昼寝をしていた秋実さんのお父さんが急に話に参加してきた。
「『くつ』つ『くつっちゃ』て言や良せ」
彼は横になったままそう言うと、つまようじで歯の間をつつきだした。ついでだったので、私は矢継ぎ早に類題を出してみた。
「『時』と『月』は?」
「『つき』つ『うつきさん』」
「『嫁』と『夢』は?」
「『ゆめっちゃ』つ『ゆめ』」
「『今日』と『九』は?」
「『きゅー』つ『くー』」
「『お前』と『うまい』は?」
「『うめえ』つ『うませ』」
「『遅い』と『薄い』は?」
「『うすせ』つ『なるせ』ざっぱ」
「な、なるほど……」
トンチのような方法であらゆる同音異義語問題を回避しようとする奈津崎弁に感心していると突然、頭にタオルを巻いた一際肌の黒いお爺さんが乱入してきた。
「やいやい、くりゃ噂ん佐藤くんぜぁらんけ?」
彼は私の顔を見るなり大声を出し、うりうり、と私を肘で小突いた。
「くん色男、づったすて秋実っちゃガ口説いてけ?」
彼はそう言って私の横に腰かけると、歯の抜けた口を大きく開けてニヤニヤと笑った。彼は初対面だというのに非常に馴れ馴れしかった。
この日に焼けたお爺さんは確か、昨日部屋の隅で佐部くんと一緒に飲んでた人だ。
彼は先ほど「あっぷざ、あっぷざ」と謎の呪文を唱えながら離席し、しばらく戻ってこなかった。一体彼は一人急いでどこに行っていたのだろう。
「貝久保さん……、でしたっけ?」
私はなんとか彼の名前を思い出すことができた。
「さーざ。俺ん名前は貝久保挑、『三峪んカサヌバ』て言や俺ん事ざい」
貝久保さんは私に向かって飛び切りの笑顔でウインクすると、誇らしげに宣言した。
この貝久保さん、実に強烈なキャラクターだった。
2022/06/13 摘果は間引きの意味なので収穫に修正。