牛の骨
木中家の居間は戦場だった。
座敷に通された私がまず目にしたもの――
テーブル席では男たちが料理をつつきながら飲めや歌えやの大騒ぎで、その横で子供たちは子供たちで畳の上をどたどたと走り回って遊んでいて、それを若い母親たちが叱りつけていて、居間とつながった台所ではおばさんたちが料理を作っていて、そうかと思えばお爺さんがマッサージチェアに横たわって一人静かにテレビを見ている。
十畳ほどの和室の中では、総勢十名以上の人々があちこちで好き勝手に色々なことをやっていて、とても収拾がつかない状態だった。
家族での酒盛りって言うよりも、もはや町内会の集まりだな。
目の前の混沌に唖然としていると、秋実さんが手を叩いて皆に声を掛けた。
「くん人がさっき言うて俺ん連れ、佐藤くん。はい、挨拶す」
どうよ、と言わんばかりに秋実さんは私に向かって両手を突き出した。
瞬間、その場にいた全員が私の顔に釘づけになった。急に話を振られた挙句、一斉に何十もの瞳に見つめられて私は言葉に詰まってしまった。
「えっ……。あっ、どうも、佐藤幾多郎です……」
しどろもどろになりながらも、私はなんとか笑顔で動揺を隠し通した。しかし同時に、シャツの内側からどっと冷や汗がにじみ出るのを感じた。こんなことは今いる会社の入社面接以来だった。
これだと完全に結婚挨拶にでも来たんじゃないかと誤解されるよな。
そんなことを考えていたら急に心臓がバクバクしてきて、私は一旦トイレに避難して心を落ち着かせようとした。
「あのー……、すみませんがちょっとト――」
しかし今度は隣にいた秋実さんが私の腕をガッシリと掴んで離そうとしない。とても逃げられそうになかったので、私はいよいよ腹をくくってその場に留まった。
「……ちなみに、今日はどういう集まりなんですか?」
適当に話題を振ったつもりだったが、近くにいたおじさんが大層驚いたように尋ねた。
「うめえさん、本に何ん知らんな。づくん外地から来て? 北東道け?」
「ふ、腹痛だ?」
頓珍漢な聞き間違いに、周囲の人たちがクスクスと笑った。
おじさんは私の言葉に少し顔を顰めたが、私の質問にちゃんと答えてくれた。
「明日、十月七日は『五神送り』ん最終日でな、県が祝日なんざ。ざげんかーすて皆で飲んぢゅんざ」
するとそのおじさんと反対側の席に座っていたおばさんが説明を付け加えた。
「明日は旧暦ん九月九日で、『重陽節』ざげん」
間をもたせようと、私はさらに質問してみた。
「ここにいる皆さんみんな木中さんなんですか?」
すると反対側の席に座っていた若い男が答えた。
「まぁ、大体な。違う人む居るぜん」
私は改めて周囲を見渡してみた。すると確かに似た顔の人が多かったものの、そうでない人もいるようだった。
しかしここで、手前側の席にいた一人の短髪の若い男の人がなぜか目を潤ませてこんなことを言ってきた。
「良さってな、秋実っちゃ! 中々体がええ彼氏ざ!」
彼は純粋に祝福しているようで、手元では小さく拍手までしていた。
察しのいい彼に内心困り果てた私は、彼に向かって懇願するように熱い視線を送った。無論、彼は私の救難信号になんて気づくはずもなかった。
また、子供たちは素直に喜んでいるようだった。
「俺てっきし姉っちゃが一生結婚出来んて思うて」
「あいあい、羨まっせ」
しかし当然、他の親戚一同は微妙な反応だった。
「すなんが、急に言い出して……」
「散弾結婚なんて、みったーなせ……」
彼らは怪しむように私の方をじろじろ見てきた。
これはまずい。
私はあらぬ誤解をされたくなかったので、私はきちんと言葉にして自分の立場をはっきりさせようとした。
「いやいやいや、私、秋実さんには本っ当に今日会ったばっかりでして、まだ何も……」
私は必死で誤解を解こうとした。
だが、テーブル席から離れた部屋の隅で飲んでいた赤ら顔のおじさんが横やりを入れてきた。
「何ね、今から一夜城け?」
彼そう言って下種な笑いを漏らした。
すると何を勘違いしたのか、私から見て反対側、テーブル席の真ん中にいたお父さんと思しき人がとうとうテーブルを叩いて叫んだ。
「やい、くんダラ助! うめえみてーなづくん牛ん骨け分からん奴にウチん娘はやらんづ!」
彼は般若の形相でよろめきながら立ち上がったが、彼の両隣に座っていた数人が彼を止めた。彼は相当酔っているようで、足元がおぼつかずふらふらしていた。
「『牛』の骨……?」
罵倒されたというのに、私は彼の独特な言葉遣いのせいで怒る気になれなかった。しかし秋実さんは大げさに私を庇ってくれた。
「つっちゃ、違うんざて! 彼はただん『連れ』ざい、小学校ん時ん同級生!」
秋実さんの言葉を聞いて、彼は一度黙った。彼は無表情のままその場に立ち尽くし、据わった目でじっと私の顔を見つめた。
「……くったん童、居ってけ?」
居っけ、居っけ、と彼女は頭をぶるんぶるんと縦に振った。
すると彼は俯きながら何やらぶつぶつと独り言を言っていた。方言に加えて呂律が回っていないせいで何を言ったのかはっきり聞こえなかった。
そして彼はもう一度私の顔を見ると、いきなりこんなことを尋ねた。
「うめえ、マニュアル車運転出来るけ?」
突然何の脈絡もない謎の質問をされて戸惑ったが、別段隠すようなことでもないので私は正直に答えた。
「いえ、オートマ限定です……」
すると彼は鼻で笑った。
「ハッ、出来んけ? 効が無え男ざ」
何か罵倒されたように思うが、また聞き取れなかった。
私が困惑していると、彼は片手に持っていたおちょこを私に向かって突き出した。
「酒量は?」
「しゅりゃー?」
私が困り顔で聞き返すと、彼は大声で怒鳴った。
「酒は出来るけ?」
やっと意味が理解できた私は、今回は少し虚勢を張った。
「ま、まあ、普通ですかね……」
実は私は下戸で、完全に飲めなくはないもののお酒が苦手だった。しかし嘘だと見抜かれてしまったのか、彼は呆れたような表情で目をつぶった。
「効が無せっ! 酒ん飲飲めんやーな男は効が無せっ!」
私は隣にいた秋実さんに耳打ちして助けを求めた。
「かーがなせ、って何の意味?」
「効がない、て事」
「説明になってない」
「あ? 『効がない』が標準語ぜぁらんけ? 『効果』ん『効』て字ざい?」
ダメだこりゃ。
とっさに生粋の奈津崎っ子に通訳を頼んだのが間違いだった。
しかしここで、思わぬ人物が助け舟を出した。
それまでずっと黙ってマッサージチェアで横になっていた一人の老人が立ち上がり、こちらへ向かってゆっくりと歩いてきた。彼はこの中で一番高齢と見え、仙人のように艶やかで白髪と立派な白い顎鬚を蓄えていた。
彼は曲がった腰を片手で抑えながら、人混みをかき分けて私の前に歩み出た。多少よろよろとしてはいたが、確かな足取りだった。
「ますらーさん」
「ぢっちゃ」
その場にいた全員が各自やっていたことを中断して、彼に声を掛けた。彼は皆からとても慕われているようだった。
このお爺さんは木中家の主なのだろうか。
彼はしばらく口を閉ざしたまま顎をさすり、何かを見定めるように私の顔を注視していた。
そして一言。
「貴さん、優っし面すちゅる。悪人ぜぁあるめー」
彼はお釈迦さまのように優しく微笑んで私に語り掛けた。
「くったん遠うぇ場所まで良う来なさって。ウチん孫娘が何か迷惑かけてなら、すまんげな……。今日は気ん毒な」
地獄に仏とはまさにこのことで、思わぬ言葉に私は畏れ入った。
「いえ、私こそ急に押しかけてしまって、そちらも迷惑でしたよね……」
しかし彼は私の言葉を聞いて首を横に振った。
「人類皆兄弟。くん家、自分が家つ思うてゆっくしねまり、旅っ人」
彼はそう言い残すと、ふたたびマッサージチェアの方に戻っていった。
ペンギン柄のパジャマ姿の主様からありがたい御言葉を頂き、私は無事木中家の酒盛りへの参加を許してもらえた。
「それにしてもキナカって珍しい苗字ですよね」
私は今までの人生で、「木下」ならともかく「木中」というのは一度も聞いたことがなかった。
しかし木中家一同はこれまたひどく驚いたように反応した。
「全然すったん事なせ」
「良うある苗字ざに」
彼らは口々に私に向かって何かを言ってきた。複数の人が同時にきつい方言で話しかけてきて、聖徳太子でも何でもない私は混乱してしまった。
誰が誰だかはっきりさせようと、私は周りにいた全員に呼びかけた。
「そういえば、皆さんお名前は?」
すると秋実さんが一人ひとり解説してくれた。
「まづ、ぢっちゃが『益良雄』。で、つっちゃが『志明』、かっちゃが『ぬーみ』……、いや、『能美』」
秋実さんは最後の部分を言い直した。しかし、私にとっての違和感は別の所にあった。
「ひょっとして聞き間違いかもしれないけど……、秋実さんのお父さんって『シアキさん』って言うの?」
「チアキ」ではないのかと一瞬悩んだ。しかし秋実さんは特に気にする様子もない。
「うん、何か可笑っせ?」
「いや、別に……」
考えてみればノウミというのも妙な名前のように感じる。
秋実さんは次に、手前側の席に座っていた眼鏡のおじさんの方を見た。
「で、彼が志成おぢさん。お父さんの弟」
秋実さんは「お」の部分をできるだけ気をつけて発音した。しかし私はまた聞き返してしまった。
「シナリさん……? 本当にそういう名前なの?」
やっぱりおかしい。何かこう、微妙に日本人ではないような感じがする不思議な響きの名前だ。
するとイライラしたように志明お父さんが反論してきた。
「『志明』、『志成』なんて良うある名前ざい。何ん可笑しなせ」
この日本では一般的な名前も違うのだろうか。
あまり不審に思われてもいけないので、私は引き下がった。秋実さんは相変わらず何にも気づかず、今度は反対側の席に座っていた若い夫婦の方を見やった。
「で、すくん男が博志兄っちゃつ珠良さん」
すると、志明さんの隣にいた茶髪の若い男の人が黙ったまま軽く一礼し、その隣に座っていた秋実さんと同い年ぐらいの女性が大きな声で挨拶した。
「ハーイ、博志ん妻ん珠良ざーす」
珠良さんは秋実さん以上に化粧がきつく、派手な柄の入ったジャージを着ていた。博志さんも博志で、でかでかと漢字のプリントされたスウェットにじゃらじゃらした金属製のネックレス、といういかにも田舎のヤンキーという格好だった。
いかにも元ヤン夫婦という感じだ。
初対面ではあったが、私は少し苦手意識を持ってしまった。ちょうどそちらを見ていた私と視線が合って、博志さんは缶ビールを片手に話しかけてきた。
「うめえが秋実ん新っし彼氏け?」
「いや、違いま――」
「かー! 秋実め、やるなー」
私が返事をするのも待たず、博志さんはひとり合点したように大きく頷いた。そして彼はなぜか、秋実さんの方を見てふて腐れたように笑った。
「やい、秋実。はーあん人ん事は……」
彼がそこまで言いかけたところで、秋実さんが思い切り彼を睨みつけた。すると彼は、
「うめえ、気張りや」
とだけ意味深なことを言ってきて、そのまま黙ってしまった。秋実さんは焦ったようにまた手前側の席の方を指し示すと、笑顔で紹介を続けた。
「で、彼が志成さんが娘さんが旦那さん、崎池さん」
秋実さんの紹介に応えて、爽やかな好青年という感じの若い男の人が出てきた。
「こんばんはー、崎池偉俊ざす! よろしゅう頼みゃす!」
崎池さんは白い歯を輝かせて元気よく自己紹介した。彼は博志とは正反対の品行方正タイプのように見えた。
この人、さっき俺が秋実さんと付き合っていると勘違いしてきた人だ。
秋実さんはさらに説明を加えた。
「停車場ん方に『崎池マーケッツ』てあるっぱ? あすくん店は崎池さん家がやっちゅって、偉俊さぬゎくったん若っけぜん部長なんざ。体が良せっぱ?」
しかしそれより、問題はまた名前だ。
「池崎さんならぬ崎池さんか……。またミョーな感じだなぁ」
実際に口にしてみると違和感がひどい。
しかし秋実さんは何も疑問に感じていないらしい。
「さーけ? くん辺りぜぁ普通ざに?」
彼女は怪訝な表情で私を見返したが、更に次の親戚の紹介に移った。
「すれで、くん前が麗華おばさん」
麗華さんは志成さんのさらに右隣に座っていたおばさんだった。麗華さんは秋実さんと同じような帯のない着物を着ていた。
「はじめやすて、麗華ざす」
麗華さんは私の方を一瞥してにっこりと笑った。
感じがよさそうなおばさんだな。
私がそんなことを思っていると突然、博志お兄さんが麗華さんにこんなことを尋ねた。
「今日は賢君ぬゎ来ゃんけ?」
するとほんの一瞬部屋の空気が凍りつき、気まずい沈黙が流れた。
「賢は今日む仕事ざげん……」
麗華さんはなぜか視線を逸らし、申し訳なさそうな顔で答えた。後で聞いたが、「賢くん」というのは麗華さんの息子らしく、この日は訳あって不参加だった。
しかし何も事情を知らない私は、空気を読まずに元の話を戻した。
「麗華さんも木中家の方なの?」
すると黙ってしまった麗華さんの代わりに秋実さんが答えてくれた。
「いや、おばさんは『田新』さん。田新さぬゎ昔から木中家ん親戚ざ」
ここで私は再び聞き返した。
「タアラ? 『たわら』じゃないの?」
はじめ「俵」だと思ったのだが、どうやら違うらしい。
「『たわら』ぜぁらん。『田畑』ん『田』に、『新っせ』ん『新』ざ」
秋実さんは丁寧に字の書き方まで説明してくれたのだが、私はまたしても面食らってしまった。
「それで『田新』って相当レアだよね、『新田』とかなら分かるけど……。さっきから順番が逆じゃない?」
田新さん本人の目の前なので、私はなるべく失礼にならないように聞いた。すると秋実さんはまたとんでもないことを言い出した。
「田新なんてますます普通ざい。俺が小学校ん時クレスに五人ぐらい田新さん居ってい」
奈津崎県の「普通」とは。
私の知っている日本とのギャップに悩む私を横目に、秋実さんは平然と紹介を続けた。
「で、あすくん隅っちゃに居るウジンが貝久保さんで、あん男子が佐部くん。あん衆はただん近所ん人ざげん、木中家ん親戚ぜぁらん」
秋実さんの声に応えて、部屋の隅で飲んでいた二人がにっこりと笑った。
「貝久保に佐部? 大久保さんとか阿部さんならまだしも……」
さっきからなんで皆揃いも揃って変な苗字なんだ。
先ほどから変な名前の人が多すぎて話の内容が全然頭に入ってこないのだが、秋実さんはさらに追い打ちをかける。
「あー、後、かっちゃん実家は『山さん』て言うんざぜん、かっちゃん兄っちゃ、『葛おぢさん』が……」
三十年かけて培ってきた日本人の姓名バンクが深刻なエラーを起こし、私はもはや突っ込むのをあきらめた。
●
現在、私は木中家の親戚一同に囲まれている。よりにもよって大勢の人が飲み食いをしている机の真ん中の席に座らされてしまい、今の私は文字通り袋の鼠だった。
どこの惑星の公用語なのか分からない方言が飛び交う中、私は会話についていけず完全に置いてきぼりにされていた。
「ざっぱ?」
「ざっぱ! ざっぱ!」
木中家一同は皆声が大きく、まるでケンカでもするように唾を飛ばしながらお喋りに興じ、その傍らで鳥刺しを箸でつついていた。
ここは日本なのか、それともやはり日本ではないのか。
「ねえ……、あれ大丈夫なの?」
私は皿に盛りつけられた刺身を眺めながら秋実さんに尋ねた。秋実さんは不思議そうに聞き返した。
「何が?」
「アレ、生肉だよね」
それはどう見てもただの生肉だった。私は以前、日本のどこかの地方では鶏肉の刺身を食べる風習があるという話を聞いたことがあった。しかし実際こうして目の前に出されると、恐ろしくて食べる気がしない。思えば、魚なら生でも全く抵抗がないのに不思議なものだ。
「うん、刺身ざい。今日は豪華ざ、魚む肉むあって」
秋実さんは平気な顔で食事を続けていた。
「いや、そういうことじゃなくて、生の鶏肉は死ぬでしょ。カンピロバクター怖くないの?」
命が惜しかった私は奈津崎県の伝統文化を否定した。しかし地元民たちは私が血相を変えて止めるのを見てひどく面白がった。
「ハハッ、すったん怖がらんぜん死なんて!」
秋実さんのお父さんは見せつけるように私の目の前で生肉を口に放り込んだ。
「見てみ、支障無せ!」
お父さんはあっという間に焼酎で流し込むと、得意げにそう言った。
命知らずな奴らめ。
すると、隣で自分の取り分を皿によそっていた秋実さんが見かねて声を掛けた。
「まあ、生ぜん食えるやー処理されちゅるげん、本に問題ねー。イヤなら止め」
秋実さんは私を安心させようとしてくれた。
「……分かりました」
仕方なく私は肉はやめて、お刺身を食べることにした。しかし何の気なしに醤油皿に入っていた黒い液体に刺身をつけ、口に頬張った瞬間。
「辛っ、何これ?」
喉に噛みつくような強い刺激に、私は軽く咳き込んで口を手で押さえた。
「辛子醤油。胡椒が入っちゅんざに」
「胡椒? わさびじゃなくて?」
なんで醤油にブラックペッパーを入れるんだ。
私は顔を思い切り顰めて秋生さんの方を見たが、彼女はきょとんとしていた。
「高野県ぬゎ辛子入れんけ?」
「カラシ? マスタードのこと?」
私はもう一度醤油皿を見たが、黄色いものが混じっているようには見えない。
すると秋実さんは笑いながらこう言った。
「違違、『青唐辛子』ざい」
「青唐辛子か」
最初からそうやって言えばいいのに。
「っていうか、なんでお刺身に青唐辛子醤油つけるの!?」
私は刺身をわさび醤油で食べようとしない奈津崎県民が同じ日本人であると認めたくなかった。
しかし、秋実さん何事もなかったかのように普通に食事を続けていた。
「えー、奈津崎ぜぁ普通ざい? うん、うませ!」
秋実さんは例の醤油をつけた刺身を口に運んで、いかにもおいしそうに顔を綻ばせた。
辛いものは苦手だったので、結局私は台所の棚に眠っていたレモン醤油で刺身を食べる羽目になってしまった。
木中家の方々は突然来た私をとても歓迎してくれた。これを食え、あれを食えと色々残り物を押しつけられありがた迷惑ではあったが、この日私は久しぶりに満腹になるまで食べてしまった。
ここで、私が今回お邪魔した木中家の晩ご飯のお品書きを紹介しよう。この日の夜、木中家の食卓に上っていたものはどれもユニークなものばかりだった。
まずメインディッシュの刺身だが、鳥刺し以外にはサバとムツ、とても食べられるように見えない青い魚、後は今まで見たことのない貝しかなかった。私の好物のマグロやサーモン、カツオはなく、この時点で私は大変がっかりした。
次に副菜の中華風サラダだが、胡瓜や人参、モヤシなどの中に春雨ではない何か細長いゴムのような見た目のものが入っていた。秋実さんに確認したところ、これは細切りにした豆腐の皮らしい。
そして主食が冷汁だったのだが、冷たい味噌汁というのは人生初体験だった。味は悪くないがなんだか体が冷えてしまって、私は後でお爺さんが食べていた「せん麺」という謎のにゅうめんのようなものを少し分けてもらった。
結局一番おいしかったのは、平たい唐揚げのような食べ物だった。豚肉のような香りがしたが、実際に食べてみた食感的には何の動物の肉なのか不明だった。
近くにいたおじさんに「これって何でできてるの?」と聞いたら「ぶらら揚げけ? すりゃバブイん腸ざ」という返答が得られた。「バブイ」が一体魚なのかカエルなのか悪魔のペットなのか見当もつかないが、おいしかったのでよしとしよう。
十時を過ぎた。食事が終わってもおじさんたちは相変わらず飲み続けていたが、私は一人で居間のテレビを見ていた。あれほど元気よくはしゃぎ回っていた子供たちもとうとう寝てしまい、私はテレビを独占していた。
この日本のテレビは一見すると、テロップの出し方も効果音のつけ方も極めて日本のものとよく似ている。だが先ほど一通りチャンネルを回してみて気づいたが、知っているテレビ局や番組は一つもなく、出演している芸能人も誰一人分からなかった。そして、漫才ではなく漫談の方がメジャーらしくピン芸人がステージ上で喋るだけの番組があったり、お坊さんがひたすらお経を読み上げるだけのチャンネルがあったりと、この並行世界は私のいた日本と節々違うようだ。
ここで私に一抹の不安が生じた。
ひょっとして私が知っている日本というのは私の妄想でしかなくて、実はこちらの方が正しい世界なのでないか。
まるで胡蝶の夢のようだが、この逆説的仮説は私が現在置かれている状況を正しく説明できるようにすら思えた。あまりに天才的な閃きに私は身震いし、同時に恐怖を感じた。
「あ、ヘーが居る!」
そんな哲学的な不安に囚われていた時、秋実さんがいきなり大声を出した。するとまだ部屋に残っていた人たちが一斉に宙を見つめた。
「づけ行って?」
「づく?」
彼らは皆手にスリッパや丸めた広告などを握りしめていた。
「ヘー?」
何が起こったのか分からず、私は秋実さんに聞き返した。彼女はこちらには目もくれず、いやに真剣な表情でその場に立ち尽くしたままだった。
「ハイざい、ハイ。虫っちゃ」
私は彼女の視線の先を追いかけた。すると天井の照明の方に向かってブーン、という羽音と共に小さな虫が飛んでいくのが見えた。
「蝿か」
私はやっと理解した。しかしここで素朴な疑問が湧いた。
「でもそれじゃ、タバコの『灰』と虫の『蝿』はどうやって区別するの?」
すると、酔っぱらったおじさんたちが争うようにまるででたらめのようなことを言った。
「『灰』は『へー』、空飛んぢゅる『蝿』は『へーっちゃ』」
「いや、『へー虫』に決まっつる」
「『フライバイ』ざっぱ?」
適当な言語だな。
こんなメチャクチャな方言が現実の日本に存在していいはずがなく、私はやはり自分が正気であることを確信した。
しばらく経って、やっと他の親戚たちから解放されたのか秋実さんがテレビを見ている私の所にやってきた。
「まだ飲むけ?」
秋実さんは焼酎の入った大きな酒瓶を持ち上げてみせた。
「もうお酒はいいかな」
しかし私はもう飲む気がしなかったので断った。すると気を利かせたお母さんが冷蔵庫の方から「ヅース? プーレイ茶?」と聞いてきた。どちらも何だか分からなかったが、私はとりあえずお茶を頼んだ。
「まあ、茶っちゃ飲み」
秋実さんはそう言って、台所からおつまみを持ってくるついでに持ってきたプーアル茶を差し出した。
彼女が私の横に腰かけたとき、テレビではちょうど交通事故のニュースが流れ、現場に居合わせた地元の人がインタビューを受けていた。
「『まーっさ大っき音がすてな、俺ゃ『今朝は台風け』て思うてな……』」
どうせ方言が分からないのでとりあえずニュースをつけていたのだが、地元の人の発話部分だけは字幕がないとさっぱりでまるで外国語のようだ。
すると、秋実さんが私の隣に座ると同時にリモコンを奪った。
「またくったん……、ます面白っし番組見な」
彼女が何度かチャンネルを回すと、画質が古すぎて一体何十年前に撮影されたのか分からない昼ドラのような番組が放送されているのが目に留まった。
雨の降りしきる町で、二人の着物姿の男女が石畳の上でお互い見つめ合っていた。彼らは方言で睦言を交わしながら抱き合った。
「『うめった、好きなんざい』」
「『貴さん……』」
クサい演出もさることながら、穏やかな声で読み上げられるナレーションと叙情的なBGMが古き良き時代を感じさせる。
私がありもしない感傷に浸っていると、番組の最後に女性がグラスで焼酎を飲むシーンが入り、「南海芋焼酎八木野 逢瀬」というテロップが浮かび上がった。
「あれ、これ焼酎のCMだったの?」
すると秋実さんは『惜別』というラベルの貼られた焼酎の瓶を指さして、なんだか楽しそうに説明した。
「うん。『初恋』、『逢瀬』、『惜別』てシリーズになっちゅる。ドゥラマみてーに見えるっぱ?」
彼女はそう言ってニッ、と微笑んだ。
そんな話をしている内にCMから画面が切り替わり、歌番組の再放送が始まった。
「『さて、皆様こんばんは。本日もPop Studio Japanの時間がやって参りました。今日のゲストは奈津崎が生んだ正化の大スター、『レモン姫』こと鈴木ランカはんだす!』」
今回は懐メロを中心とした内容のようで、司会者の呼びかけと共にキラキラした黄色いドレス姿の中年女性が笑顔でステージに登壇した。同時に会場からは拍手が巻き起こり、司会者は関西弁のような独特の言葉遣いで紹介の文言を読み上げた。
「『鈴木はんはかつて一世を風靡した『シンデレラ』のボーカルとしてデビューして以来、その可愛らしい名前と美しい歌声で多くの人々を魅了して来はりました。皆様もようご存じ、2000年4月24日にリリースされてから三百万枚を売り上げたアルバム『First Kiss』のタイトゥルトゥレック『First Kiss』はまさにサイキョー・サウンドを代表する一曲で、日本の音楽史に金字塔を打ち立てました。……』」
私はおつまみのピーナッツを食べながら、司会者の煽り文句に突っ込みを入れた。
「鈴木なんて、スターにしてはずいぶん普通の苗字だな」
すると隣で鶏の足を齧っていた秋実さんがすごい剣幕で言い返してきた。
「何言うちゅる、『鈴』に『木』なんてまっさ可愛さい。ああ、羨まっせ!」
その発想はなかった。
私はここでようやくあることに気づいた。
「……ひょっとして『佐藤』って珍しいの?」
すると秋実さんはまたキラキラと目を輝かせた。
「うん。今まで一回む見て時ねー! 『佐藤幾多郎』なんて、俳優さんみたいで体がええ名前ざ」
先ほどから気になっていたのだが、どうやら奈津崎弁では「体がいい」というのは「かっこいい」という意味らしい。
いやはや、今日はずっとカルチャーショックの連続だ。
「……そっか、ありがとね」
私は秋実さんと視線を合わせないまま、小さくお礼を言った。
「あ?」
彼女は少し戸惑ったように聞き返した。それでも私は、今日秋実さんに出会えた幸運にとりあえず感謝した。
「いや、今日は色々お世話になったから。ありがとね、本当」
すると彼女はフッ、と笑って私の肩を叩いた。
「何ね、急に。支障無せ」
彼女が照れ笑いする横で、私はとりあえずつられ笑いをした――フリをした。
気がつくと、テレビからは「恋はラムネ色」という曲が流れていた。どこかで聞いたことのあるような懐かしい旋律で、私は自然と目を閉じて聞き入っていた。
それにしても、この日本は何もかもが鏡に移したみたく反対の世界だ。
東京ではなく「西京」があって、女でも自分のことを「俺」と呼び、車は右側を走り、猫は鎖につながれている。
「そういや、あの猫。あんなことしてひどくない?」
急に玄関の猫のことを思い出して、私は秋実さんに尋ねた。すると彼女は、
「ニャー助む可哀想ざなぁ……。自由にづっか行けんしゃで」
と、まるで大げさに嘆き悲しんだ。
秋実さんは違う世界の人ではあるが、ああいう状態がかわいそうだと思っているようだった。その辺の感覚が同じであることに私はほっとした。
ニャーすけ、って名前だったんだな。
「せめて、家の中で放し飼いにしたらどう?」
私はちょっとした提案をしてみた。しかし秋実さんはなぜか首を縦には振らなかった。
「まあ、仕方無せ。つん詰まり、くっから逃げられんな」
彼女はそう呟いて、まだ少しグラスの中に残っていた焼酎を呷った。
この時の秋実さんの目は寂しげで、ほんの少し虚ろで、ここではない遠いどこかを見ていた。
もう十一時近くになっていたが、酒盛りは一向に収まる気配を見せなかった。私は一足先にお風呂を借り、一人だけ客間に布団を敷いて横になった。
なんだか色々ありすぎた一日だったな。
日本のようで日本ではない謎の世界に迷い込んで、知りもしない女の子に小学校の同級生だと言われて家に連れて行かれて、その子の家族と一緒にお酒を飲んで……。
「こいつはとんだ不思議の国のアリスだな……」
はじめは神経が高ぶって中々寝つけなかったが、徐々に疲れと睡魔が勝って私は眠りに落ちた。